This Is The One!

俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。





Bruce Springsteen "I Ain't Got You"


JUGEMテーマ:洋楽歌詞・和訳


今の俺はBruce Sprigsteenの『Tunnel of Love』というアルバムに強いシンパシーを感じてしまう。
もっとも強くそれを感じていたのが、数週間前のことで、全曲を訳してみようかなぁなんてそのころに考えていた。
まぁめんどくさくてやってなかったのだが、今日のバイト中にヒマなので訳してみたら、半分以上終わったので、全曲いってみようと思う。
「One Step Up」だけは以前に訳したことがあるので、それを除いて11曲。


このアルバムの発表は1987年。
'84年に発表された『Born in the U.S.A.』が規格外の大ヒット作になったこと、1985年に始まった結婚生活が思い描いたとおりにいかないこと、このアルバムはそれらの悩みの中でつくられたと考えられている。
1988年には、盟友The E Street Bandを解散し、離婚が成立している。
さらに、冷戦が、とか言い続けるとどこまでも言える。

まぁそんなことはけっこうどうでもよくて、歌詞と音楽を味わえば、まずはそれでいい。
作詞家・作曲家としての才能はもちろん、アレンジに耳をすますと、音楽家としてのBruce Springsteenが、やはりそれとして破格の才能の持ち主なのだなぁと感じられる。



一曲目は「I Ain't Got You」。
とてもオーソドックスでシンプルなブルーズ(Blues)スタイル。

少し前の日記において、オトコとオンナについて書いた。
身体を差し置いて社会的属性のみを見られるようなとき、我々はしばしばむなしくなるのだ、と。
我々の人格でなく、オトコやオンナという社会的性別のみを取り出して扱われるようなとき、我々はしばしばむなしくなる。
しかし一方で、社会的性別のみを取り出して扱われたからこそ得られる喜びというものもある。
自分をイイオトコとして扱われたとき、俺はなんだか嬉しくなることある。
社会的に価値のあるものとして、自分が扱われたときの快感。

その種類の欲望が満足感をもたらすことがないのは、常に基準も方向も持たないために、何かを「つくる」ということが不可能だからだ。
自分はこれだけのことをしてこれを手に入れた、と真に自分に誇れる宝物を持てない。
しかし一方で、何かを「つくる」ことに精を注いでだからといって必ずしもむなしさから逃れられるわけではない、ということも、このアルバムの別の曲で歌われることになるわけだが。(たとえば「Cautious Man」)


ともあれ、でたらめな名声と財産がもたらすことのないものへの欲求を、まずはこの歌はうたっている。
それをわかっていてもなお、今の俺は名声と財産をいくらか求めてしまうものでもあるというのは不思議なものだ。
しかも、そのために自分で「つくって」きたものを平気で叩き壊すようなことすらもしかねない、と思える。
人の心というのは、面白い。
欲望の二形態について、もっと弁別してみるべきだとずっと思っているのだが。
きっと、例にたがわず、それは明確に分けることのできるものではないだろうとは感じている。
どちらかを失くしてしまったら、どちらも失くしてしまい、やがて人ではなくなってしまうのかもしれない、と。




I Ain't Got You
Bruce Springsteen



I got the fortunes of heaven in diamonds and gold
俺は天国の冨をダイヤや黄金のかたちで持ってる

I got all the bonds baby that the bank could hold
銀行に目一杯の有価証券も手に入れた

I got houses 'cross the country honey end to end
国の端から端まで家を持ってる

And everybody buddy wants to be my friend
誰もが俺の友達になりたがる

Well I got all the riches baby any man ever knew
今まで誰も知らなかったほどの財産を持ってる

But the only thing I ain't got honey I ain't got you
でも俺が唯一持ってないもの ハニー それはお前なんだ



I got a house full of Rembrandt and priceless art
レンブラントや破格の芸術品で埋め尽くされた家を持ってる

And all the little girls they wanna tear me apart
俺を泣いて慕う女の子もたくさんいる

When I walk down the street people stop and stare
俺が道を歩くと人々は立ち止まって注目する

Well you'd think I might be thrilled but baby I don't care
それはゾクゾクすることだって思うかもしれないけど 俺は気にしない

'Cause I got more good luck honey than old King Farouk
だって俺はキングファルークよりも幸運がついてるんだから

But the olny thing I ain't got baby I ain't got you
でも俺が唯一手に入れてないもの 俺にはお前がいない



I got a big diamond watch sittin' on my wrist
でっかいダイアモンドの時計を手首に鎮座させて

I try to tempt you baby but you just resist
お前の気を引こうとしたが あっさり拒否された

I made a deal with the devil babe I won't deny
俺は悪魔と取り引きもした それは否定しない

Until I got you in my arms I can't be satisfied
お前を俺の腕の中に招き入れるまで 俺は満たされない



I got a pound of caviar sitting home on ice
家には氷の上で冷やされた1ポンドのキャビア

I got a fancy foreign car that rides like paradise
楽園みたいな乗り心地のキラキラの外車も持ってる

I got a hundred pretty women knockin' down my door
100人のかわいい女たちが俺のドアをノックしてる

And folks wanna kiss me I ain't even seen before
会ったこともないやつらが俺とキスしたがってる

I been around the world and all across the seven seas
俺は7つの海を渡り 世界中を巡った

Been paid a king's ransom for doin' what comes naturally
当たり前のことをしていたら いつの間にか王の身代金も払っていた

But I'm still the biggest fool honey this world ever knew
でも俺は相変わらず 前代未聞の大バカ者なのさ

'Cause the olny thing I ain't got baby I ain't got you
だって俺が手に入れてないものはただ一つ お前を手に入れてないんだから









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わたしの中にも ほら、エキゾティカ

JUGEMテーマ:日記・一般
 

近ごろ、このブログのアクセス数が減ってきた。
近ごろ、というのは、ここ数ヶ月ほどのことだが。
右側に表示されているカウンターと、管理者が見ることのできるjugemのカウンターと、その数にはもともとかなりの差があるのだが、どちらも減っている。
まぁ、別にアクセス数かせぐためにブログやっているわけではないし、アフィリエイトで稼ごうという気も微塵もないのだから、それで困ることは何もないのだけど。
ただ、なんとなく寂しいなぁ、というだけ。

理由が思い当たらないのも、なんとなく落ち着かない。
8月にニュージーランドに行くかどうかとか言いながら連投したあとにずいぶん放置したが、更新頻度なんかもともとかなり低いのだし。
記事の書き方はけっこう変わったと思う。
ズラっと書いた長文をボンと放り込むようになった。
かつては、目的地も決めずに書き始めるようなときには短めにしていたような気もする。
というか、もともと長文はほとんど無かったのか。
結婚式やらパチンコの話題もどうなのかな、と思う。
なんかほんとに日記を公開しているよくある学生ブログっぽくなってきたなぁ、なんて喜んでいたが、俺が他人のそれを読む気になるかといえば微妙だ。
読んで面白いものなのだ、とは言えないか。

というか、まぁ、恥ずかしげもなく自意識をさらすだけの、たかがこんな個人ブログにおいてそこまで読み手のことを意識するというのもなんだかおかしな話だが。
で、しかもその小さな小さな迷いをわざわざ当のブログに上げながら考えてしまう、というのも気持ちの悪いもののような気もするが。
本当のところ、何がしたいかというと、みなさんどんなものが読みたいですか、と聞いてみたいのだ。
だが、コメントなんかここ4年ほど、数え切れるほどにしか来ていない。
そういうわけで、こうして独り言の形になってしまうのだが。
年に一枚しかハガキの来ないラジオ番組であっても、こういう形で呼びかけ続けるしか手はないんだろうなぁ。

というかそもそも、誰か見てるんですかねぇ、という不安でもあるのだが。
いや、別に誰も見てなくてもブログはやってしまうのだろうけど。
それに、確実に見てくれているだろう数人もいるのだけど。
それに何より、そもそも右側に置いてあるアクセスカウンターは日に20弱ぐらいは回っているのだし、俺以外に見てくれている人がいることは確かなんだよね。



自分で投げといて自分でまとめる、このマッチポンプな書き込みはいったいなんなのだ、ということについての、もう一歩踏み込んで、最後の正直なところまで自分ではもともとわかっているんですけどね。
原因は2つ。
寂しいこと、と、論文に向き合いたくないこと。

なんだろうね、この寂しさ。
あやうくtwitterに「どうしようにも寂しいのであります」というような、うすらサムいことを投げてしまいそうになるほど。
てなこと言ってたら、明菜サマの「エキゾティカ」流れてきて壊れそう。
さっきは、iTunesでいろいろかけながら合わせて歌う、一人カラオケ風大会をやっておりました。
比喩でなく、泣きながら歌っていました。
こわやこわや。

昨日はLeafの新作、「White Album2 -Closing Chapter-」をやっておりました。
丸戸さん、相変わらずウザいしどいつもこいつも正当な動きしかしないけど、よく書いたよ。
素晴らしい出来栄えです。
メインヒロインの片方、雪菜という女の子、誰かを思い起こさせる。
She reminds me of someone。
Introductory Chapterやったときにも思ったし、このブログにも書いたことだけどね。
ワケあって、その記事は今公開してないけど。
ま、この寂しさの半分はそのせいだろうね。
小木曽雪菜さんのせいですよ。
本当に、彼女はイイ女です。
小木曽雪菜さんのことではないです。

ゲームの中のやつらは、どうにもアタマが悪くて、ちょっと心理学でもかじってればお前のやるべきことはすぐに思い当たるだろうが、とイライラさせられる。(まぁ、丸戸さんは間違いなくかじってるんだろうけど)
なのに、やるべきことに思い当たってしまえば、ちゃんとやり通すだけの根性座ってやがるんです。
どいつもこいつも。


俺は、やるべきことはもう10年ぐらい前からずっとわかっている気がするよ。
そして、ずっとそれを放りっぱなしのような気がするよ。
やるよりやらないほうがいい理由なんて一つとして無いのに、俺はやらない。
不思議ですね、人間というのは。
自分のことだって全然理解できません。


論文のことだって、恋愛のことだって、家族のことだって、就職のことだって、身体のことだって、その他の生活にまつわる全てがそう。
やりたいこととやるべきことが重なっていて、俺はもうそれをやるだけのことなのに。
やりたくもない時間つぶしをいつまでもウジウジとやっていて、このままいつまでも平坦に退屈に生きていけるんじゃないかなんて、きっと心の片隅では思っているのでしょう。
アタマでは、そんなことまったく受け入れられないのに。




ヒドい記事を書いてしまった。
しかし、3年前にこのブログを再開したときにそうだったように、ヒドくてもなんでも、何かを書いて放り込む、ということを欲するときもある。
それは紙のノートでもなく、mixiでもtwitterでもなく、このブログなのだ。
このブログはそういうネガティブな俺のため、そしてもしかして同じように放り込みたい、どこかのネガティブな誰かのためにあるのだ。
初期の記事を見られてしまえばあっという間にバレバレなように、ここは俺の「黒歴史」が満載の場所なのです。
そういうところが、一つあったほうがいいんじゃないか。
もちろん、俺のために。
飲み会でこんなこと言っても、「よくわからないけど大変そうですね」というまったく正当な扱いしか受けられなくて、それで世間とのズレを深めてしまうだけなのだろうし。
誰かのそんな一面を、気が向いたときだけ見ることができるなら、見世物としてもそれなりに面白いだろうし。


重ねるだけ痛々しい、この記事の正当化もそれぐらいにしておいて、さっぱりと風呂でも入って寝やがれ、ですね。
自分で思っているより、たぶんキているんだな。
不思議ですね、本当に、人というやつは。
自分で自分がわかりません。
そこらの人よりかはいくらかわかっているつもりですけどね。
というのはつまり、「自分」を本当に掴まえようとするのは徒労だということぐらいは。
何をするべきなのかも、どうなりたいのかも、何が欲しいのかも、順番をつけて計画をたてることも、冷静にコトバで並べ立てることは綺麗にできる。
そんなことが役に立たない局面も、きっとあるのだろうな。
今の俺は、まだまだ大丈夫なところにいるけども。
ふぅ、I'm tired Joney boy、もう、ただ眠りたい。
このごろ、本当に眠ってばかりだ。
みんな、ごめん。





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ヱヴァンゲリヲン7

JUGEMテーマ:パチンコ


このブログにあんまり書かないけど、実は俺はけっこうパチンコが好きでね。
しかも、中でもエヴァが一番好きなわけです。
というわけで、「ヱヴァンゲリヲン7」さっそく打ってきた。


導入初日だった先週の火曜日に隣の駅へ、今日は一週遅れて導入の反対の隣の駅へ。
丸二日、実戦してきましたよ。
先週一緒に行った友達のKくんは仕事人のほうが断然イイって言うけどね。
俺は仕事人との相性がクソ悪い。
朝一から800とか900とか、そんな思い出ばっかりで、俺の体感スペックでは初当たり500分の1で確変率30%ぐらいだからね、前作の話だけど。

俺が一番打ち込んだのは、エヴァの「使徒、再び」(以下「シトふた」)で、たぶん通常時20000回転以上は回してるんじゃないかな。
終日打って1000回転以上するとして、二十日で20000回超えるか。
じゃあもっとかな。
とにかく、それぐらいたくさん打った。
「シトふた」の演出バランスは素晴らしかったもんなぁ。
先読みはまだなくて、電チューで突確が減るタイプの出始めのころだった。
導入初日(4年前?)には友人3人とクルマで等価の店まで遠出しまして、そこでMが35000発オーバーの13万勝ちをやらかしまして。
ヘソも小さくてアタッカーもキツキツの店であんだけ出したんだから、いったいどれだけ当てたんだって感じですが。
その後、Mは「シトふた」で一週間のうちに二度も50000発をひねり出すという離れ業をやってのけるのですが、これはどちらも自分のカネで打ってないっていうのがMらしいところ。

そんな「シトふた」といえば、全回転が大幅に増えたのも売りの一つだった。
この全回転の出現率も絶妙のところに設定してあって、プレミアムというほど出にくいわけではないんだけど、確変中によく出るかというとそうでもない。
結局、あれだけ回して全種類見れたかどうか、というぐらいなのかな。
「おめでとう全回転」は比較的出やすくて何度も見た。
「カヲル全回転」もわりと出やすくて、アツい予告なのに2コマ手前で止まったらカヲルくん登場の合図。
「さあ 行くよ」で「キターーーーー」でしたな。
確変・時短中なのにボタンプッシュの違和感から始まる「レイ全回転」はあんまり見なかった気がする。
一番好きだったのは「加持全回転」で、「やぁ 遅かったじゃないか」で、涙と共に確変大当たりでしたな。



「シトふた」の話はまぁ置いといて、今回は「7」の話。
確変率が下がってキツいキツいっていうのをよく聞くけどね、俺は先週は確変率ちょうど80%ぐらいで引きました。
その分初当たりが重くて、600付近まで何度も持ってかれたけどね。
今日は逆に確変率がちょうど40%ぐらい。
その分時短中の引き戻しはよくあったんだけど。ほとんど単発図柄でね。
というわけで、二日合わせると、あら不思議、確変率60%じゃありませんか。
よくできてますね。
ただ、先週のお店は全体的に確変メインで10連チャンぐらいしてる台がたくさんあったのに対して、今日のお店はそんなのは皆無。
ま、何かを疑いたくなる人がたくさんいるのはよくわかりますね。
今日のお店で一番多く当たってる台でも30回ちょっとだから。

そのかわり、先週のお店がキツキツだったのに対して、今日のお店はよく回ること。
先週のお店が1Kで17回ぐらいで、今日のお店は24回ぐらい。
だからまぁ、先週は40回近く当たっていながら18000発、今日は26回で13000発。
今日は投資がかさんでしまったので、浮きは小さなものだけど。
朝一から600、三連チャンのあとでまた600。
苦しかったけど粘って粘って、最後に細かい当たりを重ねて玉を増やして浮いたときには、「ひねり出した!!」っていう感じで嬉しくもあるけどね。
逆に、先週は8連、9連、12連とつづくんだけど、一箱で100回転しかしないから、ハマるときの恐怖はでかい。
どっちが疲れるかって言ったら、まぁ結局どっちも疲れるんだけど。
ただ、やっぱ10連とかしないと、脳汁出る瞬間は少ないよなぁとは感じる。
今日は、確変は最大でも3連チャンしかしませんでした。

今日の脳汁出た瞬間をあえて挙げるとすれば、迎撃リーチ(アスカ)で当たったときかな。
あれって普段まったく期待しないけどね。
そこそこアツい予告でも、暗転してあれに行ったら「あぁもうダメだ」って感じで。
その時も期待せずに適当にポチポチしてたら、使徒名が赤文字、キャラ登場カットインが赤文字、ミニゲーム(アスカはロックオン)は動きがめっちゃ遅くて成功、最後のボタンプッシュは「ATフィールド全開!」と、出るものが全部そろって、「ありゃ、まさか当たっちゃうんでないかい」と思った瞬間に当たり。
こういうのを守山アニキにならって「間違っちゃう」と仲間うちでは呼んでますけどね。
前にモンドTVでアニキが海を打ちながら、カメのノーマルリーチで「えーい間違っちゃえ」と言ってふざけて指差してたりしてたらホントに揃って「わぁ!間違ったーー!!」と言ってるのを、Kくん家のケーブルテレビでみんなで見てたわけですが。

あとは、時短抜けの110回転目に何気ないエヴァリーチ(アスカ)で、ボタンプッシュのあとの最後の最後に「突アツ!!」が出て「ふぉ!当たる!!」と思った瞬間に当たったのもケツが浮きましたけどね。
確変昇格してくれたんだけど、もちろんワンセットで。


夕方から座った隣のおっさんは400ぐらい回して、最後の100回転ぐらいはストーリーリーチ行きまくりでハズしまくりで、さすがにかわいそうでしたけどね。
何回やっても最後のボタンプッシュが銀色。
殲滅チャンス「第8使徒」で、途中でレバーのチャンスアップも来て、こりゃあ当たるだろと思いましたけどね。
ボタンプッシュ銀からの「うわぁ」で、もう5回目ぐらいだったんで心の中で笑っちゃったよ。
殲滅チャンスはけっこう平気で外れるからね。
あと、とにかくサムいのは「第6使徒」。
たぶん、初号機リーチよりサムいと思います。
途中でシンジが「なんで俺がこんなこと」みたいなことを言い出すロングバージョンじゃないと、ほとんど当たらない。
意外とアツいのはレバーを引いて「Next」が降ってくる擬似連。
マクロスフロンティアからの演出だけど、エヴァではたぶん一回限定の擬似連で、けっこうアツい展開になることが多い。

ま、結局は、先読みがアツくてもなんでも、その回転でのアツい予告の複合とリーチとチャンスアップが無ければ当たらないね。
その辺はエヴァらしくていいと思います。
時短中にカウントダウン「3,2,1,0」でハズれたときは、さすがに受け入れがたかったけど。


あと、エヴァの最大の楽しみどころといえば、やっぱり確変中だね。
「確確」と「れば確」を待つドキドキ感。
「シトふた」のころは、「れば確」抜きでも初号機チャンスで昇格することはたまにあったけど、今回はほとんど無いかなぁ。
初号機チャンスのときも、昇格するときはボタン連打でほとんど必ず反応しちゃうしね。
意外にもぐいんとか動いて昇格して「助かったー」ってなる場面はほとんど無い。
そのかわり、最後の最後までビーストバトルの期待はあるわけだけど。
ビーストバトルは、一番比率の高い12Rで1000発出るから、それほど悪くもない気がしますね。
あと、普通の15Rも攻略サイトなんかだと1340とか書いてあるけど、オーバー入賞がかなり着実に見込めるので、1400ぐらいはいくと思う。
そう考えると、結局「シトふた」と大当たり出玉の数は変わらないから、スペック悪くないんじゃないかっていう気がしてるけど。
それも、今日は回る台に座ったわけだし、だいたい負けてないからそう思うだけかもしれないけど。
ま、おいおい更新されていくでしょう。



今日、久しぶりに回る台を終日打って、やっぱりパチンコは「回り」だなと思いましたよ。
回らない台を打ってると、ある程度イイ感じで当たってても、通常時になるとイライラしてきてやめたくなるもの。

それで結局、エヴァパチ大好きだなってことでまとめるわけですが。
時短中の「覚醒全回転」なんか、ホールで泣かせる気かぃ、って感じでありまして。
あの確変中をやるためだけにパチンコを打てる。
確変中の殲滅チャンスは「れば確」にしろや、ってのは全国で思ってると思いますが。
まぁそれもちゃんと打つ時間もなかなか取れそうにないので、しばらくは勝ち逃げで放っとくだろうと思う。
疲れたしね。
いい加減に寝よう。
おやしみなさい。









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いとこの結婚

JUGEMテーマ:日記・一般
 

今日はいとこの結婚式に行ってきた。
母方の伯父の次女。
ちなみにこのいとこ姉妹、いとことしてのひいき目をどれだけ差し引いても名古屋では珍しいほどの(失礼!)美人姉妹。
なんの因果か、どちらもお医者様と結婚なさることになったが、一抹の寂しさも無くはない。
名古屋城のお堀端に位置するホテルでの婚礼、これがいわゆる「名古屋婚」というやつかとドキドキしながら向かった。


それがまさに期待通りのフルコースな豪勢メニューで、一点の欠けも許されないという気概が感じられた。
まずはそれぞれの親族ごとに個室に分かれて写真を撮る。
それから親族同士の「顔合わせ」があって、今度はスタジオに移動して集合写真。

ロビーに移動して赤絨毯の上をチャペルに向かって行進。
ここから友人や同僚たちが加わる。
まずはパイプオルガンによる演奏(曲目忘れた)を聞いたあとに、ハンドベルによる賛美歌の演奏が流れる中で新郎新婦の入場。
ちなみにここでハンドベルを演奏している人たちが、後の聖歌隊にもなる。(うち、一人がかなりの美人)
チャペルでは母にヴェールを降ろされた新婦が父と腕を組んで入場し、先に待っている新郎のところまで来たところでエスコート交代、という例のアレ。
そのままご起立願われたままで、賛美歌312番のご唱和。
「いーつくしみぶかーきー」という例のアレですな。
ちなみにうちの母方はクリスチャンが多いので、このご唱和はなかなかよくまとまっている。
ここで眼の青い牧師さんによるお説教ののちに、結婚の誓い。
英語と日本語のバイリンガルでお楽しみいただく。
ちなみに日本語のほうは「アナタタchiは、神のアーィにミchiビカreてェ」、という、ドラマでよく見る例のアレ。
「はい、誓います」×2、指輪の交換、ヴェールをあげて、キス。
「もしもobjectionがある者は今すぐに名乗り出るか、さもなくば永遠に沈黙せよ」という例のアレがなかったのは残念だった。

眼の青い牧師さん(おそらくfromアメリカの東部か北部)による、いかにも型どおりにナマった日本語での進行は、ここまでハマっているとなんだかコントに見えてきてしまう。
しかし絶対に笑うことが許されない状況である。
新郎のほうを見てみると、今にも吹き出しそうな顔でプルプル震えているので「なんだ新郎お前もか」と親近感を抱いたが、よく見ると玉の汗をダラダラ流しているので極度の緊張のほうだった。

何はともあれパイプオルガンに合わせて「ア〜〜〜メェ〜〜〜〜ン」をやったところで、無事に式は終了。
寒風吹きすさぶ中をフラワーシャワーを浴びながら退場。
浴びせているのはもちろん俺たち列席者一同。



で、披露宴のほうが天守閣を望むホールで行われるわけだが、とにかくなにやらいろいろあったので、覚えているものだけ挙げる。
とりあえず、テレビでたまにやる芸能人の披露宴とだいたい同じようなことをしていると思っていただければ、それで合っていると思う。

まずは新郎の挨拶から始まり、次に新郎側から恩師兼上司のあいさつ、そして新婦側からは義理の兄のあいさつ。
ここまで全員医者。
ついでに言うととなりのホールでは内科医学会も行われていた。名古屋は医者が多いのか?
次にケーキカット、ケーキの食べさせ合い。
お色直し。新婦から先に母に付き添われて中座。新郎もしばらくしてから母につきそわれて中座。
ここで、フランチのフルコースがふるまわれる。
ほぼ全品にキャビアとトリュフとフォアグラのどれか、あるいは全部が入っていると思っていただいて間違いない。
そしてそれが、なんと美味い。
背景では、祝電の披露。
つづいて、新婦の母(つまり俺の伯母)による筝曲の披露。
メドレーの締めは、父(つまり俺の伯父)も登場して夫婦合奏による「オーソレミーヨ」。
メシの美味さと、演奏のだしものとしての面白さで、お色直しを待つのも苦痛じゃない。
お色直しは赤のドレスと、新郎のほうはタイとチーフを替えたぐらい?

新郎新婦の友人の方々のからいくつかお祝いの言葉と、二人のエピソードをいただく。
このあたり、メシに夢中なのと、わんこそば式に注がれるビールワインシャンパンを飲み下すのに必死であまり覚えていない。
そしてスクリーンをつかってのスライドショー。
新郎のほうが小田和正の明治生命のあの曲。新婦はミスチルの「365日(?)」。
あまりにもストレートに泣かせにきているので、さすがにここでは泣けない意地がある。
なんか忘れてる気がするけど、二回目のお色直し。
新婦は姉に付き添われて中座。新郎は忘れた。

なんか覚えてないけど親族がテーブルを巡ってあいさつをしたりしているあいだにコースがメインディッシュに差し掛かるあたりで、お色直しは青いドレス。新郎のほうはタイとチーフを替えたぐらい?
ここでキャンドルサービス。全部の卓を周る。
最後に、一番下に火をともすとハートの全体に火が周る仕掛けキャンドルと、ハートの真ん中のメインキャンドルに火をつけたあたりで、俺の涙腺が決壊寸前になるも、ここは堪える。
次に、ケーキカットで使ったでかいケーキを細かく切ったやつを新郎新婦が全員に手渡しで配る。
俺はお祝いと心からの「とても綺麗です」を上手く言えて満足する。
新婦の友人から歌のプレゼント。曲目は新郎新婦のリクエストに応えて「生きてこそ」。
こういうときのkiroroは磐石である。

そして、新婦から両親への感謝のメッセージで、ついに俺の涙が目からあふれる。
親戚だけあって、なまじっか生活の雰囲気だけがなんとなくわかるので、破壊力が容赦ない。
顔がゆがんだり鼻をすすったりするともう底なしになることがわかっているので、とにかく無表情で涙だけを流しつづける。
意地もそこまでは強くもたない。
ま、照明は落ちてるし、泣いてるの俺だけじゃないしね。
俺の胸に去来していたものの中に何が含まれていたかは、明確に言わないけど。


最後に新郎新婦と両親の6人が並ぶ。
代表して新郎の父からあいさつなのだが、酒のせいで話があっちに行ったりこっちに行ったりでこれが大ウケ。
最後に新郎から感謝の挨拶があって、お開き。

たぶん、いろいろ飛ばしてる気がするけど、大まかにこんな流れだったと思う。
都合、5時間半。
食事もフルコースなら式のほうもフルコースで、なんともお腹一杯行き届きまくった結婚式と披露宴だったと思う。
何にいくらかかってんのかを考え出すと気が遠くなるので考えないけど。
実は俺は結婚式自体が初めてだったんだけど。




ていうか、本当は式のことを書きたかったんじゃなくて、帰りの新幹線で思ったことと「Tougher Than the Rest」の和訳を書こうと思ったのに、式のこと書き始めたら止まんなくなっちゃったよ。
ま、つづきはいつかどこかで。
これでなかなかヒマじゃない身空の私はもう寝ます。
おやしみなさい。





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きっと里伽子が歌っているからだ


JUGEMテーマ:日記・一般
 


誰かを好きになる、とは、どのようなことだろうか。
見つけた一つの答えは、その人と一緒にいるのが好きだ、ということ。

私の知らないあなたに出会う。
私の知らないあなたは、私の知らない私を教えてくれる。
一瞬ごとに見せるあなたの違う顔も。
一瞬ごとに生まれ変わっていく私も。
どちらもとても心地よくて、楽しくて、ずっとこうしていたくて。
ずっと見つめていたくて。
それはきっと、「好き」ということなんだろうと思う。




他者性の源泉とは身体である。
私と汝の身体が別のものであるところから、根源的な差異が始まる。
オトコとオンナのあいだには、ときに猛烈な距離を感じることがある。
それもやはり、お互いのカラダになりかわったことがない、ということが一つの理由であるように思える。
お互いの性にまつわる生理現象を体験したことはない。
何かを知るということにおいて、言葉をとおした知識においてそれを知ることと、身体をとおした体験においてそれを知ることのあいだには、おおきな隔たりがある。


 
俺は現代の日本で身体にそれなりに安住しながら社会的にもオトコというロールをそれなりにやっているので、ここより以下はそういう俺の立場としての体験にもとづいたものとして記したい。

自己の源泉とは身体である。
だから、誰かに自分を取替え可能な道具のように扱われたとき、我々は相手が自分の身体や顔を見ていないかのような気にさせられるのである。
相手が見ているのは、自分の身体ではなく、社会的に付随する立場や数字なのではないか、と。
それはまた、存在への不安でもある。
すなわち、自分の呼びかけに相手が応えていない、いや、そもそも届いてさえいないのではないだろうか、と。
ましてや、それが自分にとって特別だと感じているような相手だとすれば、この一方通行はあらゆるものの存在の疑いへの端緒になる。
恋愛というものの恐ろしさの一端がここにある。
特別な相手の前に自分の身体を運び言葉を尽くした結果、おざなりな応答が帰ってきたようなとき、自分が無価値なのではないか、いやそれより進んで、自分は存在しないのではないか、という疑いが生まれるのである。


ところで、当たり前のことではあるが、恋愛は出会いから始まる。
出会いは、常に向こうからやってくるのである。
出会いとは、それ以前には知らなかったようなものを知る、ということである。
我々は知らないもの、一度として視界に入ったことのないようなものに、こちらから声をかけたり手をのばしたりすることはできない。
知らなかった何かを知る、ということにいたる方法としては、自分の意図しないところにおいて行き当たるしかないのだ。
もちろん、それまでに与えられたり獲得したヒントを駆使しながらとりあえずこちらから手を出してみる、ということはできるとはいえ。
それで、恋愛というものはまず出会うところから、つまり、相手が自分になんらかの働きかけをするところから始まるのである。
そのことをLeona Lewisの歌詞はこのように表現している。
「You cut me open, and I keep bleeding love」(あなたが私を切って開いた、そして私は血を流すように愛を流しつづける)
ここに「bleeding」という言葉で表現されているように、それは自ら選べることではない。
このことについて、日本語では「想いがあふれる」という表現がよく使われる。


さて、このようにして誰かを好きになる。
お互いに同じように好きになるのであれば、そこに問題はない。
できる限り会って一緒にいる機会を作って、お互いを気持ちよくする努力を重ねていけばよい。
しかし、現実世界の関係というものがすべからくそうであるように、シンメトリーな関係というのはありえない。
だから、一度でも誰かを本当に好きになったことのある人ならば、その恐ろしさを知っていて、誰かとの出会いにどこかで慎重になることもあるだろう。
それは当然のことだ。
なにせ、近づいてきた人をいちいち好きになってしまっては、裏切られることが多くてボロボロになる。
それになにより、人間が同時にできることとは、原理的に一つだけなのだ。
一つだけのことしかできないのに、現実にはいくつものことをしなければならないから、人生とはつねに間に合わないものになる。
「誰かを好きになる(愛する)」ということはそんなにも特別で大切で貴重なことなのに、テキトーに遊びに来た人に勘違いしちゃったりして無駄に疲弊している場合ではない。
でも一方で、そんなことを言っていて機会を逃しつづけたら、何も実現しないままの人生になってしまうかもしれない。



そんな逡巡のなかで、オトコもオンナも、相手の笑顔や優しさや楽しげな雰囲気の裏側にあるものを、まずは見きわめようとするのだ。
貴重な命を全うする機会を一緒に持つことができるかもしれないと思って他でもないこの自分に声をかけてきているのか、それとも、相手にとって実利的な何かを手伝って欲しくて数ある人手のうちの一つとして声をかけてきているのか。
アメリカの映画なんかで若い恋人が「Would you care for me?」なんて聞いてるのはこのことだ。

オトコとしての俺の立場から言わせてもらえば、ここにおいてオンナのいくらか有利な点とは、相手(つまりオトコ)の決して多くない動機のひとつを知っている、ということだ。
ある程度の知識と経験を得たオンナであれば、近づいてくるオトコの動機の大半はまずは「パンツを脱がしたい」だと知っている。
つまりオンナとしてはここに注意すれば、相手(つまりオトコ)にとって取替え可能で「都合のいい女」になってしまう危険をかなり回避できる。

一方で、オトコにとってはオンナが近づいてくる動機がまったくわからないことがしばしばある。
ここでうっかり「きっと俺のことを好きなのに違いない」と決め付けてしまえば、勘違い野郎として罵られて恥をかいた上に燃え上がった自分の気持ちの持っていきどころがない、という踏んだり蹴ったりな状況に陥るのである。
しかも、あまりにありがちだし、無防備すぎるところも情けないので、友達に同情もしてもらえない。
そこで、注意深く、それでいていつの間にか相手の恋心に火をつけてしまうような魅力と色気も兼ねそなえよう、と決意する。
ところが、相手の動機がわからないために、相手と会う機会を確保しながら「都合のいい男」にならない、というバランスの要点が掴めないのだ。

まぁこれに関しての現時点での俺の態度は単純なものだ。
考えてもわからないことならば、自分で考えてわかること、そして自分でできることを精一杯やる。
できる限り自分の魅力を磨いて、多少「都合よく」なっちゃったとしても会う機会はできる限り確保する。
そして「ここだ!」というタイミングで、自分はあなたに魅力を感じていてできる限り一緒にいたいと思っているのだ、ということを伝える。
「ここだ!」というタイミングというのは、「ここしかない!」というタイミングのことではない。
「ベスト」なところで行動をしようと思うと、その行動はいつまでも始まらない。
「は、そんなん言われても知らねーし、キモ」とか言われても、めげずに、自分としてもそうなろうと思って好きになったわけでもないので俺のせいにされても知らんがなっちゃったものはしょうがないしなろうと思ってなれるものでもないからこそ大切にしたくて言ったまでだ、というところまできっちり言う。
これは理想論ではあるが、まぁなにごとも理想の6割まで達成できれば満足かな、というところまで含めて持論である。
もちろん、理想の完成をめざして頑張ることで初めて、6割を達成する可能性を得られる。



氷室冴子の『海がきこえる』という小説にはオトコとオンナの視点の違いがよく表れている。
この小説に対する反応として、「男の汚い部分が描かれていない」という批判が男性から寄せられたそうだ。
それに対して氷室冴子は「女から見える部分を書いただけだ」と反論する。
一方で、「里伽子のような何を考えているのかわからない女の子に振り回された経験」を語る男性の意見に対しては、「里伽子は女から見ればとてもわかりやすい女の子だ」と語る。
俺も、里伽子の行動はよくわからない。
裏側にある里伽子の事情を知れば少しはわかるのではあるが、現場において対応しているオトコ(つまり拓)にとってはなおのこと、何がなんだかさっぱりわからないだろう。

アニメ版の最後において里伽子は「東京に会いたい人がいるんだ。その人はね、お風呂で寝る人なんだよ」と言う。
原作の小説に無いそのセリフについて、氷室冴子としては「それは言わないよなぁ」という感じであったが「男の人は言って欲しいんだ」ということを楽しんだと書いている。


人の心はシンプルなものではない。
論理的に言えば、お互いに好きだから付き合う、というのがもっともスッキリした方程式ではある。
ところが、現実はこのような式にピッタリ収まるものではない。
まず、「好き」とはなんぞや?というところから始まり、俺の「好き」とアイツの「好き」は同じなのか?というあたりへと進む。
しかしまぁ、そのあたりは通じ合おうにも不可能なところなので、とりあえず通じる言葉に押し込めるしかない。
「好きだ。付き合ってくれ」と。

小説の二人はこのあたりで無理をしないところが魅力的である。
特に、杜崎拓がとにかく穏やかな性格で、里伽子に対して焦るそぶりがほとんど無い。
この辺りが、「男の汚い〜」云々の批判につながるのだろうと思う。
一般的な18,9歳のオトコに好きなオンナがいるとすれば、もう少し焦るだろうと思う。
どっかの馬の骨にかっさらわれはしないだろうか、とか、このまま会えないままに俺の存在は里伽子の中でフェイドアウェイしていくのではないか、など。
ところが拓ときたら、「たまたま住所が手に入ったからちょっくら行ってみるかぁ」という具合に落ち着きはらっている。

短絡的な「答え」を欲するのは、ある種の弱さである。
現実の世界はつねにたゆたっていて、「それは何である」という論理でスッキリまとめられるものはほとんどない。
ところが、このように不安定な状態で落ち着いていられるというのは、簡単なことではない。
特に、若者にとっては。
そこで、状況をいくらかわかりやすいものにしたいとする。
たとえば、「恋人」という立場を手に入れたりとか。

「付き合う」とか「恋人」とかいうことの一つの利点は、何かをする明確な理由を手に入れられることである。
「会いたいから会う」とか、「話したいから電話する」だけではなく、「恋人だから会う」という「正当な」理由を手に入れることができる。
そしてもちろん、それを相手に要求することができる。
「付き合ってるんだから、週に一回ぐらいは会おうよ」と。
しかし、もちろん不安はそこで消えるわけではなく、「本当に俺のことを好きで付き合っているんだろうか」とか、「俺以外の誰かと一緒にいるときのほうがアイツにとっては楽しいのではないか」などと不安を挙げればキリがない。
それで結局、何もわからないのだから「信じる」しかない、という結論に達するのではあるのだけれども。


ましてや、拓は男の子であるからして、俺と同じオトコなのだとしたら、里伽子のカラダが気になって仕方がないはずなのである。
カラダが気になるから好きなのか、好きだからカラダが気になるのか。
それはどちらでもかまわない。
他でもない「武藤里伽子」のカラダを欲するというところまで達しているのであれば、それはどちらでも同じことである。
そして、他のどの女性のカラダでもなく、「武藤里伽子」という他ならないカラダだけを欲するとき、そこにはいくらかの焦りが生まれるはずなのだ。
なぜならば、他ならない「杜崎拓」の身体と他ならない「武藤里伽子」の身体が出会うということは、まぎれもなくオンリーワンな出来事だからである。
オンリーワンな出来事ということは、もしもある機会を逃して出会い損ねたりしたら、文字通り永遠に二度と出会うことはない、ということなのである。
もしも里伽子が他の男と付き合い始めてそのまま結婚して拓と関わりを欠いたままに老いていくとしたら……、それは十分にありえることなのだ。
さらに条件を加えて、「今の」「武藤里伽子」を好きな「今の」「杜崎拓」の身体として「今の」「武藤里伽子」の身体に出会うということは、もはや機会は今しかない。
そして、ではカラダに触れるために目下急務の課題とは、やはり「恋人」になることだろう、と考える。
とすれば、さっさと告らなくては。
告るためには、会わなければいけないし、成功するためには俺の魅力をもっと知ってもらわなければいけないし、とすればとにかく会う機会を増やさなければ。
会うためには俺に関心をもってもらわなければならないが、アイツの中での俺がどんな存在なのかわからないし。
と、以下どこまでも焦りつづけることができるのだが、杜崎拓にはそんなそぶりはない。


身体が「出会う」体験とは、別にカラダを重ねることだけではない。
同じ道を歩く、同じものを見る、あるいは電話で話すことや、メールのやり取りをすることすら、身体が「出会う」体験に数えることができるだろう。
自分とは別の基点から、同じものに見たり触れたりしている何かがいることの驚きと確認である。
「ライトアップで浮かび上がった高知城がぼうっと闇に浮かんでいた。あんなもの、ひとりで見ても電気のムダにしか思えんかったけど、ふたりでいると、やっぱり綺麗や。ライトアップは、この夜のために用意されていたような気がした。」
もちろん、この夜のために用意されていたのである。


焦らずに、まずは一緒に過ごす時間を少しずつ重ねていくことだ、と落ち着いている杜崎拓は「大人」だ。
「大人」というのは、この世の中で何が起こりやすくて何が起こりにくいかをある程度まで正確に見積もることのできる人のことである。
拓は、今の里伽子を取り巻く状況と里伽子の様子からして、いきなり男ができるということはあまりありえないだろうと見積もっているのだ。
結論を急がずに、二人が一緒にいるのが自然に感じられるのを待つほうが上手くいく公算が高いと見積もっているのだ。
自分が無理をして付き合っても面白くないし、里伽子に無理をさせても面白くないということを見抜いているのだ。
共に過ごす時間を増やして身体と身体を慣れさせていき、自然にお互いのことが大切に思える日が来れば、つまりそれが付き合うということだろうと知っているのだ。
もし二人が本当にソリが合わないのならば、そういう日が来ないだけのことだと腹をくくっているのだ。
自分が焦って迫って里伽子と上手くいく(あるいは拒絶される)ことと、じっくり時間を重ねていって上手くいく(あるいは結局合わない)ことと、明日突然里伽子が死んだり男ができたりすることと、どれがどの程度起こりうる出来事であるかを知っていて、自分のできる数少ない手立てが何なのかを知っている。
自分に対しても、里伽子に対しても、すごく丁寧で誠実で、18,9歳の男の子にしてどうしてそんなにこの世になじんでいるのだとうらやましくなる。


この世になじんでいない、つまり「大人」じゃない人というのは、とにかく「言葉」が前に出る。
自然に大切に思えたときに付き合うのではなく、まず「恋人」という立場を欲しがったりする。
自分と相手にとって何が一番望ましいかを考えたり、一番心地いいやり方を選ぼうとせずに、まず「ヤる」ことを考えたりする。
カラダのことというのは、目的ではなく、結果なのだ。
そのために付き合うのではなく、お互いを求めた結果としてたどり着くものなのだ。
もちろん、カラダを重ねることとは、お互いが想い合っていることを実感するよりも、むしろお互いが本当に違う個体なのだということを実感することでもあるけども。
身体が「出会う」ということはすべからくそのような体験である。

あるいは、「言葉」が前に出ることとしては、働き始める前に資格を求めたりするのも同じことだ。
資格を持っている人間よりも、端的に「使える」人間が職場では求められる。
使える人間になるためには、何はともあれやってみるしかない。
もしも仕事をする上で必要になるのであれば、資格をとればいいだけの話だ。

ゲームをやる前に説明書を読むのも同じことだ。
なんらかのルールで成り立つ世界があるとしたら、とりあえずやってみるのが一番手っ取り早くそれを知る方法だ。
わからないことが出てきたならば、そこで説明書を読めばいい。

身体が先にあって、そこから言葉が生まれてくるのだ。
まずやってみる、その踏み出し方がスムーズな人を「大人」と呼ぶ。
社会的なプレッシャーを受けながらとにかくアタマと下半身が先に立って無理をする、そういうことがない杜崎拓はやっぱり「大人」だ。
「男の汚い部分が〜」と言いたくもなるだろう。
そして、言葉が前に出がちなのも、身体を忘れることのできる男に起こりやすいことだろうと思う。
しかし、氷室冴子が描いた杜崎拓は「会いたいのはお風呂で寝る人なんだよ」とわざわざ言ってもらわなくても、自分にできることとできないことをきちんとわきまえているのである。




閑話休題。
一つのものを二人で見ることによって、同じものを見ている誰かが確かにそこにいること、見ているそのものが確かにそこにあること、そして自分が確かにそこにいることを知るのである。
そして、固有の誰かと一緒に何かを見る「あの」感覚は、必ずその人と一緒にでなければ得られないものなのだ。
それを大切に思うところから、この世界を大切に思うことが始まる。
そんな誰かを失うこととは、自分が大切にしていた世界を失うこと、何かを大切にする理由がなくなること、自分がどこにいるかわからなくなること、などなど。


そういう危機に瀕するようなとき、助けてくれるのは友人や家族や同僚や、本や音楽や映画。
つまり、新しい「意味」や「自分」をつくりなおすのを助けてくれる人やもの、そして一つのことに寄りかからずに生きていく方法を教えてくれるもの、なのである。
そして、胸に残る後悔や痛みは、何かを失ったことのしるしでもあるのだが、それ以前に何かを手に入れたことのしるしでもあるということに気づくとき、こみ上げるのは一つの感情だけ。
それが口をついてでるとすれば「ありがとう」なのである。

そういうことを、西野カナの曲に託しながら書いてみようとしたが、時間と集中力に限界があるのでやめる。
いつか、今日の記事をもとにしながら、西野カナの3枚のアルバムのレビューができたらいいと思う。




追記
「アイがあるから」のほうに、いい文章があったので引用しておく。
「最近、クラスの女のコを見ていてわかったのだけど、里伽子に限らず、ある種のコにはタイミングがすべてらしいのだ。そして、そのタイミングの鍵はすべて向こうが握っている。こっちはルールを知らされずにゲームに引っ張り込まれた武器なしのキャラクターみたいなもので、わけがわからない。そのタイミングをうまく掴む男が“いい人”“一緒にいて楽しい人”になるのだ。ひどい話だ。」(p.69)


あと、里伽子を見ていて思い出すのは、以前バイトしていたお好み焼き屋のオーナー、スナックのママですね。
今は42歳のはずだから、里伽子とほぼ同世代かな。
「俺はあんたのことばっかり考えて生きてるわけじゃねーぜ」と何度思ったことか。




posted by kach 20:18comments(2)trackbacks(0)