This Is The One! - innocent -俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。
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JUGEMテーマ:読書
JUGEMテーマ:読書
世界に傑作は数多くあり、それぞれがもはやどこからも誰からも干渉されないような独立した地位を築いている。 アーシュラ・K・ル=グウィンは稀有の作家で、そういった傑作をいくつも世に送り出している。
このブログでも取り上げてきた 『所有せざる人々』 『アースシー(ゲド戦記)』 『マラフレナ』 それぞれが完全に美しい、独立した地位を築く傑作だ。
「西の果ての年代記」三部作も素晴らしい。 ハイニッシュユニヴァースものと呼ばれる中では、俺は特に『内海の漁師』には大きな感動を覚えた。 『なつかしく謎めいて(Changin Planes)』の完成されていながら親しみやすいそのとっつきやすさは、ル=グウィンの世界にそれほど触れた事がない人にも安心してオススメできる。(それでいて表題どおり、謎めいている。もちろん。謎めいていない傑作?) しかしこのブログに取り上げた事がない作品で、確固たる傑作だと俺に思えるものは以下の作品達だ。
『オールウェイズ・カミング・ホーム』 これは小説というよりなかば学術書の形態をとっているが、驚くべき事に、未だ存在した事のない世界に関する様々な記録の書である。 小説とは何ぞやという議論がされることがたまにあるが、この自由さ、すべてを取り入れる形式的柔軟さというものが、小説の本質ではないかと俺は思っている。 つまり、形がないことこそが形というか、小説というあり方の決まりが無い事が、小説のあり方というか。 そして『オールウェイズ・カミング・ホーム』はすさまじく面白く、興味深く、数多の謎を問いかけ、味わい深い印象を心に残す 。
『ラウィーニア』 これも傑作としか言いようがない。 作家の想像力、創作力とはこのようなものだ。 語りかけてくる声に耳をかたむけ、それをかたちづくる。 形式、文章、ドラマ。 ル=グウィンはすべてを駆使して、心に響く作品をかたちづくる。
そして今日、俺は『世界の誕生日』という短編集を読み終わり、傑作というものが端的に傑作でしかない事を噛みしめている。 この社会に、この宇宙に、この世界に疑問を持つ態度こそ、俺がル=グウィンから最も学んだものではないだろうか。 『オールウェイズ・カミング・ホーム』、『ラウィーニア』につづいて、俺が特に傑作として取り上げたいのは、この短編集の中でも「失われた楽園(Lost Paradices)」だ。
先週の投稿で、学習院大学の新学部のキャッチコピーを目にしながら俺が感じ、考え、書いたことがある。 その疑問、その表現、その思考は、この「失われた楽園」という小説を読んだ事で、さらに深まった。 以前、俺は自分がどうしてこんなに上手いこと読書ができるのだろうと考えた事があった。 その時に自分に、あまりにぴったりな本をいつも見つけてきては読むのだ。(その時に考えた結論の仮説の一つは「きっと俺は誤解して(読み違えて)いるのだろう、というものだった) 先週の「(現状は)そのとおりだと思う。しかし(もしも)…」という記事を投稿した後で、その週に、こんな小説に出会うとは。 もしも先週の俺の記事を読んで、何について何を言っているのか理解できない人がいるならば、ぜひこの『世界の誕生日』に収められた「失われた楽園」という小説を読んで欲しい。 俺はこの小説を読む前に、あの記事を書いて投稿しておいてよかったと思う。
この「失われた楽園」という小説には、あらゆる傑作がそうであるように、すべてがそこにある。 すべてとは何だ? すべてとはすべてだ。 私のすべて。 作者のすべて。 この世界のすべて。 傑作が一つあれば、人生を表すのにそれ以上の、それ以外の何かはいらない。 私達の生きる喜びが、悲しみが、疑問が、肉体が、そこにある。
そして俺はすべてを持った作品がそこにある事を知って、他にもいくつもある事を知っていて、それでいて俺も書く。 俺の傑作に出会うために。 それ以外に、することがあるだろうか?
ここでは「失われた楽園」以外の短編について触れなかったが、それ以外のどれもがもちろんとても面白いものである。 たとえば「セグリの事情」という小説を読み終えた時、そこにもあらゆる疑問と味わいの粒がつまっていると思った。 おそらく「失われた楽園」がこの短編集の最後に収められていて、しかも一番長いものであるから、読み終えた後の感動の中でそればっかりについて語ってしまうのも仕方ないのかもしれない。 これ一編で、一冊の本として出しても充分に傑作として通用するものである。 それなのに、それに匹敵する読み応えの、深い深い作品がいくつもこの短編集には入っている。 まったく読む価値のある本というものが、この世の中にはあるものである。
「聞いて。ルイース、あなたは自由よ」 「きみはぼくを自由にできない」とルイースは言った。 私はあなたによって縛られ、閉じ込められている。 あなたは私を縛る気も閉じ込める気もないのもわかっている。 だから、仮にあなたが私を解放しようと努めてくれたとしても、それによって私が自由になることはない。 私を縛っているのはあなただけれど、私を自由にできるのはあなたではない。 「そうだ。ぼくは自由だ。ふたりとも自由だ」 論理的には自由だけれど、しかし現実的にはそうではない。 もしもそこから開放される未来を探すなら、詩的な思考が求められる。 なぜなら、おそらく私が次に自由になる時は、あなたから開放される時ではなく、別の誰かに(何か)に「つかまった(とらえられた)」時だから。 誰に、どこに向かうべきかは、心が決める。 心を知る思考法があるとすれば、それは詩的なものだろう。 言葉は時に、役に立たないだけではなく、私をいたずらに混乱させ、こんがらがせてほどけにくくさせるから。 「いうな、シン! いうんじゃない」 私は歩み去るより他の何もできない。 でも、どこへ?
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特に系統だった読書をしなくなって久しいが、単にキリッとまとまった短編小説が読みたくて、ビアスとホーソーンを借りてきた。 (あと、ローソンという作家も借りてきたが、これはオーストラリアの作家で、図書館で見つけるまでは知らなかった。)
アメリカ人というのは現実主義者と言われる事があるけれども、むしろ大いに迷信深いところがある。 たぶん現実主義者なのかもしれないが、あまり科学主義者ではない。 謎の新大陸に分け入って住み込み、そこに生きる原住民の世界観もまた謎に満ちている中で、自分たちの歴史や世界観を一から作っていくというのは、とてつもない負担のかかることなのだろうと俺は想像する。
ビアスとホーソーンの短編は、語る力の強さが、俺の他の読書と比べると抜きん出ている。 マーク・トウェインという人だけが、あのような力強い語りの技術を持っていたわけではないと教えてくれる。 19世紀のアメリカに生きていた人たちの、あれが文体であり話法なのだ。 書かれなかった言葉たち。 その土地を生きた無数の人々が互いに相手に向けて発し合った、相手に感銘を与えてやろうというおしゃべりたち。 笑わせたり、驚かせたり、深くうなずかせたり。 そういう無数のおしゃべりがあり、この力強い語りの文体がある。
現代アメリカにおいては、そういう語りの力は文学の中よりも、むしろ学問的読み物の中にこそ生きているような気がする。 (かつてジョン・アーヴィングの短編や『ムーン・パレス』を呼んだ時、俺は何を感じればいいのかわからなかった。ずいぶん昔の事だが。) もちろん、スポーツニュースのキャスター同士の掛け合いや大統領選を見ていると、人々のおしゃべりのパワーは今でも生きていると感じられるし。
JUGEMテーマ:読書 読んだ。 ちょっと昔までの岩波文庫ってあんまり信用してないんだけど、版の新しいこれには何の不満も抱かなかった。 これで、最近の岩波文庫には、けっこう信頼を寄せる気になったかな。 ただ、もしかしたら実はもっと笑える小説なんじゃないかと思いながら読んでたところもあるけど。 トウェインのすべての書物とか、ジャック・ロンドンの『どん底の人々』ぐらいの笑いを期待して読み始めたわりには、その点においてはそこまででもなかったな。 19世紀アメリカで、科学の発展と、第三世界とかネイティブアメリカンの世界に触れることで、キリスト教的世界観が相対化される。 そういう、絶対的な価値が存在しない世界に放り出されてみると、やっぱりジョークのセンスは磨かれるよね。 それに、メルヴィルもトウェインもロンドンも、死線をくぐり抜けてきた人たちだし、とにかくしゃべりまくるアメリカ人だし。 だから、そういう笑いを期待して読んだけど、それほどでもなかったな。 トウェインやロンドンがキリスト教をほぼ完全に相対化しているのに対して、メルヴィルは最後までやっぱりキリスト教徒だった。 クィークェグを始めとする異教徒の乗組員たちと運命を共にすることで、神の(ひいてはこの世のあらゆるものの)相対化に向かっていくようだけれども、最後までは行ききらない。 レヴィヤタン(鯨)をどこまでも持ち上げて神に近づける記述は、たぶん冗談ばかりでもないんだろうと思えるし。 それでも、たとえばこんな気の利いた一節もあったりするんだけど。 「貪欲ちゅうもんは生まれつきで、生まれつきちゅうもんは、どうにもならん。しかれども、その邪悪なる性質をどうしておさえるか、そこが肝心だべ。たしかに、おぬしらはサメのごとくある。んだが、おぬしらのなかのサメをおさめると、天使のごとくある。天使ちゅうのはおさえのきいたサメのことだべ。さて、いいか、兄弟たちよ、ちょっぴり行儀よくやってみるべぇ。」 中巻 p.259 この小説を読んでいて、とても気持ちがいいのは、メルヴィルの、知識への態度。 いかに知識を得ながら、いかに知識を捨てて軽やかに生きるかっていう挑戦がある。 さすが、最先端の知性だね。 現代人(「近代人」じゃないよ)はこうでなくっちゃ。 頭の右側にロック、左側にカントをぶらさげて歩いているようじゃダメなんです。 そこから油を絞って製油して貯蔵したら、さっさと捨てて身軽に航海しなきゃ。 記述のスタイルもまさにそのもの。 思想や知識を紙の上に開陳しようなどという動機で書かれているわけじゃない。 自分にとって適切な豊饒な主題を見つけて、それについて誠実に記述してみたら、自ずと筆者の思想や知識は開陳せざるをえない。 「幹から枝が生え、枝から小枝が生えるように、豊穣なる主題から、あまたの章が生まれる。」 中巻 p.238 たぶん俺の才能は、どんなに目一杯まで高めに吹っかけて見積もっても、メルヴィルと同等ぐらい。 冷静に言えば、もちろん低めだろう。 とすれば、精一杯まで頑張ってみたところで、『白鯨』程度(失礼!)のものしかできない。 じゃあもういいや。 遊んじゃおーっと。 どうせ25歳までしかもたないと思ってた命だ。 美しいものをとか、形あるものをとか、なんかもう俺の「個」に対してこだわるのはやめた。 楽しいこと、気持ちのいいことだけやって生きて、あとはもうふっと風になって消えちゃおう。 俺のことを直接知っている人以外には誰にも知られないままに、知っている人とはたくさん楽しんで。 みんなで、できるだけ良い思いができたらいいな。 そのうち、書きたくなったら書くさ。 書くよりやりたいことがあったら中断しちゃうさ。 それもメルヴィルと一緒さ。 でも俺は、自分のやってる事業が気高いものだなんて思わないさ。 何もかも、単なる遊びさ。 頑張って気ぃ張ってたどりつけるところは、メルヴィルがすでに見せてくれているさ。 とまぁ、そんな気分になるぐらいには卓越した上出来の小説だと思います。 主題のまわりにさまざまな対象があって、それらを象徴にして、人生に関するいくつもの詩を描く。 よくできてましたね。 特に俺の気に入ったいくつかの章について、勝手に紹介する。 紹介したからといって、その値打ちが下がるような程度の小説ではないので、そんなことは気にかけないようにどうぞ。 第23章 「風下の岸」 この章は、4年の航海から戻ったばかりで、休むいとまもなく、また航海に乗り出していくバルキントンという船乗りに捧げられた「墓石なき墓標」である。 嵐の中にあっては、船は座礁を避けるために、岸辺に近寄ることができない。 船のほうでどんなに港に焦がれ、港では歓待の準備ができていて、その光が眼前に見えていようとも、危険を避けるためには、船は故郷へと吹き寄せる風にあらがい、嵐の大海へと突入することになる。 「これで読者諸氏よ、バルキントンがおわかりだろうか? この耐えがたい人間の不条理が、たとえ片鱗にもせよ、見えてくるような気がしないだろうか? すべて深遠で真摯な思考とは、大海原のように広大無辺な独立心をたもとうとする魂の不屈な努力にほかならないことがおわかりだろうか? にもかかわらず、天と地の邪悪な風は人間の魂を欺瞞と屈辱にけがれた岸辺へと追いやろうとはかっていることが、おわかりだろうか? だが、陸影なきところにおいてのみ、神のごとき岸辺なく広大無辺の真理があるとするならば、たとえそこが安全であろうとも、不名誉にも風下の岸に打ち上げられるよりは、あの咆哮する無限の海にほろびるほうがましではないか! おお! そうなら、いったい誰が蛆虫のように陸地にむかってはずってゆくだろうか! ああ、この恐怖と戦慄のきわみよ! この苦悩のすべてもまた空(くう)の空たるものか? さあ勇気をだせ、勇をふるえ、バルキントンよ! したたかに耐えるのだ、半神よ! 汝が水没する海のしぶきから、まっすぐに汝の神格が立ち上るのだ!」 上巻 p.282 よくわかる話ですね。 本当に賢くあろうとするならば、「答え」に安住することはいつまでも許されない。 どこまでも、世界を「問い」として受け取り、消化し、問い返すより他にない。 港が差し出す援助、その安楽さ、快適さ、睡魔にも似た誘惑こそが、真理の敵なのだ。 人間の真理ってのは、そういう寂しいものだ。 俺はどっちに行くにしろ、楽しむよ。 こういう、誰でも知ってて簡単に言えそうなことを、「嵐の中の船と、風下の岸」という象徴を見つけることによって、鮮やかに描き出すことができる。 詩だね。 隠喩だね。 第96章 「製油かまど(トライ・ワーク)」 深夜に舵をとっていた主人公は、製油かまどの火を見つめすぎて幻想にとらわれ、気づかぬうちに船を逆走させて転覆させそうになる。 そして、唯一の真の灯明たる太陽以外のすべての灯りを、欺瞞の幻灯であると断定する。 太陽は地上のすべての荒廃や悲哀をかくさないばかりか、地球の暗黒面たる海が地球上の3分の2をおおっていることもかくさない。 「それゆえ、悲しみより喜びのほうが多いような人間は、真実の人間ではありえない」。 「悲しみの人」イエス・キリストや、「伝道の書」のソロモンのような人間こそが、真の人間なのだ。 「ある種の人の魂にはキャツキル山のワシがいて、そのワシは暗黒の深い谷間に舞い降りることもできれば、ふたたびそこから飛翔して光かがやく虚空に消えていくこともできる。そして、そのワシがつねづね谷間をすみかに中空を飛んでいるにせよ、その谷間は山中にあるので、たとえ谷底に降下しようと、山にすむワシは、平地の鳥どもより、なお高く天かけているのである。」 下巻 p.p.74,75 なんとも見事な言い回しだね。 ちなみに俺は、これからラブレーのように(というかまぁ、ラブレーの小説のように)生きたいと思っていますよ。 ぽう! 第98章 「収納と清掃」 鯨をとらえた後の、すべての製油作業が終わると、その油やカスを上手く利用して、船は徹底的に清掃されて磨き上げられる。 ところが、今しもすべての清掃を終え、ひと捕鯨の全工程を終えたピカピカの船で洗いざらしの服に着がえてボタンをかけていると、その瞬間にも「鯨だ! 潮吹きだ!」という声がかかる。 そこで、ふたたび、あの辛く厳しい仕事を一からやり直すのだ。 「だが、これが人生だ。なんとなれば、われわれ生身の人間は、労苦のすえに、世界という巨大な体内からわずかながら貴重な香油を抽出し、それでもなお隠忍自重をかさね、この香油にみそぎして現世のけがれをおとし、魂が仮ずまいするこの肉体を清潔にたもちながら生きる術を覚えたとたんに、『鯨だ! 潮吹きだ!』という声がかかる。こうなると、魂は潮吹きとともに霧散し、われわれはまた新たなる世界とたたかうべく船出して、若い生命の古いしきたりにしたがって、また一からやりなおすのである。 おお、輪廻よ! おお! 二千年まえ、いとも善良に、いとも賢明に、そしていとも安らかに死んでいったギリシャの賢人ピタゴラスよ! このまえの航海で、わたしは汝とともにペルー沖を航行していたのだ。なんと愚かなことか、わたしは知らずに、素朴な新米水夫に転生していた汝にロープの練り継ぎ(スプライス)を教えたものだ!」 下巻 p.p. 82,83 これは、俺が数か月前に「Longing」というタイトルの記事の前半に書いた内容と、ほぼ同じことを言っていますね。 しかし、そのキレ、そのハクにおいて、どれだけ歴然とした差があることか。 まぁこれを読んだところで読まなかったところで、俺の人生には大した違いはないんですだけどね。 ただ、こういう文章に出会うと、そこには快楽があるというだけの話で。 もちろん、人生に、というよりも人格に違いをもたらす読書もありますよ。 ただ、俺にとっては『白鯨』はそうではなかった、というだけの話。 輪廻の概念を当たり前のように取り入れているあたり、メルヴィルのキリスト教への相対化もだいぶ深かったとは思うのだけど。 唐突に、『白鯨』とはあんまり関係ない話で終わっちゃうけど、Bruce Sprigsteenの「Land of Hope and Dreams」を聞くと、なんかもうブルースの腹くくった感じが伝わってきて泣けちゃうよね。 もちろん、ビッグマンのサックスがあるから泣いちゃうのでもあるけれど。 ブルースはアメリカ的キリスト教徒として生まれて、いろいろあったけど、結局はアメリカ的キリスト教徒として死ぬんだ、っていう覚悟が伝わってくる。 死に場所を見つけた人の、風通しのいい、いさぎよさ。 結局、ブルースはそこを捨てなかったなぁっていうのは、異邦人としての俺なんかにしてみれば、少しさびしいところでもあるけれど。 それでも、同士さ。
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