This Is The One! - innocent -

俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。





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ブログ移転のお知らせ

 

https://theone-strong.com/

 

2005年12月からJUGEMでつづけてきたこのブログですが、このたびレンタルサーバー借りて移転しました!

よそのブログサービスでなく、自腹のサーバースペースでの運用になります。

 

 

本気度をこめて、ブログタイトルも「This Is The One - strong -」としました。

JUGEMのこのブログも、JUGEMのサービスが続く限り残しておこうと思います。

こちらは「This Is The One - innocent -」と名づけることにしました。

まだ本当に未熟でイノセントだった18歳の頃からつづってきたブログです。

今見ると赤面するような内容がたくさんあるけれど、それもまた俺のありのままの姿という事で残しておきます、

 

 

「This Is The One - strong -」

こちらのリンクから飛べますので、見てください。

そしてよければ、ブックマークしてください。

読み応えのあるものをたくさん書いていく予定ですので、ちょくちょくのぞきに来ていただけたら光栄です。

 

今後ともよろしくお願いします!

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posted by kach 17:14comments(0)trackbacks(0)





マーク・トウェイン 『王子と乞食』 と、ドジャース と、その他

JUGEMテーマ:読書

 

 

7回無死のピンチでクローザーがマウンドに上がる。

もう後がないのだ。

何せ、ポストシーズンのディビジョンシリーズ第5戦。

勝ち抜けには3勝が必要なシリーズで、2勝2敗だ。

1点のリードを守りきるため、7回であろうが一番いいピッチャーをつぎ込む。

普段なら9回の1イニング専門のはずのクローザーを、7回にすでに投げさせる。

クローザーはすべての力を注ぎ、7回のピンチをしのぎ、8回も0点に抑える。

しかし9回、上位打線に回ったところでついに限界をむかえる。

2番と3番をおさえるだけの球が投げられず、連続四球。

もう、これ以上のピッチャーは残っていない。

しかしここで、最も頼りになる男が、まさかの復活を遂げる。

シリーズの第1戦と第4戦で登板し、チームの2勝を一人で稼いだ絶対的エースだ。

サイヤング賞に輝くこと3回。

投手としてのあらゆる栄冠を手にしたが、唯一手に入れていないのがチャンピオンリングだ。

第4戦で力を出し切ったはずの左腕が、最後の2アウトを取るためだけに中1日で再び立ち上がる。

9回ウラ1アウト、1点差、ランナー1塁2塁。

対するは4番。

去年のポストシーズン6試合で7本のホームランを放ち、マウンド上の絶対的エースからもそのうちの2本を打った男。

この男を倒さずして、次には進めない。

 

 

これは漫画の話ではない。

田中マーくんの話でもない。

今日のロサンゼルス・ドジャースの話だ。

リーグチャンピオンシリーズでは、またマエケンの出番があるだろう。

頑張れマエケン。

ゴーゴードジャース。

 

 

 

ここからまったく関係ない話をする。

例えば合コンのような席で、大人というものはどこかでいくらか寂しいものなのだと知る。
人としゃべりたい、時間を分け合いたいものなのだと。
どうして大人になるまでそれを知らずにいたのかと思えば、自分には家族がいたからだと気づく。
俺が家族の事をこころよく無視していたとしても、注がれる視線をいつも感じていたのだ。


一人で自分をしっかり支えていられない人を、弱いものだと俺はいつも見てきた。
たとえば結婚したくて仕方ない女性など見れば、まずは大人として自立すればいいのではないかと。
しかし独立心を保って自立した大人もやはり、どこかで心の糧を得てはいるのだ。
本を読んで先人に学ぶ事で、事業や仕事を通じて社会に参加して寄与する事で、メディアや会社の中で誰かに認められる事で、心の糧を得ている。
ある特定の誰かに頼らないからといって、その人が独立しているとは簡単には言えまい。
頼る対象を単純に分散させているだけかもしれない。


結婚してみて、あの寂しさが心のどこからもほとんど消えている事に気づき、その点ではいいものだと思う。
心の渇きを癒そうとして、手をかけ労をついやして、誰かの心と肌を得るのに忙しくなる事はなくなった。
俺の人生にとって、何が良くて何が良くないのかは、俺にはわからない。



ここまでの話とはまたもや一切関係ないが、マーク・トウェインの『王子と乞食』を読んだ。
たぶん二度目、もしかしたら三度目かもしれない。
「トム・ソーヤー」と「ハックルベリー・フィン」だけ読んでいる人は、マーク・トウェインの語り部としての本当のすご腕には気づかないのではないかと思う。
最初にマーク・トウェインの何を読んだらいいだろうかと問われたら、俺はほとんど迷わずその二冊を挙げるけども。
この岩波文庫のあとがきには、トウェインは自分自身では「王子と乞食」と「ジャンヌダルク」を一番気に入っていたという事が書いてある。
そうかもしれないとも思わせる。
というのは、マーク・トウェインは作家であると同時に研究者であって(どんな作家だってそうだろうが)、この二冊において研究者としてのマーク・トウェインにとって一番興味が深いであろう事を書いているからだ。
「ジャンヌダルク」におけるトウェインの筆致は、「ラウィーニア」や「オールウェイズ・カミング・ホーム」におけるル・グウィンの筆致を思わせる。
どちらも、筆者にとって深く知り尽くした運命について語る筆致だ。
そして物語とは元来そういうものであり、語り部と元来そういうものであったのではないだろうか。
ホメーロスがおそらくそうであったように。
知り尽くされ、研究し尽くされ、語り尽くされた運命について、語る。
コメディ作家としての、あるいは古典児童小説作家としてのマーク・トウェインしか見ない人にとっては、語り部としてのトウェインのこの根源的な力量については、知らないままだ。
こうした優れた語りに触れる事は、心をとても喜ばす。
ほとんどあらゆる運命について無知なままの我々は、こうした物語から何かを悟り、こうした物語に何かの居場所を見出す。
おそらく、故郷のようなものを。
そしてその故郷には、未来も含まれている。


叙事をするのだ、叙事を。

おそらくこのブログに最も欠けている、叙事を。

まあそれはそのうち。
 

 

人間の感覚にとって幸福というのは、状態のことではなく運動なのだと、どこかで聞いた。

何らかの感覚が一定の条件に達したら、それが幸福だというのではない。

ある状態から別の状態への移動の時に、人間は幸福を感じるのだと。

 

たとえば幸福の尺度というものがあるとして、プラス10の位置にいるから幸福を感じる、というものではないらしい。

プラス5からプラス10へと移動していくこの運動にこそ、人間は幸福を感じる。

あるいは、ただ漫然とプラス8の位置にいるよりも、マイナス10からマイナス8へと移動する時のほうが、幸福の感覚は強い。

こういうことを知った時、確かに自分の感覚に照らしてみて、納得できると感じた。

そんなことは、自分の人生で何度もあったと思った。

停滞による無感覚も、這い上がる恍惚も。

 

そういう事を知っていると、失敗して、恵まれなくて、落ちていく、崩れていく感覚の中にも、救いはあろうというものだ。

上がるためには、下がらなくてはならないのだから。

いつまでも上がり続けてはいつかプラス10にたどりついてしまう。

プラス10の位置にいても幸福を感じられないならば、人生のどこかで幸福を感じるためには、いつか必ず下がる時は必要なのだ。

人生にはどうしても下がっていく時期がある。

そんな時、下がっていくおかげでいつか上がれると、自分を慰めよう。

 

 

エドワードが馬小屋で仔牛と共に眠る幸福を、俺はこういう感覚で共感するのである。

また、トムがいつしか王の待遇をありがたいとも思わなくなることを。

落ちた人間には、救われる幸福がある。

恵まれた人間には、無感覚の罠がある。

 

 

 

 

 

 

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スゲェかっこいいブログ


土日も1時に帰ってくるような生活の中で、なんかスゲェかっこいいブログ見つけたから貼っとく。
正直、世界観変わる。
自分のブログ記事の淡白さに泣きたくなる。
スゲェかっこいいブログ見つけたから貼っとく。


http://www.boiled-pasta.guru/entry/2016/04/27/いまからお前の生存戦略を告げる%E3%80%82


こないだの「勇者たち」の記事で俺が言いたいことって、たぶんこういうことだった。
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(現状は)そのとおりだと思う。しかし(もしも)…

 


山手線に乗っていて、学習院大学のキャッチコピーが目に入る。
「世界は君を待っていない。君が、世界をつかみにいけ。」


そのとおりだと思う。
個別の個体に対して、世界が特別の興味を示す事はない。
そう信じていたのはエホバを心から畏れていた人たちぐらいで、彼らの頭上には天界があり、天界は彼らに視線を注いでいた。
今では、我々の頭上には半無限に広がる虚空がある。
我々の足下には地獄ではなく、地表と地殻とマントルと、それを過ぎればまた地殻と地表とがあり、その先にはまた虚空が広がっている。
そして我々に注がれる視線はない。
誰も、私を待っていないのである。


誰もあなたを待っていないから、もしもあなたが何かと関わりたいと思うのなら、あなたは自分から行くしかない。
自分から声をかけ、自分が何者であるかを証明し、自分に目を向けさせるよう仕向けなければならない。
もしもこの世界の一角に位置を占めて、自分なりの生活をしていこうと思うならば、世界はあなたをそのままで生かしておいてはくれない。
あなたの居場所はそこに用意されていない。



人間が、自分の生きる場所を自然の中から切り出していた頃、自然は我々を待ってはいなかった。
人間は、生きのびるために、いつも自分の生きる場所をつかみに行くしかなかった。
そして今でも、生きることは、自分が生きていく場所を確保することは、まことにしんどい。

しかしなぜだろう、と思う。
人間の生きる力がこれほど強くなった今でも、生きることがこれほどしんどいのはなぜだろう。
我々の生産力は上がったのではないのか。
我々は農産物を収穫しやすくなったのではないのか。
我々は安全で快適な環境を守りやすくなったのではないのか。
我々は法律や制度を発展させてきたはずではないのか。

今日の我々が置いていかれ、生きるためには居場所をつかみに行かなければならない相手というのは、今となっては人間である。
あのキャッチコピーにおける「世界」とは、人間世界のことだ。

人間世界もまた一つの自然であり、「世界」と言おうが「自然」と言おうが、いずれにせよ我々はいつも何かと対峙し、向き合っている。
今日の我々は、自然に対して生きる場所を確保できるよう働きかけ、強くなった後で、今度は同胞同士で競り合っているのだ。
自分の実力を証明し、生きる場所を確保したとしても、今度は人に対してその場所を渡さないよう防御の戦いをしている。
それで我々はいつまでもしんどく生きている。

これについて私は考えなければならない。
我々は、人間は、そうであるより他ないのか。
生まれ、育ち、生きていく時に、世界との関わりはやはり、自分が誰であるかを証明し、世界の一角に生きる場所を占めるためにつかみに行くより他ないのか。
それとも、我々がもしも次の世代のために、生きる場所を用意してやれるとしたら、人間はどうなるだろうか。
敵意でなく愛を、不安でなく安心を、試すのではなく信頼を、与えられるとしたら、何かが変わるだろうか。
そういう事を、考えている。

 

 

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おやすみ


また明日もよろしくね
と 言い合って眠る今日の夜
明日もまた二人の日だよ

月並みと知りながら
ヘドが出ないどころか
愛おしく 守りたい
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