This Is The One! - innocent -

俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。





コンビニ人間とホリエモン

JUGEMテーマ:読書

 

 

以前、俺はこの世の中での生き方がわからなくて、ずいぶんと混乱していた事がある。

その時に、いくらかの怒りと共に思ったのは、この国(社会)の教育は機能していないということ。

小学校から数えて12年から16年間も教育を受けてきて、俺はどうすれば生きていけるのか、教育をどのように活かせばいいのかさっぱりわからなかった。

誰も俺に、生き方を教えてくれなかったと思った。

 

 

『コンビニ人間』を読んで、そんなことを思い出した。

やらなくてはならない事があるなら、やってはいけない事があるなら、守らなければならないルールがあるなら、明文化しろ、書面化しろという、主人公の言う事、よくわかる。

はっきりと提示もしないくせに、そのぐらい察しろとか、当たり前だろとか言われても、困る。

困るだけじゃなくて、ずるいと思う。

みんなやってるんだからお前もやれとか、自分で考えて行動しろとか、ずるいと思う。

こういうルールにしてるから守ってねとか、あなたにこの結果を出してほしいと思ってるからそのように行動してねとか、そうやって言って欲しい。

誰かを自分の思ったとおりに動かしたいなら、責任をもって指図してくれよと思う。

 

結果的に俺は、倫理やルールは守っておくとそれなりに利益になるものだから、守れるときには守ったほうがいいものだということを、勉強して学んで、今はなんとか人と関わり合いながら生きている。

どんなルールがあるのかとか、なんでそのルールがあるのかとか、俺はできるだけ人に伝えられる人間でいようと思っている。

 

 

 

ホリエモンの本を読んで、ホリエモンはちゃんと自分がよかれと思ってやってきたやり方を人に伝えようとしていて偉いなと思った。

自分が生きてきた中で学んできた事を、上手くいったやり方とか失敗したやり方を、他の人たちに伝えようとしている。

それはもちろん偏りとかゆがみはあるけども(むしろ特定の方向にぶっ飛んだ人だけども)、自分はこれがいいと思うんだということを、強い主語を明確にして伝えてるから、偉いと思う。

こういう人が多ければ、俺も、コンビ二人間の主人公も、もうちょっと困らずに生きていけたんじゃないかなと思う。

 

主語を、強く、明確に。

常識でしょとか、当たり前でしょとか、察しろとか、無言の差別とか、「わかるよな?」とか、「普通」とか、「なんでやらないの?」とか、ちょっと勘弁してくれと思う。

教えてください。

お願いですから。

アホなりに、必死にがんばってますから。

 

 

 

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あなたについて考えている (-氷室冴子 「蕨ヶ丘シリーズ」-)

JUGEMテーマ:読書
 


小説家の天分というのは、「複数の視点を持つ」ということだ。
クンデラは、初の小説家としてセルバンテスを挙げている。
ドン・キホーテが踏み出した道こそ、相対性の道である。
ドン・キホーテ、サンチョ・パンサを始め、数々の登場人物たちが現実を勝手に理解して、それぞれの見解をしゃべり倒す。
そこでは、共同体から与えられた、誰もが共有する先験的な見解というものを、ほとんど期待することができない。
それは、各々が完全に別個の視点を持った他なる個人である、という、個人主義への道でもある。
小説はまさに「個人主義の文学」であり、個人主義の時代の芸術なのである。


ということを考えたうえで、氷室冴子という小説家は、稀有な存在である。
まず単純に、作家としての力量が素晴らしい。
俺が頭をふりしぼって切り開いてやっとこさたどり着いた境地が、簡単な一節にまとめて書いてあったりして、かなわんなぁと思うことはよくある。
よくぞこんなに人間について多くのことを知ってるものだと感心させられる。

そういう優れた小説家が、良き時代のコバルトで書いていたというのが、また面白いところなのだ。
当時のコバルトの位置づけというのはたぶん、少女マンガが小説でも読めるというようなものだったのだろう。
だから、面白いのは、それぞれの小説が、同じ舞台の同じ登場人物をめぐって書かれていたりもするところだ。
読者としては、雑誌連載のマンガのつづきを手に取るような気持ちで、またあの登場人物たちに会えると思って嬉しくなって読むことができるというわけである。
それでいて、連載もののマンガや現代のライトノベルと異なるのは、単純に同じタイトルの巻数が増えていくのではなくて、それぞれに別のタイトルを与えられた別の作品であるというところだ。
それぞれの小説はやっぱり独立して完成した作品で、それ自体で一つの小説世界をつくっている。
同じ人物を、同じ土地を、同じ出来事を、別の作品の世界観の中で眺めることができる。
たとえば横浜であったり、北海道であったり、あるいは時代も土地も現代日本とはまったく異なった場所であったり、どこかで誰かがそれぞれの人生を生活している息吹を感じることができる。
「あの場所では、あの人とあの人とあのコたちは、今日もあんなふうに生きているのだろう」と。



『なぎさボーイ』、『多恵子ガール』、『北里マドンナ』というのは、北海道の地方都市である「蕨ヶ丘」というところを舞台にした連作で、それぞれに主人公が異なっている。
蕨ヶ丘の第一中学校から、蕨町高校へと進学する五人組がいて、「なぎさ」「多恵子」「北里」というのが、そのうちの三人の名前である。
あと二人、三四郎と野枝のうち、三四郎の物語は、これよりも先に書かれた『蕨ヶ丘物語』に収められている。
時期としては、中学一年生から高校二年生まで、というあたりで、それぞれの作品で微妙にズレてもいるが、同じ出来事をそれぞれがどのように見ていたのか、ということを知ることもできる。
そして、そこが小説家氷室冴子のすごいところなのだが、「なぎさ」「多恵子」「北里」というそれぞれの登場人物の視点をみごとに描くのである。
それぞれにはそれぞれの人生があって、都合があって、想いがある。
それをお互いに、予想したり、疑ったり、期待したり、がっかりしたり。
この「わからなさ」、どうしようもない遠さこそが、個人と個人の隔たりなのである。
小説は、それを明らかにする。

しかも、それに重ねて、これらの小説を感動的なものにしているのは、彼ら彼女らの年齢である。
中学一年生から高校二年生、12歳から17歳。
まさにその年齢こそが、お互いがどうにも離れた他人同士としての個人なのだ、ということに気づかされる年齢である。
それまでは、自分以外の人、友達や親などの想いや都合などかまうことなく、ただ一緒に遊んでいればみんなだいたい同じような気分だろうと高をくくってやってこられたのが、いよいよせっぱつまる出来事などに直面して、これはいったいどういうことなのだろうと考え悩みながら、そうか他人のことは考えてもわからないのだからそれなりに思いやって尊重しなくちゃいけないのか、と身につまされるのが、いわゆるティーンエイジというやつである。
なぎさも多恵子も北里も槇修子(そういう登場人物がいるのだ)も、それぞれの素敵なところもあれば足りないところもあって、そういう一人ひとりが切磋琢磨する様子こそが現代の人生であって、それを描くのが小説なのだ。
必死で誰かのことを考え、自分のことを考え、そうであればこそ自分の醜いところをまざまざと見つめなくてはいけないこともあり、人とかかわるのは良いことばかりというよりかは、むしろ悪いことばかりのような気がするときもあるのだけど、それでも誰かのもとへと向かっていくのは、心がそう命じるから。

そういう、人生の輝かしい側面、というよりも人生そのもののようなものを、氷室冴子は見事に鮮やかに描くのだ。
なぎさがいて、多恵子がいて、北里がいて、それぞれのもとに何やらいろんな人が押しかけてきたり、自分からいろんな人に突っ込んでいったりしながら、そこで起こる様々な出来事を連ねて、そこに一つの世界を作り上げていく。
「あぁ、蕨ヶ丘というところで笑ったり泣いたりしていた人たちがいるんだなぁ」ということを、読者の心の中に届けるまでに。
氷室冴子に見えているさまざまな風景、人物などを、読者の心へと投影していく。
それはもちろんお互いに同じようでいて違うものを心の中に描いてもいるのだけど、でも、ある世界で生きていた同じ人物を同じように知っているというのは、なんだか素敵なことで、そこには小説、というよりも芸術や表現活動一般の素敵なところがある。
それぞれは別の個体同士だけど、同じものを見て語り合うことはできるし、自分に見えているものを頑張って表現すれば何か伝わるものはある。
別々の個人同士で寄り添いながら生きるのだから、お互いの懸け橋になるそういう活動は、どうしても大切にしていかなければならないのだ。
それには、もちろん技巧や形式というものがあり、現代に生きる人々はそれを少なからず学びながら生きているのである。
その中で、時代によって何が参照されたり、何が好まれるというのは変わるものだ。
だから、どうかこんなに素敵なものがいつまでも人々の手元に残るといいな、というのがファン心理で、そういう気持ちでこのブログを書いている。
それで、いつしかファン心理を超えて、あの作品に感謝をささげる気持ちで、自分も作品を作り上げてみたくなったりもする。
作品というものはすべからくそうやって作られ、そうして世界にまた一つ素敵な作品が増えもするのだけど、素敵な作品が一つ新たに生まれるということは、その分だけ過去の作品たちは見られなくなっていくということでもある。
そもそも自分が見つめてきたあらゆる作品に感謝をささげるつもりで作品を作ってみたところ、それは結果的に、感謝をささげるつもりだったそれらの作品の死に寄与することになる。
それはまさに親殺しであり、どうにも心苦しくて必死でほうぼうであの作品への愛と感謝を語ってみたりもするのだけど、それもやはりすべての作品について完全に名誉回復をというわけにはどうしてもいかないから、自分を育てたあらゆる作品のほとんどはこの世から少しずつ影を薄めていく。
人の連なりとはそういうものであり、そういう連なりの大きな流れの中で、個人は生きる。
氷室冴子がいなければ、今の俺はいなかっただろう。
やがて氷室冴子は誰にもかえりみられなくなり、やがて俺も誰にもかえりみられなくなり、氷室冴子の名前も俺の名前も、この世のどこからも消えて無くなる。
それでもそこには、氷室冴子が育て、俺が育て、さらにその次の誰かが育て、さらにその誰かが育てた次の誰かが、その世界でやっぱり切磋琢磨しているのである。
氷室冴子がいなければ、俺がいなければいなかったであろう誰かが、そこにいる。
逆のほうを振り返ってみれば、その人がいなければ氷室冴子も俺もいなかっただろう誰かが、そこにはいるのである。
たとえ、少しの影も見えなかったとしても、氷室冴子が書いて、今の俺がここにいるということは、その誰かも必ずいるのである。
その連なりの言語的な側面が文学であり、小説は文学の一側面である。



小説家の心に、ある人物が浮かぶとき、それは一つの命なのだ。
一つの命が生まれるとき、母の中にあるものが外から来た父と出会ってそこにまったく新しい命が生まれるように、小説家の中にあるものが外から来た何かと出会ってそこにまったく新しいものが生まれる。
そうして生まれた人物は、胎児が胎児なりのやり方で、母に依存しきっていながらも固有の命を生きているように、小説家に依存しきっていながらも、人物は固有の命を生き始める。
そういう人物が生まれたとき、小説家は書かずにいられるのか。
胎内に命を宿したとき、母は生まずにいられるのか。
それを生むことこそが、生命のモラルではないのか。
生むにせよ、無かったことにするにせよ、それぞれには適切な仕方で対処しなければ、母体の命も危ぶめる。
それが生命の厳しさだ。
この世の厳しさだ。
誰の意思でそこに生命が生まれたわけでもないというのに。
しかしそれこそが生命の喜びであり、個人の喜びでもあるのではないか。
何かを求めるとき、意識するにせよ意識せざるにせよ、その欲求の先には必ず誰かにつながっていくものがあるのではないか。
誰かにつながっていくということは、そこに何かを生むということであり、何かを生むということはやがて自分が死ぬということだ。
何かを求め、そこに喜びを見出し、喜びの先に何かが生まれ、生まれた何かがまた新たな喜びをもたらし、それを育て、育った何かが自分の死を連れてくる。



氷室冴子が筆をとらなかった、最後の10年間について、俺はときどき考える。
氷室冴子は、書かなかった。
野枝の物語も書かなかった。
現代では、自分の面倒だけをみていられる自由が人にはある。
ましてや、あれほどの仕事を果たした氷室冴子のことだ。
そうしたところで、誰の責めも負わないだろう。
氷室冴子の書かなかった小説は、いつまでも永遠にこの世に生まれることはなく、それと出会うことによって成り立っていたかもしれない俺の人生の可能性も生まれない。
野枝の物語と出会えなかったことを思うと俺は寂しい。
でも少なくとも、野枝について考えることはできる。
どうしようもないことはどうしようもない。
ひとまず、それで満足しようじゃないか。
片想いで終わる恋もある。
恋がかなわなかったことについて、呪いと憎しみを抱きつづけるのは、誰にとっても望ましくない。
でも、恋をすること自体をあきらめてしまうのも望ましくない。
俺が俺の人生を全うしたいなら、いつかは恋を実らせて、子供を生んで、育てて、愛が連れてきた死に抱かれるように消えていきたい。
心に嘘をつかずに、欲しいものには手を伸ばして。
強く、強く生きたい。
個人主義の時代の倫理は、個人の心に拠っている。
共同体主義を唱えずとも、個人の幸福を追求すれば、そこから倫理は生まれるはずだ。
氷室冴子はきっと、子育てを終えて、仕事もやり遂げて退職したおばあちゃんのように、ただのんびり過ごしていたんだろう。




「その子はいつも、あたしをどきどきさせた。いつも感動そのものだった。
 重要だったのは、大事だったのは、いつも考えていたのは、たったひとりの男の子のことだった。それだけだった。今も、それだけが重要なのだ。・・・
 離れれば離れるだけ、あの人は知らない人になった。他人の顔した人になった。
 知りたい。
 もっともっと、あの人のことが知りたい。
 あたしはちょっとだけしか、あの人のこと知らなかった。それだけのことだ。」 『多恵子ガール』 p.257

「なぎさくん。
 きみ、知らないでしょう。
 あたしがどんなにきみが好きだったか、どんなに憧れていたか、どんなにきみに関わるすべてが好きだったか、知らないでしょう。
 あたしは順序をさかさまにしてた。
 嫉妬したってより先に、それくらい君が好きだっていうのを、ずっと、どれくらい好きだったかって言うのを忘れてた。
 これから、わからせてあげるよ。思い知らせてあげるよ。逃げ出したら追いかけて、わからせてあげる。殴られたら、殴り返してわからせてあげる。」 『同』 p.259






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津村記久子 『ミュージック・ブレス・ユー!! 』

JUGEMテーマ:読書
 

俺ぐらいになると、その作家を気に入るかどうかは、読む前からけっこうわかる。
というかまぁ、最初から気に入るつもりで読み始めているから気に入るのかもしれないけど。
逆のパターンもあって、気に入らない作家も、読む前からけっこうわかる。
これも、気に入らないつもりで読み始めているからかもしれないけど。

たとえば、筒井康隆なんかは、どうしても楽しめない。
俺の好きな作家、たとえば長島侑なんかが筒井康隆の『七瀬ふたたび』について書いているのを見かけて、この人が気に入るならば俺も気に入るかもしれないと考え直して、またトライして読んでみたりするのだけど、やはり気に入らない。
こういう作家は、たぶんいつまでたってもウマが合わないのだろうと思う。
小説家として以外の、評論家だとかなんかそういうところでのインテリとしての筒井康隆はたぶんそれなりにセンスがあるのだろうと思うのだけど、特に何か極端なこだわりがあるような人には思えないんだよなぁ。
ただまぁ、それはいいんだ。
大事なのは、気に入るほうの作家だ。



津村記久子の小説は、読み始める前から、これは俺にとって充実した読書になるだろうという予感があった。
それはたぶん、ツイッター上でフォローしている、俺が割と信頼を置いている読書家の感想を目にしてからのことだ。
あとは、会社員やりながら書いていることだとか、タイトルの感じだとか、装丁の感じだとか、とにかく、それらのもろもろすべてをなんとなく評価しての、なんとなくの感覚である。
気に入るだろうと予想しながらも、何度も手に取りながらも読み始めないでいる作家というのもたまにいて、たとえば俺にとってはクンデラがそういう作家だったということは、前にこのブログのどこかに書いた。

そういう予感があったから、どんな作家なのかちっとも知らないくせに、出版順に網羅的に読んでいくかということにして、最初に手をつけたのがデビュー作の『君は永遠にそいつらより若い』だった。
そこから、『カソウスキの行方』、『婚礼、祭礼、その他』と来て、次がこの『ミュージック・ブレス・ユー!! 』である。



なんつーか、良いものに出会った直後にそれを褒めるときって、あまりにも言葉が出てこないものだけど、今もさっき読み終わったばかりだからそんな感じ。
それまで読んだ小説でも、「あぁこの人はロックを聞いてきた人だなぁ」というのは明らかにわかったのだけど、それを正面から扱ったのがこの小説とでも言うべきか。

かつての、それこそ高校生だったころの俺を知っている人なら、俺もたいがいロックにイカれていたということはわかってもらえるだろうと思う。
18歳のころからは、50枚以上のCDをリュックに入れて持ち歩き、電車の中などでガチャガチャとポータブルCDプレーヤーを開いて入れ替えながら、いつでもヘッドフォンを耳に当てていた。
高校生の俺はどちらかというとU.Kだった。
Bloc Party.、Franz Ferdinand、Kasabian、Keane、Hard-Fi、22-20s、Kaiser Chiefs、Razorlight、The Subways、The Zutons、Snow Patrol、その他多数のもはや名前も思い出せないバンドたち。
たぶんここに挙げたバンドのほとんどが2004年か'05年のデビューのはず。
俺が高校2年生から3年生のとき。
当時は「ポストパンクリバイバル」だとか「ニューウェイブリバイバル」だとか言われてて、それを言い出したのはもちろんrockin' onだとかの業界なわけだけど、なんの知識も持たないただの飢えた子どもだった俺みたいな若者は、雑誌だとかCD屋で必死で情報を探るしかないわけで、業界の言葉には敏感にならざるをえない。
それに触発されてGang of FourとかThe Pop GroupとかエコバニとかP.I.L.とか聞いたけど、もはやなんの印象も残ってないのがちょっと虚しい。


当時の俺は、音楽こそが人生なのだと思っていた。
というよりも、音楽は人生よりも大事なのだと思っていた。
しかもたぶん、この小説の主人公のアザミほどにも、人と関わってはいなかっただろうと思う。
それこそ、トノムラぐらいに、人と関わるのは下手だっただろうと思う。(それを認めるようになったのは、つまり「俺は人付き合いが下手なのだ」ということを認めるようになったのはけっこう最近のことだけど。)
勉強をしたという覚えもないし、将来のことなんか少しも考えなかった。
親の追及をかわしたくて予備校にかよったりもしたけれど、予備校に行っているふりをして、予備校のある街の大きなTSUTAYAに行っていた。(思い出すと、親に頭が上がらない思いで泣きたくなるが)
そこは品ぞろえが多摩地方で最大というところで、しかもプレーヤーが置いてある視聴コーナーがあったので、ずっといられた。
視聴コーナーからは思いっきり駅前の遊歩道が見下ろせるようになっていて、その風景は今でもすぐに思い出すことができる。
このブログを始めたのも、俺と同じように音楽に飢えている誰かが、少しでも新しい音楽を発見できる助けになればいいと思ったからだ。


それから、俺は人生について、当時よりは少しはよく知るようになった。
Badly Drawn Boyの「歌は答えなんかじゃ全然なくて、ただの人生のサウンドトラックだ(And songs are never quite the answer, Just a soundtrack to a life)」という歌詞や、イエモンの「僕が犯されたロックロールに希望なんかないよ あるのは気休めみたいな興奮だけ それだけさ」という歌詞を、なんの抵抗もなく受け入れられるようになった。
音楽は人生そのものではないし、ましてや人生よりも大事なものではないけれど、人生を助けてくれる、彩ってくれるものだ。
今は、そういう位置づけで音楽とは付き合っている。



数か月前に、2006年から使っていたPCが壊れて、それとほぼ時を同じくしてiPodも壊れた。
それで、俺がため込んだ音楽データのほとんどが消えた。
もちろん、バカみたいな量のCD-Rをひっくり返せば、そこから再現できなくはないのだけど。
もはや、それをやる気にはならなかった。
去年の12月にiPhoneを買うときに、他の在庫がなかったのでたまたま64GBのやつを買っていた。
そこで、まぁとりあえず必要そうなものだけをiPhoneに取り込んで、それ以外は放っておくことにした。


そういう基準で選んだ、今の俺が必要だと思うバンドたち。
それすら、無ければ無いで、それなりに生活できてしまうのだとは思うけれど。

Antony and the Johnsons
Arcade Fire
Badly Drawn Boy
Bloc Party.
Bruce Springsteen
Cat Power
Chrisopher Cross
Coldplay
Damien Rice
Death Cab for Cutie
Fountains of Wayne
The Hooters
Jack's Mannequin
John Frusciante
John Mayer
Johnny Cash
Kanye West
Lady Antebellum
Manic Street Preachers
Mates of State
Meat Loaf
Metronomy
New Order
Prince
R.E.M.
Red Hot Chili Peppers
Rod Stewart
Sade
Sam Cooke
Stars
The Stone Roses
Tegan and Sara
U2
Van Morrison


なんというか、自分でリスト化してみて、「なんか、オトナやなぁ」という印象を抱いてしまったけども。
Chrisopher CrossとかRod Stewartとか、昔の俺が見たら「お前マジかよ」って感じだろうけども。
まぁそれでもロック寄りのものを集めてみると、こんなもんだろうかねぇ。
Kanye Westは、ほとんどロックみたいなもんだろ。
ま、これぐらいあれば飢えで苦しむことはないかな、という感じで選ぶと、こんなもんなんだろうねぇ。
ちなみに、Fountains of Wayneは『君は永遠にそいつらより若い』を読んでから入れた。
Mates of StateとTegan and Sara、Cat Powerあたりは俺のシュミなんだけど、なんでMetronomyが入ってるかというと、ちょっとヒネったのが聞きたくなったとき用、なんだろうねぇ。
今まで気づかなかったけど、'70年代より古いのがほとんど入ってないんだな。
Johnny Cashは「American Recordings」シリーズだけだしな。


こうしてみると、あの頃アホみたいに聞きまくってたバンドたちの、ほとんどがもはやあまり聞くこともないんだなぁと気づかされる。
上に挙げた、2004年ごろデビューのバンドたちのうち、今のiPhoneに入っているのはBloc Party.ぐらいか。
それすら、たまにあのドラムが聞きたくなったとき用に入れてあるだけで、実際にはほとんど聞かないもんなぁ。
あの、熱にうかされたような日々はいったいなんだったのだろうと思わなくもないけれど、「グルメ(美食家)であるためにはグルマン(大食家)でなければならない」って上野千鶴子も言ってるしな。
それで、グルメになって残ったのが、「ロック」というテーマでこのリストですかぁってのも、なんか、お行儀よすぎかな。
でも、これでたぶん飢えは十分にしのげるんだよな。
特に、Antony and the Johnsons、Bruce Springsteen、Coldplay、Johnny Cash、Prince、Van Morrison、このへんの主戦級たちさえ残っていればなんとか。



『ミュージック・ブレス・ユー!! 』についての話に戻りますけどね。
音楽聞いてたあの頃っていうのもあるんだけど、高校っていうのも確かにこんな感じのとこあったわぁ、と思わされるところもいろいろ。
人と人との距離感っていうかね。
津村記久子の小説には、いい感じの女のコがよく出てくるよね。
それに反して、いい感じの男のコがほとんど出てこないよね。
もうホントに、自分が男であることの嫌なところをまざまざと見せられるようで。
俺は高校生の時分には、たいそうイヤで醜くて汚い人間だっただろうなぁと、今となっては自分でもそう思う。
そして、そこから演繹して、今でもたぶん他人にとってたいそうイヤなやつなんだろうなぁと思うと、背すじがヒヤッと冷える。
津村記久子の小説には、そういう力がある。
いつも、倫理を突きつけてくる。
そうでない文章作家がいるのかといえば、まぁすべからく文章とは倫理を問うものだと言えるのかもしれないけど。
まぁそんなふうに一般化することには大した意味はなくて、つまるところその問う対象だったり切り口だったり角度だったり、問い方こそが作家性なのだろうけど。
それで、津村記久子は良い作家です。
いや、ホントに。
どこまで行っても絶対に俺には書けない文章がある、と思うわな。
ファンです。





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津村記久子 『君は永遠にそいつらより若い』

JUGEMテーマ:読書



たぶん、このタイトルは、英語で思考してみる人の頭から出てくる一言だよなぁと思いながら、手に取った。
「そいつら」というところには辛辣さを感じるし、面白そうだと。
You're forever younger than them.(?)
こういう、単純な事実を簡単に言うのは、英語のほうが上手い。
初出を見たら、元のタイトルは「マンイーター」といったそうですけども。
そう聞くと、確かにそれはそれでふさわしいように思える。
どんな名を冠するかによって、やはり印象は変わる。



あんまり正しくあろうとし過ぎると、何もかもが、というよりも人生が、他人事になる。
しかし、正しくあろうとしなければ、人生なんてでたらめで面白くもない、というのもまたおそらく事実だ。

この小説の主人公のホリガイさん、とても好きだ。
とっさの場面でしょーもないことばかりが口をついてしまって、いつまでたってもまともに人と関われてる気がしない。
自分をなだめすかして、説得づくでおとなしくさせておいて、それだからいつまでも自分は欲しいものにありつけないのだと責める。
自分が欲しいものにありつけないだけならまだしも、そのことでかえって他人に対してもおろそかにしてしまったような結果になる。
繊細で聡明で、自分の人生を台無しにしないように気をつけているせいで、なんだかいつの間にか部屋で一人きり、しょーもないことばかりをして過ごすようになっている。
人生を大切にするって、こういうことだったかな、と首をかしげる。
まぬけで笑えて、やっぱりちょっと悲しい。

何もかもに対して正しくあろうとすると、ただヘラヘラ笑っているだけの味気ない人になる。
それでいけないか、と問われれば、少しもいけなくないけれど。
ただ、それも一つの利己主義の現れというか、ただ保身のための日和見だとしたら、やはり醜いだろうとは思う。
ホリガイさんは、ようやく自分の捨てきれないこだわりと向き合い、そうと決まればパワフルに突っ込んでいく。
平等性だとか正しさはひとまず棚上げだけど、その姿は人間的で魅力がある。
それに、そこにしか人生はないのだろうとも思う。



小説の出だしから幕切れまで、一貫したテンションの文体で統一しててすごいなぁと思う。
全体の構成も、部分の細かなつくりも、ゆきとどいていてすごいなぁと思う。
俺は近ごろピアノを弾き始めて、弾いていると途中からだんだんリズムが狂ってくるのだけど、まぁでも楽しみで弾いてるんだから今の俺が楽しんで弾きたいリズムで弾けるんならなんでもいいや、適当に指にまかせてやっちゃえやっちゃえ、と思う。
ダメに決まってんだろ。
形式に向かって自分を合わせていくために、ピアノの前に座るのだ。
でたらめに楽しみたいだけなら、さっさと布団にもぐって眠っちまえ。
やっぱりここまで完成させてこその、小説だよな、作品だよな。

笑えて、考えて、いい小説だ。



「そんなふうにいろいろ考えつつも、言ってしまったら河北うんぬんよりも自分の道徳がおしまいになってしまいそうなので、思ったことをたらたら言ってしまわないように自分に緊張を強いた。」 p.162


「どうして今になって、他の人から口づてにきくような破目になるのだ、と自分を責めた。もっと早く、もう一度あの人に会いたいんだ、会わせてくれと言い張ればよかった、そんなことをわたしのような人間が言うなんておこがましいだなどと、自分を欺瞞している暇があれば。」 p.179




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きっと里伽子が歌っているからだ


JUGEMテーマ:日記・一般
 


誰かを好きになる、とは、どのようなことだろうか。
見つけた一つの答えは、その人と一緒にいるのが好きだ、ということ。

私の知らないあなたに出会う。
私の知らないあなたは、私の知らない私を教えてくれる。
一瞬ごとに見せるあなたの違う顔も。
一瞬ごとに生まれ変わっていく私も。
どちらもとても心地よくて、楽しくて、ずっとこうしていたくて。
ずっと見つめていたくて。
それはきっと、「好き」ということなんだろうと思う。




他者性の源泉とは身体である。
私と汝の身体が別のものであるところから、根源的な差異が始まる。
オトコとオンナのあいだには、ときに猛烈な距離を感じることがある。
それもやはり、お互いのカラダになりかわったことがない、ということが一つの理由であるように思える。
お互いの性にまつわる生理現象を体験したことはない。
何かを知るということにおいて、言葉をとおした知識においてそれを知ることと、身体をとおした体験においてそれを知ることのあいだには、おおきな隔たりがある。


 
俺は現代の日本で身体にそれなりに安住しながら社会的にもオトコというロールをそれなりにやっているので、ここより以下はそういう俺の立場としての体験にもとづいたものとして記したい。

自己の源泉とは身体である。
だから、誰かに自分を取替え可能な道具のように扱われたとき、我々は相手が自分の身体や顔を見ていないかのような気にさせられるのである。
相手が見ているのは、自分の身体ではなく、社会的に付随する立場や数字なのではないか、と。
それはまた、存在への不安でもある。
すなわち、自分の呼びかけに相手が応えていない、いや、そもそも届いてさえいないのではないだろうか、と。
ましてや、それが自分にとって特別だと感じているような相手だとすれば、この一方通行はあらゆるものの存在の疑いへの端緒になる。
恋愛というものの恐ろしさの一端がここにある。
特別な相手の前に自分の身体を運び言葉を尽くした結果、おざなりな応答が帰ってきたようなとき、自分が無価値なのではないか、いやそれより進んで、自分は存在しないのではないか、という疑いが生まれるのである。


ところで、当たり前のことではあるが、恋愛は出会いから始まる。
出会いは、常に向こうからやってくるのである。
出会いとは、それ以前には知らなかったようなものを知る、ということである。
我々は知らないもの、一度として視界に入ったことのないようなものに、こちらから声をかけたり手をのばしたりすることはできない。
知らなかった何かを知る、ということにいたる方法としては、自分の意図しないところにおいて行き当たるしかないのだ。
もちろん、それまでに与えられたり獲得したヒントを駆使しながらとりあえずこちらから手を出してみる、ということはできるとはいえ。
それで、恋愛というものはまず出会うところから、つまり、相手が自分になんらかの働きかけをするところから始まるのである。
そのことをLeona Lewisの歌詞はこのように表現している。
「You cut me open, and I keep bleeding love」(あなたが私を切って開いた、そして私は血を流すように愛を流しつづける)
ここに「bleeding」という言葉で表現されているように、それは自ら選べることではない。
このことについて、日本語では「想いがあふれる」という表現がよく使われる。


さて、このようにして誰かを好きになる。
お互いに同じように好きになるのであれば、そこに問題はない。
できる限り会って一緒にいる機会を作って、お互いを気持ちよくする努力を重ねていけばよい。
しかし、現実世界の関係というものがすべからくそうであるように、シンメトリーな関係というのはありえない。
だから、一度でも誰かを本当に好きになったことのある人ならば、その恐ろしさを知っていて、誰かとの出会いにどこかで慎重になることもあるだろう。
それは当然のことだ。
なにせ、近づいてきた人をいちいち好きになってしまっては、裏切られることが多くてボロボロになる。
それになにより、人間が同時にできることとは、原理的に一つだけなのだ。
一つだけのことしかできないのに、現実にはいくつものことをしなければならないから、人生とはつねに間に合わないものになる。
「誰かを好きになる(愛する)」ということはそんなにも特別で大切で貴重なことなのに、テキトーに遊びに来た人に勘違いしちゃったりして無駄に疲弊している場合ではない。
でも一方で、そんなことを言っていて機会を逃しつづけたら、何も実現しないままの人生になってしまうかもしれない。



そんな逡巡のなかで、オトコもオンナも、相手の笑顔や優しさや楽しげな雰囲気の裏側にあるものを、まずは見きわめようとするのだ。
貴重な命を全うする機会を一緒に持つことができるかもしれないと思って他でもないこの自分に声をかけてきているのか、それとも、相手にとって実利的な何かを手伝って欲しくて数ある人手のうちの一つとして声をかけてきているのか。
アメリカの映画なんかで若い恋人が「Would you care for me?」なんて聞いてるのはこのことだ。

オトコとしての俺の立場から言わせてもらえば、ここにおいてオンナのいくらか有利な点とは、相手(つまりオトコ)の決して多くない動機のひとつを知っている、ということだ。
ある程度の知識と経験を得たオンナであれば、近づいてくるオトコの動機の大半はまずは「パンツを脱がしたい」だと知っている。
つまりオンナとしてはここに注意すれば、相手(つまりオトコ)にとって取替え可能で「都合のいい女」になってしまう危険をかなり回避できる。

一方で、オトコにとってはオンナが近づいてくる動機がまったくわからないことがしばしばある。
ここでうっかり「きっと俺のことを好きなのに違いない」と決め付けてしまえば、勘違い野郎として罵られて恥をかいた上に燃え上がった自分の気持ちの持っていきどころがない、という踏んだり蹴ったりな状況に陥るのである。
しかも、あまりにありがちだし、無防備すぎるところも情けないので、友達に同情もしてもらえない。
そこで、注意深く、それでいていつの間にか相手の恋心に火をつけてしまうような魅力と色気も兼ねそなえよう、と決意する。
ところが、相手の動機がわからないために、相手と会う機会を確保しながら「都合のいい男」にならない、というバランスの要点が掴めないのだ。

まぁこれに関しての現時点での俺の態度は単純なものだ。
考えてもわからないことならば、自分で考えてわかること、そして自分でできることを精一杯やる。
できる限り自分の魅力を磨いて、多少「都合よく」なっちゃったとしても会う機会はできる限り確保する。
そして「ここだ!」というタイミングで、自分はあなたに魅力を感じていてできる限り一緒にいたいと思っているのだ、ということを伝える。
「ここだ!」というタイミングというのは、「ここしかない!」というタイミングのことではない。
「ベスト」なところで行動をしようと思うと、その行動はいつまでも始まらない。
「は、そんなん言われても知らねーし、キモ」とか言われても、めげずに、自分としてもそうなろうと思って好きになったわけでもないので俺のせいにされても知らんがなっちゃったものはしょうがないしなろうと思ってなれるものでもないからこそ大切にしたくて言ったまでだ、というところまできっちり言う。
これは理想論ではあるが、まぁなにごとも理想の6割まで達成できれば満足かな、というところまで含めて持論である。
もちろん、理想の完成をめざして頑張ることで初めて、6割を達成する可能性を得られる。



氷室冴子の『海がきこえる』という小説にはオトコとオンナの視点の違いがよく表れている。
この小説に対する反応として、「男の汚い部分が描かれていない」という批判が男性から寄せられたそうだ。
それに対して氷室冴子は「女から見える部分を書いただけだ」と反論する。
一方で、「里伽子のような何を考えているのかわからない女の子に振り回された経験」を語る男性の意見に対しては、「里伽子は女から見ればとてもわかりやすい女の子だ」と語る。
俺も、里伽子の行動はよくわからない。
裏側にある里伽子の事情を知れば少しはわかるのではあるが、現場において対応しているオトコ(つまり拓)にとってはなおのこと、何がなんだかさっぱりわからないだろう。

アニメ版の最後において里伽子は「東京に会いたい人がいるんだ。その人はね、お風呂で寝る人なんだよ」と言う。
原作の小説に無いそのセリフについて、氷室冴子としては「それは言わないよなぁ」という感じであったが「男の人は言って欲しいんだ」ということを楽しんだと書いている。


人の心はシンプルなものではない。
論理的に言えば、お互いに好きだから付き合う、というのがもっともスッキリした方程式ではある。
ところが、現実はこのような式にピッタリ収まるものではない。
まず、「好き」とはなんぞや?というところから始まり、俺の「好き」とアイツの「好き」は同じなのか?というあたりへと進む。
しかしまぁ、そのあたりは通じ合おうにも不可能なところなので、とりあえず通じる言葉に押し込めるしかない。
「好きだ。付き合ってくれ」と。

小説の二人はこのあたりで無理をしないところが魅力的である。
特に、杜崎拓がとにかく穏やかな性格で、里伽子に対して焦るそぶりがほとんど無い。
この辺りが、「男の汚い〜」云々の批判につながるのだろうと思う。
一般的な18,9歳のオトコに好きなオンナがいるとすれば、もう少し焦るだろうと思う。
どっかの馬の骨にかっさらわれはしないだろうか、とか、このまま会えないままに俺の存在は里伽子の中でフェイドアウェイしていくのではないか、など。
ところが拓ときたら、「たまたま住所が手に入ったからちょっくら行ってみるかぁ」という具合に落ち着きはらっている。

短絡的な「答え」を欲するのは、ある種の弱さである。
現実の世界はつねにたゆたっていて、「それは何である」という論理でスッキリまとめられるものはほとんどない。
ところが、このように不安定な状態で落ち着いていられるというのは、簡単なことではない。
特に、若者にとっては。
そこで、状況をいくらかわかりやすいものにしたいとする。
たとえば、「恋人」という立場を手に入れたりとか。

「付き合う」とか「恋人」とかいうことの一つの利点は、何かをする明確な理由を手に入れられることである。
「会いたいから会う」とか、「話したいから電話する」だけではなく、「恋人だから会う」という「正当な」理由を手に入れることができる。
そしてもちろん、それを相手に要求することができる。
「付き合ってるんだから、週に一回ぐらいは会おうよ」と。
しかし、もちろん不安はそこで消えるわけではなく、「本当に俺のことを好きで付き合っているんだろうか」とか、「俺以外の誰かと一緒にいるときのほうがアイツにとっては楽しいのではないか」などと不安を挙げればキリがない。
それで結局、何もわからないのだから「信じる」しかない、という結論に達するのではあるのだけれども。


ましてや、拓は男の子であるからして、俺と同じオトコなのだとしたら、里伽子のカラダが気になって仕方がないはずなのである。
カラダが気になるから好きなのか、好きだからカラダが気になるのか。
それはどちらでもかまわない。
他でもない「武藤里伽子」のカラダを欲するというところまで達しているのであれば、それはどちらでも同じことである。
そして、他のどの女性のカラダでもなく、「武藤里伽子」という他ならないカラダだけを欲するとき、そこにはいくらかの焦りが生まれるはずなのだ。
なぜならば、他ならない「杜崎拓」の身体と他ならない「武藤里伽子」の身体が出会うということは、まぎれもなくオンリーワンな出来事だからである。
オンリーワンな出来事ということは、もしもある機会を逃して出会い損ねたりしたら、文字通り永遠に二度と出会うことはない、ということなのである。
もしも里伽子が他の男と付き合い始めてそのまま結婚して拓と関わりを欠いたままに老いていくとしたら……、それは十分にありえることなのだ。
さらに条件を加えて、「今の」「武藤里伽子」を好きな「今の」「杜崎拓」の身体として「今の」「武藤里伽子」の身体に出会うということは、もはや機会は今しかない。
そして、ではカラダに触れるために目下急務の課題とは、やはり「恋人」になることだろう、と考える。
とすれば、さっさと告らなくては。
告るためには、会わなければいけないし、成功するためには俺の魅力をもっと知ってもらわなければいけないし、とすればとにかく会う機会を増やさなければ。
会うためには俺に関心をもってもらわなければならないが、アイツの中での俺がどんな存在なのかわからないし。
と、以下どこまでも焦りつづけることができるのだが、杜崎拓にはそんなそぶりはない。


身体が「出会う」体験とは、別にカラダを重ねることだけではない。
同じ道を歩く、同じものを見る、あるいは電話で話すことや、メールのやり取りをすることすら、身体が「出会う」体験に数えることができるだろう。
自分とは別の基点から、同じものに見たり触れたりしている何かがいることの驚きと確認である。
「ライトアップで浮かび上がった高知城がぼうっと闇に浮かんでいた。あんなもの、ひとりで見ても電気のムダにしか思えんかったけど、ふたりでいると、やっぱり綺麗や。ライトアップは、この夜のために用意されていたような気がした。」
もちろん、この夜のために用意されていたのである。


焦らずに、まずは一緒に過ごす時間を少しずつ重ねていくことだ、と落ち着いている杜崎拓は「大人」だ。
「大人」というのは、この世の中で何が起こりやすくて何が起こりにくいかをある程度まで正確に見積もることのできる人のことである。
拓は、今の里伽子を取り巻く状況と里伽子の様子からして、いきなり男ができるということはあまりありえないだろうと見積もっているのだ。
結論を急がずに、二人が一緒にいるのが自然に感じられるのを待つほうが上手くいく公算が高いと見積もっているのだ。
自分が無理をして付き合っても面白くないし、里伽子に無理をさせても面白くないということを見抜いているのだ。
共に過ごす時間を増やして身体と身体を慣れさせていき、自然にお互いのことが大切に思える日が来れば、つまりそれが付き合うということだろうと知っているのだ。
もし二人が本当にソリが合わないのならば、そういう日が来ないだけのことだと腹をくくっているのだ。
自分が焦って迫って里伽子と上手くいく(あるいは拒絶される)ことと、じっくり時間を重ねていって上手くいく(あるいは結局合わない)ことと、明日突然里伽子が死んだり男ができたりすることと、どれがどの程度起こりうる出来事であるかを知っていて、自分のできる数少ない手立てが何なのかを知っている。
自分に対しても、里伽子に対しても、すごく丁寧で誠実で、18,9歳の男の子にしてどうしてそんなにこの世になじんでいるのだとうらやましくなる。


この世になじんでいない、つまり「大人」じゃない人というのは、とにかく「言葉」が前に出る。
自然に大切に思えたときに付き合うのではなく、まず「恋人」という立場を欲しがったりする。
自分と相手にとって何が一番望ましいかを考えたり、一番心地いいやり方を選ぼうとせずに、まず「ヤる」ことを考えたりする。
カラダのことというのは、目的ではなく、結果なのだ。
そのために付き合うのではなく、お互いを求めた結果としてたどり着くものなのだ。
もちろん、カラダを重ねることとは、お互いが想い合っていることを実感するよりも、むしろお互いが本当に違う個体なのだということを実感することでもあるけども。
身体が「出会う」ということはすべからくそのような体験である。

あるいは、「言葉」が前に出ることとしては、働き始める前に資格を求めたりするのも同じことだ。
資格を持っている人間よりも、端的に「使える」人間が職場では求められる。
使える人間になるためには、何はともあれやってみるしかない。
もしも仕事をする上で必要になるのであれば、資格をとればいいだけの話だ。

ゲームをやる前に説明書を読むのも同じことだ。
なんらかのルールで成り立つ世界があるとしたら、とりあえずやってみるのが一番手っ取り早くそれを知る方法だ。
わからないことが出てきたならば、そこで説明書を読めばいい。

身体が先にあって、そこから言葉が生まれてくるのだ。
まずやってみる、その踏み出し方がスムーズな人を「大人」と呼ぶ。
社会的なプレッシャーを受けながらとにかくアタマと下半身が先に立って無理をする、そういうことがない杜崎拓はやっぱり「大人」だ。
「男の汚い部分が〜」と言いたくもなるだろう。
そして、言葉が前に出がちなのも、身体を忘れることのできる男に起こりやすいことだろうと思う。
しかし、氷室冴子が描いた杜崎拓は「会いたいのはお風呂で寝る人なんだよ」とわざわざ言ってもらわなくても、自分にできることとできないことをきちんとわきまえているのである。




閑話休題。
一つのものを二人で見ることによって、同じものを見ている誰かが確かにそこにいること、見ているそのものが確かにそこにあること、そして自分が確かにそこにいることを知るのである。
そして、固有の誰かと一緒に何かを見る「あの」感覚は、必ずその人と一緒にでなければ得られないものなのだ。
それを大切に思うところから、この世界を大切に思うことが始まる。
そんな誰かを失うこととは、自分が大切にしていた世界を失うこと、何かを大切にする理由がなくなること、自分がどこにいるかわからなくなること、などなど。


そういう危機に瀕するようなとき、助けてくれるのは友人や家族や同僚や、本や音楽や映画。
つまり、新しい「意味」や「自分」をつくりなおすのを助けてくれる人やもの、そして一つのことに寄りかからずに生きていく方法を教えてくれるもの、なのである。
そして、胸に残る後悔や痛みは、何かを失ったことのしるしでもあるのだが、それ以前に何かを手に入れたことのしるしでもあるということに気づくとき、こみ上げるのは一つの感情だけ。
それが口をついてでるとすれば「ありがとう」なのである。

そういうことを、西野カナの曲に託しながら書いてみようとしたが、時間と集中力に限界があるのでやめる。
いつか、今日の記事をもとにしながら、西野カナの3枚のアルバムのレビューができたらいいと思う。




追記
「アイがあるから」のほうに、いい文章があったので引用しておく。
「最近、クラスの女のコを見ていてわかったのだけど、里伽子に限らず、ある種のコにはタイミングがすべてらしいのだ。そして、そのタイミングの鍵はすべて向こうが握っている。こっちはルールを知らされずにゲームに引っ張り込まれた武器なしのキャラクターみたいなもので、わけがわからない。そのタイミングをうまく掴む男が“いい人”“一緒にいて楽しい人”になるのだ。ひどい話だ。」(p.69)


あと、里伽子を見ていて思い出すのは、以前バイトしていたお好み焼き屋のオーナー、スナックのママですね。
今は42歳のはずだから、里伽子とほぼ同世代かな。
「俺はあんたのことばっかり考えて生きてるわけじゃねーぜ」と何度思ったことか。




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posted by kach 20:18comments(2)trackbacks(0)