This Is The One! - innocent -俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。
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JUGEMテーマ:I LOVE ディズニー 先週末、妻が借りてきてくれた『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』を見た。 俺は高校生の頃にもTSUTAYAを歩きながらこの映画を見たいと思っていて、結局借りないままに今に至っていた。 しかし高校生の頃の自分では、この映画を楽しめなかっただろうと思う。 ミュージカルすぎるからだ。 若い頃、ミュージカルが理解できなかった。 なぜやたらめったら歌うのか。 さっさと次の場面に移って、もっと興味深い場面だとか映像を見せてくれればいいのに、なぜいつまでも一つの場面にこだわって歌いつづけているのか。 若い頃の俺にとって、ミュージカルは冗長なばかりで、すぐに飽きてしまうようなものだった。 今でもそれほど楽しめるわけではない。 しかしいくらか大人になったので、理解はできるようになった。 ミュージカルの利点は、プロットさえ立ててしまえば、物語の進行についてそれほど心配しなくていいという点だろう。 歌うことによって、展開や感情を観客の心に直接伝える事ができる。 この展開につなげるためにどんな場面を入れべきかとか、この感情を表現するためにどんな出来事や小道具を挿入すべきかとか、そういうことについて悩まずにすむ。 そしておそらく最も重要な点は、歌は単純に楽しい、という事だろう。 語呂が良くて素敵なメロディの歌を聞いているだけで、時間を忘れて楽しむ事ができる。 この点については、俺はまだそれほど満喫できているわけではないけれど、少なくとも理解はできるようにはなった。 ところで清水翔太の「My Boo」大ヒット中である。 『アラジン』を最初に見たときに俺の心に残ったのは、もちろんジャスミンの可愛さ、美しさ。 それにアラブの町の景観。 「アリ・アバブゥワー」 などであるが、もう一つはジーニーのおちゃらけぶりである。 これ、完全にアメリカのコメディアンだろ、という違和感。 たとえて言うなら、桃太郎がディズニーで映画化された時、イヌサルキジがあんな感じでアメリカのコメディショーみたいにおちゃらけまくっていたら感じるであろう複雑な気持ち。 これ、アラビアンナイト的にどうなのよ、という疑問。 俺はそもそもロビン・ウィリアムズのファンであるという事ははっきり言っておくけれども。 まぁしかし、帝国主義的感性ってこういうものよね、という慣れで上塗りされていく。 たとえばクリスマスに心を惹かれたジャックは、自分達でクリスマスを作り上げてやろうと意気込む。 結果的には非難轟々を浴びるとはいえ、クリスマスへの憧れと渇望は本物である。 だいたいオーストラリアやニュージーランドに入植したイギリス人だって同じようなもので、自分達にとって一番面白いように生活していたら、いつの間にか先にいた住人を虐げていたというところなのだろう。 ジャックの暴走と同じように、結果的には人を殺したり文化を殺したりするのだけど、暴力ってけっこう悪気はないものよね。 ディズニー映画で心に残るといえば、なんと言っても『美女と野獣』のガストン。 あの粘着質な怒りと、異様なまでの執着心。 「お前、村一番の美人がよそにお嫁に行ったからってそこまでまとわりついて引きずり込もうとするってのもどうなのよ。 そもそも始めから仲良くないんだし、ただ一番美人だからっていう理由でそこまで執着するって動機がダサいし世界狭すぎでしょ」 と思いながら、それでもあくまでも一歩も引かないガストンのギトギトした推進力は、もはやあきれるを通り越して敬意すら湧いてくるほどのものだ。 ところが最近、フランス革命にまつわる小説をいくつか読んでいて、少し違った観点もあったのかもしれないと思った。 あれは、引きこもりの貴族に村の娘を持っていかれる民衆の怒りだったのではないかと。 「税金しこたま持って行って不労所得でいっぱしに鬱気取ってるくせに、こっちの日常生活のささやかな楽しみだとか生き甲斐まで持ち去るつもりなのかよ。 そんなに何もかも、黙って渡しやしないぜ」 という、怒り。 だとしたら、刺し違えてまでガストンが貴族の野獣とかいう奴に抵抗をしめしてみせるのは、もはや義憤に命を賭しているようにすら見えてきて、いささか涙を誘うまでに英雄的な行為なのである。 知らないけど。 原作も読んだことないし、『美女と野獣』について、俺は何も知らないけど。 ふと、そんな事を思いついた時がありました。 俺が言いたいのは、最近アップルミュージックに登録して、J-POP聞くのがまた楽しくなってきたって事! CSのミュージックチャートも、なんか最近久しぶりに面白いわ。 そんな感じ! またね!
仕事帰りに、『6歳のボクが、大人になるまで(原題:Boyhood)』という映画を見た。 もしも自分がこんな映画を作ったのなら、もう死んでもいいというか、安心して死ねると思った。 今まで劇場で見た映画の中で、一番よかったというか、一番いい経験になったんじゃないかと思う。 何もかもがセンス良くて、完璧にアメリカだった。 画と音楽と脚本で、感動した。
JUGEMテーマ:映画 機会があれば見ようとずっと思っていたが、今日たまたまケーブルテレビでやっていたので見た。 これは面白い。 正直、怪獣映画というものはほとんど見たことがないので、そのジャンルのものとしての評価は知ったことじゃないけど、これは面白い。 これを楽しめない人は、物語のスジの教科書的上手さや、画面の迫力や音と光により得られる身体的な恍惚感、あるいは直情的な涙など、アラがなければ素晴らしいと言える偏差値的評価で映画を楽しもうと思っている人なのではないかと思う。 この映画は、ただ観客を没入させるための物語を、引っかかるところの少ないようにスムーズに進めていくようなつなぎ方をしない。 むしろ、シーンごとの「意味」をことさらに強調していくやり方で進んでいく。 そのことを押し付けがましく感じてしまったり、ノイズが多すぎて没入できないとして反発してしまっては、きっとこの映画は楽しめない。 物語が進んでいくにつれ、盛り込まれてくる「意味」の量が膨大なものになっていくために、この映画は焦点がしぼられていないと批判されるかもしれない。 しかしそのことは、この映画にとってはむしろ魅力になっていると思うのだ。 ファーストカットからのシーンでサクッと怪獣誕生の原因を(投げやりに思えるほど)簡単に紹介し、さっそくの怪獣登場でいきなりド迫力で走り回り、葬式のシーンになったと思ったら今度は政府ほか関係機関の暴力的ふるまいと役人のおざなりな態度がクローズアップされ、米軍ほか国際組織の介入で韓国の外交情勢も味付けの一つに加わり…… と、没入させる気がないんじゃないかと思われるような、迷走気味の展開の連続である。 おそらくこの辺で、怪獣大暴れ一辺倒のパニック映画を期待していた人たちは、イラだちを覚えてくるころであろう。 しかし、こうして提示されていく「意味」を受け止め、抱えるものが増えていくままに映画に身を任せていくと、この映画の魅力にどんどんハマっていくような気持ちになっていくだろう。 俺が思うにこの映画の一番の魅力は、ヒーロー(あるいはその資質を持つ者)が一人もいないなかで、それでも誰かがヒロイックなことをしなければ現状がどうにもならないと悟った人たちの、必死であがく姿である。 冒頭から提示されていくシーンごとの「意味」に共通することがあるとすれば、凡庸な一個人にはどうしようもない問題であること、だろうと思う。 それはケータイ会社に務める「先輩」のカードローンの問題まで含めて、この映画には個人で乗り切れない問題がてんこもりである。 それでもなお、あの家族たちが何度もなんどもふっ飛ばされたり捕まったりしても、強靭な意志で立ち上がり這いずりまわりながら食らいついていく姿が感動を誘い、明日を戦いぬこうとする観客ひとりひとりに勇気を与えるのである。 あんなに情けなかった家族でも、腹くくって一点見据えれば戦いぬける。 瞬間的な爽快感と「癒し」を求めて鑑賞しようとした、へっぴり腰の敗北主義者たちでは、映画に臨む態度、ひいては人生に臨む態度に、この映画との温度差があったと言いたい。 しかし映画終盤の、ついにグエムルを倒すというシーンだけが少し気に入らないけどなぁ。 なぜかというと、あのシーンだけ、ついに家族たちがヒロイックになるから。 あそこはもう少し、最後まで情けない倒し方で怪獣をやっつけてほしかったんだけど。 結局、どんどん悲しい存在になっていった怪獣であるがゆえ。 ま、映画的にはペ・ドゥナのアーチェリーの場面なんかは最高の盛り上がりなんだけど。 しかし、それにしても「エージェント・イエロー」の投下というのは、最高にハチャメチャな事態である。 抗生物質だか殺虫剤だか知らないが、半径500メートル(だっけ?)の細菌が死滅するというのは尋常じゃないだろ。 自分たちの生活圏のど真ん中にそんなもん投下されようとしたら、さすがに怒りますわ。 とは言うものの、日本の学生たちだったらあのような動員がかけられたかどうか…… もはや今日の日本の大学では、集会やデモをしただけで非人道的行為でもやらかしたかと思うほど犬畜生みたいな扱いを受けますからね。 さすがに民主化の記憶がまだ濃く残る韓国といったところなんだろうか。 でもさすがの米軍も、なにも群集のど真ん中に頭の上から危険物吹き付けなくてもねぇ…… なんか突然出てきたホームレスのおっちゃんが大活躍するのも、「おいおい」って思ったけど…… まぁ何度も言うようにそういう映画じゃないからね!! それ以外のところで充分に勝負できてるから良しということで。
JUGEMテーマ:映画 たぶん、生まれて初めて、見るのがつらすぎて テレビの電源を切った。 ちょうど1時間ぐらいのところで、今の俺にはこの先を受け止められないと思った。 それではいけないと思いおこし、最も痛い=最も見なければならないものから目をそらしてはいけないと言い聞かせ、1分で心を立て直してテレビをつけた。 そして、おぼろに想像していたよりも、さらに少しななめ上を行くつらさで幕を閉じた。 最後のあのセリフ。 あのセリフを口に出さないために、きっとみんな頑張ってる。 頑張りかたはどうであれ、経験から学んでその手につかんだと信じる、ボロボロの信念を胸に隠して。 だから口に出し、行動に表してしまった人間は、徹底的な排除をされる。 俺が何よりも恐れているのは、あのセリフを吐いてしまうことなのかもしれない。 その結果に待ち受けている排除が恐いのではなくて、自分という人間がそうなってしまったということがつらくてたまらないだろう。 彼女にとって世界があんなにも過酷なものになってしまったのは、彼女のせいでもあるが、全面的に彼女の非というわけでもない。 それはどんな物事でもそういうものであって、ある者だけが全面的に間違ったということはありえない。 そういう足下の危うい世界で我々は生きているのだ、ということは日本ではもう少し自覚されていいと思う。 殺人事件などがおこるたびに、自分とは遠くの出来事で全くの無関係だと思い込んでいるように自分勝手な意見が氾濫することは、恐いことだと常々思っている。 犯罪歴のない一人ひとりの「善良な」市民たちは、決してイノセントな存在というわけではない。
JUGEMテーマ:映画 こないだ新宿TSUTAYAで半額やってたので6本借りてきたんだけど、そのうちの1本がこれ。 正直、ウォン・カー・ウェイの映画を観るのは初めてです。 先輩からすごい薦められてたりもして、本当は『恋する惑星』が借りたかったんだけど2本しかなくてどっちも借りられてたから、大量に並んでていくつか残ってたこっちを借りた。 まぁ音楽がとてもいいよね。 Cat Power最高! 調べてみたら音楽監督がRy Cooderだそうで、どうりで南部臭いって感じなのかもしれないけど。 ていうかちょっとだけ出てきたジュード・ロウの元恋人役って、あれCat Powerじゃないかと思ったけど。 どうなんだろう、あんなに若かったっけ? 映画としては、いろいろ借りていっぺんに観てるときだから、やっぱり監督の上手さが際立つね。 昨日観たジュード・ロウの『アルフィー』はえらいつまらくて、演出力の差を感じた。 脚本に新しい出来事とか要素は全然ないんだけど、王道のロードムービー型成長物語とでも呼ぶようなストーリーをきっちり楽しませてくれるのは嬉しい。 こういう映画人としての職業意識みたいの強く感じる映画って、向き合えて嬉しいし、勉強になる気がする。 主演のノラ・ジョーンズが、レイチェル・ワイズやナタリー・ポートマンの前だとずいぶん野暮ったく見えて、ジュード・ロウの前だと綺麗に見えるのは、それも演出なのかな。 それとも女優としてのパワーなのかしら。 映画観てると思うけど、俺みたいなひきこもりが相変わらず家で音楽聴いて本読んで映画観ててもどうしようもないよね。 「書を捨てよ、」じゃないけどさ。 この映画を観て、ちょいと原チャでも買って日本一周したくなった。
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