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『加藤周一 戦後を語る』 加藤周一講演集

JUGEMテーマ:読書 


俺は「知識人」というと、まず加藤周一を思い浮かべる。
次に大江健三郎。
どちらも「九条の会」の呼びかけ人の一人だから、俺の政治的思想、信条がバレバレなのだが。
大江健三郎は自らを評しては、「小説家を知識人に含めるかは微妙なところ」と言っているが、どの道「知識人の役割」に敏感な人でもある。
九条の会の呼びかけ人は皆そうだろう。
加藤周一はこの本の中で、彼自身による知識人の定義を「自らを知識人だと思っている人」と笑っていて、こういう言葉はそのように曖昧なものである。


知識人の定義はともかく、俺はずいぶんと昔から加藤周一を理想的な人間像の一つとして抱いている。
膨大な知識、柔軟な視点、多彩な語り口。
しかし実際に彼の文章をどの程度読んでいるかというと、実際は朝日新聞の紙上で「夕陽妄語」を楽しみに読んでいただけであった。
よくぞまぁそんなもので勝手に尊敬できたものだと思えるがw
しかし文章というものは不思議なもので、たったそれだけでも何か感じてしまうことがある。

久米宏が中森明菜とのベストテンでの思い出を振り返って「人間、ウマが合うというのは不思議とわかるもの。僕と明菜ちゃんはほとんど話したことはないけども、ウマが合っていたと思う」と言っているのも、そういうことに近いだろうと思う。
なにしろ当時の久米宏は明菜サマにデレデレのご様子だが、それが不思議といやらしくならないのは、久米宏の人格と共に、そういうこともあるのではないか。

大江健三郎は自らの読書の体験と作法を語るときに、自分が読むべき本というのは不思議にわかるものだと語っている。
例えばそのときに時間がなかったりして読めなかったとしても、この本はいつかきっと自分にとって大切な読書になるだろうということを感じることがある。
そして、そういう予感というのはたいてい当たるものだと。
これに俺は大きく賛同する。
俺にとっては「ゲド戦記」シリーズは小学校高学年のときから何度も挑戦しては挫折していた本だった。
どうしてあんなに何度も挑戦したのか、あんなに何度も挫折したのかはわからないのだが、今となっては「ゲド戦記」よりも大切な読書というものは無いだろうとさえ思える。
読まないままに図書館で何度も借りた『存在の耐えられない軽さ』から始まる一連のクンデラの読書。
なんども引き寄せられたジャック・ロンドンだとか、他にも音楽なんかでもこういう体験はある。
まだほとんどちゃんと読めていないドフトエフスキーやプルーストに対しても、今の俺はそういう思いを抱いているのだが、さて。


ともかく、加藤周一というのは、俺にとってそういう人だということだ。
その人の講演集である。
たまたま図書館の書棚で目立っていたから手に取ったのだが、加藤周一といえば執筆よりも講義と講演の人、というイメージがあったので、読んでみようという気になった。
結果、期待したとおりに面白く刺激的な内容で、やはりこの人を尊敬する気持ちに翳りは生まれなかった。

いくつか新しく考えてみたいことを発見したが、ここでは一つだけ、日本国憲法第九条についてだけ書く。


九条に関する加藤周一の考えは、まずは簡潔な認識に基づいている。
政府の解釈として示される「自衛の軍」という言葉はおかしい。
すべての軍隊は自衛のための軍隊であって、「自衛のための軍」というのは「四足の猫」と言うに等しく意味を成さない、という認識である。

その解釈に基づいてもなお、第九条を改定したいというのならば、これは自衛以外の目的、すなわち侵略の意図を直接に意味するしかない。
少なくとも国際的には、東アジアにとどまらず、ほぼ全ての国からそう受け取られるだろう。
その意図がないのに、むやみに九条を変えるべきではない。
そして侵略戦争を始めるとすれば、その結果として平和を得る方法は、パックス・ロマーナのような成熟した帝国主義しかない。
それに失敗した場合にはゲリラ戦やテロリズムと、それを鎮圧する武力行動の悪循環のカオスに陥る。
そのようなリスクが高く不透明な二択を選ぶよりも、九条を保持しながらの外交戦略での平和維持のほうが、はるかに現実的で合理的な選択である。

その思考を支えるのは、戦争が目的を正確に遂行したことなど、歴史上にほとんど無いという認識である。
結局のところ、日本を戦争のできる国にしたい、と願う人々の動機は二つに分けられるのではないか。
帝国主義への欲望と、軍産体制への欲望。
日本、さらには世界に対して、本当に平和と自由、一人ひとりの幸福などを少しでも実現していきたいと思ったら、その手段としての戦争はあまりにも非合理的なのだ。


そんな中、昨日は中国で反日デモが起きたそうな。
5年前の靖国問題からの歴史認識を問うデモに発展した経緯ってのはなんとなくわかるし、その盛り上がりも理解できる気がする。
日本政府の態度を見てれば、このままでは歴史認識の問題はいつまでもくすぶり続けるだろうと思う。
でも領土問題って、俺はいつもよくわからないんだよなぁ。
排他的経済水域なんかどうでもよろしいがな、それで生活に支障が出る漁師さんがそんなにいるの?
っていう気持ち。
国の威厳なんかはどうでもいい。
そういうものにこだわる人には、帝国主義への欲望があるのではないかと疑う。
尖閣諸島は外交戦略上で何か重要なのだろうか。
よくわからんが、盛り上がってるってことは何かあるのかもしれないですね。
勉強が足りないこってす。



あと、社会主義的原理と資本主義的原理の話にはとても共感した。
かつて大学でほんの少しばかり闘っていた俺であるが、学問の機構・組織というものは絶対に市場原理で動くべきでない。
教育、文化、福祉、これらは市場原理の下ではその機能を果たさないか、まったく別のものになってしまう。
98年の時点で加藤周一はそのことを警告しているが、「官から民へ」の移行など、市場開放と福祉・公共事業の切り捨てはそれから一気に加速したのであった。
あーあ。
もちろん、官僚体制の構造改革は必要だし、マニフェスト選挙など改善したところもあるのだけどね。

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posted by kach 22:06comments(0)trackbacks(0)





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