This Is The One! - innocent -俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。
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誰かを好きになる、とは、どのようなことだろうか。 見つけた一つの答えは、その人と一緒にいるのが好きだ、ということ。 私の知らないあなたに出会う。 私の知らないあなたは、私の知らない私を教えてくれる。 一瞬ごとに見せるあなたの違う顔も。 一瞬ごとに生まれ変わっていく私も。 どちらもとても心地よくて、楽しくて、ずっとこうしていたくて。 ずっと見つめていたくて。 それはきっと、「好き」ということなんだろうと思う。 他者性の源泉とは身体である。 私と汝の身体が別のものであるところから、根源的な差異が始まる。 オトコとオンナのあいだには、ときに猛烈な距離を感じることがある。
それもやはり、お互いのカラダになりかわったことがない、ということが一つの理由であるように思える。 お互いの性にまつわる生理現象を体験したことはない。 何かを知るということにおいて、言葉をとおした知識においてそれを知ることと、身体をとおした体験においてそれを知ることのあいだには、おおきな隔たりがある。 俺は現代の日本で身体にそれなりに安住しながら社会的にもオトコというロールをそれなりにやっているので、ここより以下はそういう俺の立場としての体験にもとづいたものとして記したい。
自己の源泉とは身体である。 だから、誰かに自分を取替え可能な道具のように扱われたとき、我々は相手が自分の身体や顔を見ていないかのような気にさせられるのである。 相手が見ているのは、自分の身体ではなく、社会的に付随する立場や数字なのではないか、と。 それはまた、存在への不安でもある。 すなわち、自分の呼びかけに相手が応えていない、いや、そもそも届いてさえいないのではないだろうか、と。 ましてや、それが自分にとって特別だと感じているような相手だとすれば、この一方通行はあらゆるものの存在の疑いへの端緒になる。 恋愛というものの恐ろしさの一端がここにある。
特別な相手の前に自分の身体を運び言葉を尽くした結果、おざなりな応答が帰ってきたようなとき、自分が無価値なのではないか、いやそれより進んで、自分は存在しないのではないか、という疑いが生まれるのである。 ところで、当たり前のことではあるが、恋愛は出会いから始まる。 出会いは、常に向こうからやってくるのである。 出会いとは、それ以前には知らなかったようなものを知る、ということである。 我々は知らないもの、一度として視界に入ったことのないようなものに、こちらから声をかけたり手をのばしたりすることはできない。 知らなかった何かを知る、ということにいたる方法としては、自分の意図しないところにおいて行き当たるしかないのだ。 もちろん、それまでに与えられたり獲得したヒントを駆使しながらとりあえずこちらから手を出してみる、ということはできるとはいえ。 それで、恋愛というものはまず出会うところから、つまり、相手が自分になんらかの働きかけをするところから始まるのである。
そのことをLeona Lewisの歌詞はこのように表現している。 「You cut me open, and I keep bleeding love」(あなたが私を切って開いた、そして私は血を流すように愛を流しつづける) ここに「bleeding」という言葉で表現されているように、それは自ら選べることではない。
このことについて、日本語では「想いがあふれる」という表現がよく使われる。 さて、このようにして誰かを好きになる。 お互いに同じように好きになるのであれば、そこに問題はない。 できる限り会って一緒にいる機会を作って、お互いを気持ちよくする努力を重ねていけばよい。 しかし、現実世界の関係というものがすべからくそうであるように、シンメトリーな関係というのはありえない。 だから、一度でも誰かを本当に好きになったことのある人ならば、その恐ろしさを知っていて、誰かとの出会いにどこかで慎重になることもあるだろう。 それは当然のことだ。 なにせ、近づいてきた人をいちいち好きになってしまっては、裏切られることが多くてボロボロになる。 それになにより、人間が同時にできることとは、原理的に一つだけなのだ。 一つだけのことしかできないのに、現実にはいくつものことをしなければならないから、人生とはつねに間に合わないものになる。 「誰かを好きになる(愛する)」ということはそんなにも特別で大切で貴重なことなのに、テキトーに遊びに来た人に勘違いしちゃったりして無駄に疲弊している場合ではない。 でも一方で、そんなことを言っていて機会を逃しつづけたら、何も実現しないままの人生になってしまうかもしれない。 そんな逡巡のなかで、オトコもオンナも、相手の笑顔や優しさや楽しげな雰囲気の裏側にあるものを、まずは見きわめようとするのだ。 貴重な命を全うする機会を一緒に持つことができるかもしれないと思って他でもないこの自分に声をかけてきているのか、それとも、相手にとって実利的な何かを手伝って欲しくて数ある人手のうちの一つとして声をかけてきているのか。 アメリカの映画なんかで若い恋人が「Would you care for me?」なんて聞いてるのはこのことだ。 オトコとしての俺の立場から言わせてもらえば、ここにおいてオンナのいくらか有利な点とは、相手(つまりオトコ)の決して多くない動機のひとつを知っている、ということだ。 ある程度の知識と経験を得たオンナであれば、近づいてくるオトコの動機の大半はまずは「パンツを脱がしたい」だと知っている。 つまりオンナとしてはここに注意すれば、相手(つまりオトコ)にとって取替え可能で「都合のいい女」になってしまう危険をかなり回避できる。 一方で、オトコにとってはオンナが近づいてくる動機がまったくわからないことがしばしばある。 ここでうっかり「きっと俺のことを好きなのに違いない」と決め付けてしまえば、勘違い野郎として罵られて恥をかいた上に燃え上がった自分の気持ちの持っていきどころがない、という踏んだり蹴ったりな状況に陥るのである。 しかも、あまりにありがちだし、無防備すぎるところも情けないので、友達に同情もしてもらえない。 そこで、注意深く、それでいていつの間にか相手の恋心に火をつけてしまうような魅力と色気も兼ねそなえよう、と決意する。 ところが、相手の動機がわからないために、相手と会う機会を確保しながら「都合のいい男」にならない、というバランスの要点が掴めないのだ。 まぁこれに関しての現時点での俺の態度は単純なものだ。 考えてもわからないことならば、自分で考えてわかること、そして自分でできることを精一杯やる。 できる限り自分の魅力を磨いて、多少「都合よく」なっちゃったとしても会う機会はできる限り確保する。 そして「ここだ!」というタイミングで、自分はあなたに魅力を感じていてできる限り一緒にいたいと思っているのだ、ということを伝える。 「ここだ!」というタイミングというのは、「ここしかない!」というタイミングのことではない。 「ベスト」なところで行動をしようと思うと、その行動はいつまでも始まらない。 「は、そんなん言われても知らねーし、キモ」とか言われても、めげずに、自分としてもそうなろうと思って好きになったわけでもないので俺のせいにされても知らんがなっちゃったものはしょうがないしなろうと思ってなれるものでもないからこそ大切にしたくて言ったまでだ、というところまできっちり言う。 これは理想論ではあるが、まぁなにごとも理想の6割まで達成できれば満足かな、というところまで含めて持論である。 もちろん、理想の完成をめざして頑張ることで初めて、6割を達成する可能性を得られる。 氷室冴子の『海がきこえる』という小説にはオトコとオンナの視点の違いがよく表れている。 この小説に対する反応として、「男の汚い部分が描かれていない」という批判が男性から寄せられたそうだ。 それに対して氷室冴子は「女から見える部分を書いただけだ」と反論する。 一方で、「里伽子のような何を考えているのかわからない女の子に振り回された経験」を語る男性の意見に対しては、「里伽子は女から見ればとてもわかりやすい女の子だ」と語る。 俺も、里伽子の行動はよくわからない。 裏側にある里伽子の事情を知れば少しはわかるのではあるが、現場において対応しているオトコ(つまり拓)にとってはなおのこと、何がなんだかさっぱりわからないだろう。 アニメ版の最後において里伽子は「東京に会いたい人がいるんだ。その人はね、お風呂で寝る人なんだよ」と言う。 原作の小説に無いそのセリフについて、氷室冴子としては「それは言わないよなぁ」という感じであったが「男の人は言って欲しいんだ」ということを楽しんだと書いている。 人の心はシンプルなものではない。 論理的に言えば、お互いに好きだから付き合う、というのがもっともスッキリした方程式ではある。 ところが、現実はこのような式にピッタリ収まるものではない。 まず、「好き」とはなんぞや?というところから始まり、俺の「好き」とアイツの「好き」は同じなのか?というあたりへと進む。 しかしまぁ、そのあたりは通じ合おうにも不可能なところなので、とりあえず通じる言葉に押し込めるしかない。 「好きだ。付き合ってくれ」と。 小説の二人はこのあたりで無理をしないところが魅力的である。 特に、杜崎拓がとにかく穏やかな性格で、里伽子に対して焦るそぶりがほとんど無い。 この辺りが、「男の汚い〜」云々の批判につながるのだろうと思う。 一般的な18,9歳のオトコに好きなオンナがいるとすれば、もう少し焦るだろうと思う。 どっかの馬の骨にかっさらわれはしないだろうか、とか、このまま会えないままに俺の存在は里伽子の中でフェイドアウェイしていくのではないか、など。 ところが拓ときたら、「たまたま住所が手に入ったからちょっくら行ってみるかぁ」という具合に落ち着きはらっている。 短絡的な「答え」を欲するのは、ある種の弱さである。 現実の世界はつねにたゆたっていて、「それは何である」という論理でスッキリまとめられるものはほとんどない。 ところが、このように不安定な状態で落ち着いていられるというのは、簡単なことではない。 特に、若者にとっては。 そこで、状況をいくらかわかりやすいものにしたいとする。 たとえば、「恋人」という立場を手に入れたりとか。 「付き合う」とか「恋人」とかいうことの一つの利点は、何かをする明確な理由を手に入れられることである。 「会いたいから会う」とか、「話したいから電話する」だけではなく、「恋人だから会う」という「正当な」理由を手に入れることができる。 そしてもちろん、それを相手に要求することができる。 「付き合ってるんだから、週に一回ぐらいは会おうよ」と。 しかし、もちろん不安はそこで消えるわけではなく、「本当に俺のことを好きで付き合っているんだろうか」とか、「俺以外の誰かと一緒にいるときのほうがアイツにとっては楽しいのではないか」などと不安を挙げればキリがない。 それで結局、何もわからないのだから「信じる」しかない、という結論に達するのではあるのだけれども。 ましてや、拓は男の子であるからして、俺と同じオトコなのだとしたら、里伽子のカラダが気になって仕方がないはずなのである。 カラダが気になるから好きなのか、好きだからカラダが気になるのか。 それはどちらでもかまわない。 他でもない「武藤里伽子」のカラダを欲するというところまで達しているのであれば、それはどちらでも同じことである。 そして、他のどの女性のカラダでもなく、「武藤里伽子」という他ならないカラダだけを欲するとき、そこにはいくらかの焦りが生まれるはずなのだ。 なぜならば、他ならない「杜崎拓」の身体と他ならない「武藤里伽子」の身体が出会うということは、まぎれもなくオンリーワンな出来事だからである。 オンリーワンな出来事ということは、もしもある機会を逃して出会い損ねたりしたら、文字通り永遠に二度と出会うことはない、ということなのである。 もしも里伽子が他の男と付き合い始めてそのまま結婚して拓と関わりを欠いたままに老いていくとしたら……、それは十分にありえることなのだ。 さらに条件を加えて、「今の」「武藤里伽子」を好きな「今の」「杜崎拓」の身体として「今の」「武藤里伽子」の身体に出会うということは、もはや機会は今しかない。 そして、ではカラダに触れるために目下急務の課題とは、やはり「恋人」になることだろう、と考える。 とすれば、さっさと告らなくては。 告るためには、会わなければいけないし、成功するためには俺の魅力をもっと知ってもらわなければいけないし、とすればとにかく会う機会を増やさなければ。 会うためには俺に関心をもってもらわなければならないが、アイツの中での俺がどんな存在なのかわからないし。 と、以下どこまでも焦りつづけることができるのだが、杜崎拓にはそんなそぶりはない。 身体が「出会う」体験とは、別にカラダを重ねることだけではない。 同じ道を歩く、同じものを見る、あるいは電話で話すことや、メールのやり取りをすることすら、身体が「出会う」体験に数えることができるだろう。 自分とは別の基点から、同じものに見たり触れたりしている何かがいることの驚きと確認である。 「ライトアップで浮かび上がった高知城がぼうっと闇に浮かんでいた。あんなもの、ひとりで見ても電気のムダにしか思えんかったけど、ふたりでいると、やっぱり綺麗や。ライトアップは、この夜のために用意されていたような気がした。」 もちろん、この夜のために用意されていたのである。 焦らずに、まずは一緒に過ごす時間を少しずつ重ねていくことだ、と落ち着いている杜崎拓は「大人」だ。 「大人」というのは、この世の中で何が起こりやすくて何が起こりにくいかをある程度まで正確に見積もることのできる人のことである。 拓は、今の里伽子を取り巻く状況と里伽子の様子からして、いきなり男ができるということはあまりありえないだろうと見積もっているのだ。 結論を急がずに、二人が一緒にいるのが自然に感じられるのを待つほうが上手くいく公算が高いと見積もっているのだ。 自分が無理をして付き合っても面白くないし、里伽子に無理をさせても面白くないということを見抜いているのだ。 共に過ごす時間を増やして身体と身体を慣れさせていき、自然にお互いのことが大切に思える日が来れば、つまりそれが付き合うということだろうと知っているのだ。 もし二人が本当にソリが合わないのならば、そういう日が来ないだけのことだと腹をくくっているのだ。 自分が焦って迫って里伽子と上手くいく(あるいは拒絶される)ことと、じっくり時間を重ねていって上手くいく(あるいは結局合わない)ことと、明日突然里伽子が死んだり男ができたりすることと、どれがどの程度起こりうる出来事であるかを知っていて、自分のできる数少ない手立てが何なのかを知っている。 自分に対しても、里伽子に対しても、すごく丁寧で誠実で、18,9歳の男の子にしてどうしてそんなにこの世になじんでいるのだとうらやましくなる。 この世になじんでいない、つまり「大人」じゃない人というのは、とにかく「言葉」が前に出る。 自然に大切に思えたときに付き合うのではなく、まず「恋人」という立場を欲しがったりする。 自分と相手にとって何が一番望ましいかを考えたり、一番心地いいやり方を選ぼうとせずに、まず「ヤる」ことを考えたりする。 カラダのことというのは、目的ではなく、結果なのだ。 そのために付き合うのではなく、お互いを求めた結果としてたどり着くものなのだ。 もちろん、カラダを重ねることとは、お互いが想い合っていることを実感するよりも、むしろお互いが本当に違う個体なのだということを実感することでもあるけども。 身体が「出会う」ということはすべからくそのような体験である。 あるいは、「言葉」が前に出ることとしては、働き始める前に資格を求めたりするのも同じことだ。 資格を持っている人間よりも、端的に「使える」人間が職場では求められる。 使える人間になるためには、何はともあれやってみるしかない。 もしも仕事をする上で必要になるのであれば、資格をとればいいだけの話だ。 ゲームをやる前に説明書を読むのも同じことだ。 なんらかのルールで成り立つ世界があるとしたら、とりあえずやってみるのが一番手っ取り早くそれを知る方法だ。 わからないことが出てきたならば、そこで説明書を読めばいい。 身体が先にあって、そこから言葉が生まれてくるのだ。 まずやってみる、その踏み出し方がスムーズな人を「大人」と呼ぶ。 社会的なプレッシャーを受けながらとにかくアタマと下半身が先に立って無理をする、そういうことがない杜崎拓はやっぱり「大人」だ。 「男の汚い部分が〜」と言いたくもなるだろう。 そして、言葉が前に出がちなのも、身体を忘れることのできる男に起こりやすいことだろうと思う。 しかし、氷室冴子が描いた杜崎拓は「会いたいのはお風呂で寝る人なんだよ」とわざわざ言ってもらわなくても、自分にできることとできないことをきちんとわきまえているのである。 閑話休題。 一つのものを二人で見ることによって、同じものを見ている誰かが確かにそこにいること、見ているそのものが確かにそこにあること、そして自分が確かにそこにいることを知るのである。 そして、固有の誰かと一緒に何かを見る「あの」感覚は、必ずその人と一緒にでなければ得られないものなのだ。 それを大切に思うところから、この世界を大切に思うことが始まる。 そんな誰かを失うこととは、自分が大切にしていた世界を失うこと、何かを大切にする理由がなくなること、自分がどこにいるかわからなくなること、などなど。 そういう危機に瀕するようなとき、助けてくれるのは友人や家族や同僚や、本や音楽や映画。 つまり、新しい「意味」や「自分」をつくりなおすのを助けてくれる人やもの、そして一つのことに寄りかからずに生きていく方法を教えてくれるもの、なのである。 そして、胸に残る後悔や痛みは、何かを失ったことのしるしでもあるのだが、それ以前に何かを手に入れたことのしるしでもあるということに気づくとき、こみ上げるのは一つの感情だけ。 それが口をついてでるとすれば「ありがとう」なのである。 そういうことを、西野カナの曲に託しながら書いてみようとしたが、時間と集中力に限界があるのでやめる。 いつか、今日の記事をもとにしながら、西野カナの3枚のアルバムのレビューができたらいいと思う。 追記 「アイがあるから」のほうに、いい文章があったので引用しておく。 「最近、クラスの女のコを見ていてわかったのだけど、里伽子に限らず、ある種のコにはタイミングがすべてらしいのだ。そして、そのタイミングの鍵はすべて向こうが握っている。こっちはルールを知らされずにゲームに引っ張り込まれた武器なしのキャラクターみたいなもので、わけがわからない。そのタイミングをうまく掴む男が“いい人”“一緒にいて楽しい人”になるのだ。ひどい話だ。」(p.69) あと、里伽子を見ていて思い出すのは、以前バイトしていたお好み焼き屋のオーナー、スナックのママですね。 今は42歳のはずだから、里伽子とほぼ同世代かな。 「俺はあんたのことばっかり考えて生きてるわけじゃねーぜ」と何度思ったことか。
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この記事に対するコメント
HNがころころ変わりますが、「モレチャッタケッコン」のものです。やっとこさ読みました。
僕のブログコメントにも書いていただきましたけど、たしかに近いの内容の部分がありますね・・・切り口が違うとはいえ、言い回しも似ているのでびっくりしました。同じ時期に同じようなことを考えるものなんですかね、、 ただ、僕の文にくらべてkachさんの文は「己の立っている場所の距離感がいい」というか、身体的に捨てきれない感覚と頭の中で考えていることのバランスがちょうど良いように思えてうらやましいです。 「大人」については、僕も同じことを思ってブログにしようかと思っていたんですよ!「子供のかわいさとは何か」という方向で書くつもりでした。 年明けにいとこの子供を見て「こいつらはかわいい。子供のかわいさとは何だ?」→「彼らの反応がつねに新鮮で限界を知らないからだ」→「大人は子供がとろうとしてる行動の結果を、経験から予測できている。余裕をもって子供をみていられる。だから大人は大人のようにふるまうし、子供に対する超越的な視点をもてるから、子供をかわいいと思うんだ。強者のゆとりが、子供をかわいいと思わせるんだ。」なんてことを考えていたんです。 しかし、こちらの記事での分析で言及されている以上の内容ではないと思ってしまい、悔しいです!テコ入れをして、いつか違う方向性を加えて公開できたらと思います・・・ いつも更新を楽しみにしておりますので、何か思ったことがあったらこれからもどんどん書いてください。
sukebouz | 2012/01/24 12:15 AM
コメントありがとう。
同じ時代の同じ社会の、それもかなり近しいところで生活しているからね、同じようなことを考えてしまうことに特に俺は不思議を感じないよ。 直接や間接に、お互いに影響を与え合って、そういうふうに人格は形成されていくものだと思っているから。 知らないうちに同じものを見ているということも少なくないだろうし。 「距離感」に関しては、以前ピヨに「お前は負の感情(たぶん怒りとか憎しみとか)をあまり抱かないように見える」と言われたことがある。 まぁピヨに比べたらそうなのかもしれないなぁと思ったけど、もしかしたら一般基準よりも少ないのかもね。 比較のしようもないことだけど。 ものごとの差異を見ても、あまりそこに優劣をつけないようにはしています。 「大人」と「子供」についても、たぶん君と同じものを見て同じ思考をたどっても、最後のところで「強者」という発想は出てこないだろうとも思う。 というかそれ以前に、子供をかわいいと思ったことがあまりないんだけどw 「子供ってすげぇなぁ」と思うぐらいな気がする。 同じものを見て同じような事を考えても、このあたりの偏りが「個性」というものだと思うので、お互いにそこに注目していきたいものですな。 ブログ、楽しんでくれてるという言葉に勇気とやる気をもらって、小さなことでもなるべく書いていきたいと思います!
kach | 2012/01/26 10:10 PM
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