This Is The One! - innocent -

俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。


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「The Way」 みち・ことわり・すじ

JUGEMテーマ:漫画/アニメ
 

昨夜、夕飯を食べながら、NHKの「ダーウィンが来た!」という番組の最後の10分を見ていた。
テレビをつけたとたん、映しだされる二頭の虎の競り合い。
一瞬で勝負がつき、負けたほうは縄張りを出て行くのだそうだ。
実力差が開いているために、どちらかが打ちのめされるのを待つまでもなく、勝負は一瞬で決する。
道理だ。
互いを傷つけることが目的なのではなく、優劣を決することが目的なのだ。
たとえ、戦う前から優劣を目算することができていたとしても、闘った結果としてきっちりと決着をつけることが必要なのだ。
This is the way it is。

さらに番組の語るところに耳をかたむければ、実力差が開いていることすら、道理なのだという。
虎の母の乳首は複数あり、質の良い乳が最もよく出る乳首からそうでない乳首へと優劣がある。
子供たちは乳首をめぐって争い、最も実力の強い子供が最も優れた乳首にありつく。
あらかじめ持って生まれた実力差に加え、優れた乳首から乳を得つづけた虎と、それよりも劣った乳を得つづけた虎ができる。
必然、実力差が開く。
平均的な虎を3匹育てることよりも、1匹の強い虎と2匹の弱い虎を育てることを選ぶ。
そうして育った1匹の強い虎が、餌が豊富で狩りのしやすい縄張りを受け継ぐ。
強い虎だから難しい環境をあてがわれるのではなく、強い虎にこそ易しい環境がふさわしい。
もちろん、強い/弱い、難しい/易しいという価値は相対的なものであり、強い虎が易しい環境にあっても生きることは容易ではない。
子孫を生き残らせ受け継がせる可能性を少しでも上げるための、より確実な、ありうる中で最善の策への一手。
もちろん、子が縄張りを継ぐということは、親は追い出されるということであるから、親としてはやがて自分を追い出すだろう者を、手塩にかけて精一杯強く育てる。
道理だ。
This is the way it is。



橋本徹は、実力主義、あるいは成果主義を唱える。
この世では弱いものは生きのこることができないのだから、我々が生きぬくために必要なのは強いものをより強く、弱いものをより強くすることなのだ、と。
しかし、と私は思う。
道理とは常になんらかの原理のもとにしか成り立たない。
橋本徹が前提としている原理は、この世の原理を正しく踏まえているか。
「我々」や「日本」とは誰のことで、「生き残る」や「強い」とはどのような状態のことであろうか。

人間性、人間の人間たるゆえんとは、動物でない、自然でないというところから始まっている。
人間が動物であり自然であるなら、動物であり自然であることに疑問をもつことなどなかった。
その合一から外れたところに、人間性はある。
現代の科学技術の発達をもたらしたのはこの思考法であり、現代の社会の仕組みを作り上げてきたのもこの思考である。
「強いものとは生き残るものであり、弱いものとは死に絶えるものである。なるほど、そうですか。では生きてみればいいだけの話ですね。」で立ち止まらなかったから、現代の生活がある。
「所与の原理では死ぬべきとされている弱いものが生きる方法はあるだろうか。」というのが、人間の思考である。
そうやって科学技術を生み出し、弱者が強者に食い物にされつづけるだけでないやり方を考えてきた。

こういう、人間の複雑さを、橋本徹は前提に組み込んでいないように見える。
「強いものが生きのこる」、人間社会はそれほど単純なものではないのではないか。
あるいは、「生きのこるものが強いのだ」という前提をもつならば、人間社会における強さとはどのようなものであるかを見きわめるのは難しいのではないか。
テストや試合だけで人間の強さがわかるのならば、これほどラクなことはないのである。



徹底的に研磨されてきた数学の原理の世界において、ある条件から導き出される解はあらかじめ決まっている。
この世の原理、たとえば我々はそれを物理や生物学などの科学をとおして見るのであるが、それは所与のものであり、原始においてある条件から始まったこの世のあらゆる物事の解はあらかじめ決まっているのだろうか。
我々はそのことについてどのくらい知っているのだろうか。
世界は謎だらけである。

人間の原初は謎につつまれている。
というのは、それはトートロジーだからだ。
「人間の人間たるゆえんはその思考にある」と、「その思考は人間に独自のものである」というトートロジー。
たとえばある瞬間、猿が人間になる瞬間があったとして、「ん?」と気づいたところから人間になったのか、人間になったから「ん?」と気づいたのか。
気づかなければ人間にはなれないのだが、気づくことができるのは人間のみなのである。
鶏が先か、卵が先か。
問いそのものを見つめつづけるのは、ときに危険だ。
というのも、現実を見失い問いにおぼれるとき、人間性はときに路頭に迷い、狂気に落ちることがあるから。
問いそのものよりも、問いを生み出した現実を見失ってはならない。
鶏と卵のどちらが先であろうとも、現実に鶏は卵を産み、卵から鶏が生まれてくる。
同じように、もはや現代の我々が、自然との合一から外れたこの思考法からどうにも逃れようがない
というのもまた現実である。

自然との合一から外れているが、ではそれ自体は自然ではないのか、というのも一つの謎である。
人間が自然を疑い、自然に手を加え、自然を動かすからといって、人間もやはり生命でありこの宇宙の一部であることは揺るがない。
このような意識的な生物は自然のなかの唯一の例外なのか、あるいは生命の繁栄するところに必然的に生まれるものなのか。
例外だとして、必然だとして、その先にあるものはなんなのか。
人間はいったい何をやっているのか。

一方で、虎の生存戦略は人間的な意味での意識的工夫ではないにしても、一つの工夫である。
とすれば、そのような合理性に虎を導くものはなんだろうか。
生命とはそのようなものでしかあり得ないからなのか。
あるいは虎もまた、人間と別の意味でなんらかの例外的な特徴を持っているのだろうか。
虎がそうだとしたら、犬や亀やカラスは。
種としての生物がそれぞれに例外的な特徴を持っているとしたら、種のさらに下位に位置する個体一つひとつについてはどうだろうか。
それぞれの人間は、それぞれの虎は、それぞれの例外的な特徴を持っているのだろうか。
人間が虎の、虎が人間の例外的な特徴を知ることができず、内的な世界にとどまっているように、我々一人ひとりにも外からはうかがい知れない内的な世界があるのだろうか。
私が他の誰を見ても理解できない世界、他の誰も私を見ても理解できない世界、それはどこから。
そもそも私がここにいることは何か例外的なことなのだろうか。
あるいは、原始に与えられた条件から始まり解へと至る、すでに書き込まれた一つの(私から見れば)壮大な式のなかで、私は単に必然的なことだけをしているのだろうか。
そのような原理を読むことのできるコードはあるのだろうか。




高校生のころ、学校でよく漫画を読んでいた。
机の陰にかくして、教師の注意が向かう矛先に敏感になりながら。
俺はいつも他人のものを借りる。
ゲームも漫画も本もおもちゃも持っていない。
クラスメイトが学校に持ち込む漫画の中に、『天上天下』があった。
当時はたしか10巻ぐらいまで読んだ気がする。

一つの学校の中でのつっぱりとケンカの話を、たくましい想像力ででっかく飛躍させまくったらこうなりましたという感じの、もはやすがすがしいまでに男性的な世界。
16歳の俺としてはもちろんそのエロや暴力やギャグに引きつけられもしたのだが、同時に学校というものをここまで崩して描くことができるのだということをぼんやりと考えながら、驚いていた。
俺が引きつけられたのは、真夜と慎と光臣の2年前の出来事を描いた過去編だった。
何がどうなってるのか半分ぐらいしか理解できなかったけど、ただ避けられない悲しみを描いたものだということだけはわかった。


その後、マンガ喫茶で16巻ぐらいまでパラパラと見たことはあったけど、今回久しぶりに読んでみた。
こんなことしてちゃいけないなぁと思いながら読み始めたのだけど。
あのころ何がなんだかわからなかった悲劇は、力というものの悪魔的な魅力と、激しい嫉妬によって引き起こされたものだということがわかった。
このマンガは、そのように作者が見据えたものを描こうというときには多大な熱量が込められているのだが、細かいところが詰められていない。
え、なんで今こうなったの?みたいな疑問を持ち始めると、穴はいくつも見つけられるので、なんとなくわけわからない感をぬぐえないのはそのあたりに原因があるのだろう。
「なんかタマの裏側のシワは見せたけど、乳首にはニップレスみたいな不思議なマンガに」と、最終巻のオマケで作者が語っている。
連載長編マンガというのは全体のつながりを描ききらなければいけないから、短編集みたいに描きたいとこだけ精一杯描いて、あいだのつながりは作者だけがわかってればいい、というようにはならないから大変だなぁと思う。
13年もかけたんだって。
描いてるあいだにいろいろ浮かんじゃうから、放り込んでまとめるのも大変だろう。


いいセリフあるよね。

  ずっと今だけ楽しけりゃいいと思ってた
  どうせ先の見えねぇ未来なんざ
  見る必要もねぇと思って生きてきたんだ

  イヤになるぜ
  こんなんなってよーやく気づく自分のアホさによ
  “約束”ってな
  一人じゃ絶対できねーもんなんだってな
  (13巻)





あとはまぁ、古事記と大阪城などの歴史のこと。
これは歴史というよりは、作者がつくったおとぎ話として見ればいいだろう。
「読む」という行為は深い。
自分の見たいものをそこに読むのではなく、読むことによって何かを見なければならない。
真の詩人とは、物や出来事のに込められた意味を読むことのできる者のことであり、常人よりも深い位相で世界を見渡すことができる技を身につけている。
このマンガがそれをやっているかというのは微妙なところだが、少なくとも歴史の扱いにおいては、語りたいことを語るために上手く使っているという気がする。
始めから、それでいいのだと腰をすえているからいいのだけど。


とにかく、武術ってのはいいですよね。
俺も、胆(はら)くくらにゃあな。



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