This Is The One! - innocent -俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。
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JUGEMテーマ:漫画/アニメ 夕刻に家に帰り、着替えながらテレビをつけると、『クローズド・ノート』が放送されていた。 舞台挨拶での沢尻エリカの「別に」発言が話題を呼んだ、あの映画である。 どんな映画でも、見どころなんて言おうと思えばいくらでも言えるだろうに、沢尻エリカは言わなかった。 誰かがそれを大切にしているからといって、自分もそれを大切にしなければならないという道理は無い。 ただ、自分が相手を大切にしなければ、相手も自分を大切にしないだろう、というのは道理である。 それでかまわないのなら、誰かが大切にしているものだろうと平気でぶっ壊しまくってかまわないのである。 単に、考えも無しにそんなことをつづけていれば、いつか殺されるなり刑務所や病棟に送り込まれるなりする可能性が高まる、というだけの話で。 自分を何がしかの者として大切に扱ってもらえないというのは人の不幸である、というだけの話で。 誰にもまともに扱ってもらえない、というのはひどく寂しいので、多くの人は「私を大切に扱ってください」アピールをする。 というのはつまり、ウラを返せば「私はあなたを大切にします」アピールである。 そのアピールの手法というのは社会によっていろいろ決まっていて、礼儀だとか常識だとかいうものとして認識されていることが多い。 それ以外にも、身振り、表情、言葉づかいなども、お互いのあいだでふんだんに交換されている。 このアピールに多大な労力を振り分けてしまい、自分が他人から軽んじられる領域に踏み込まないことに躍起になっている人というのは、ひどく卑小だ。 自分が何がしかのものになることよりも、自分が無視されないことをいつも考えている。 しかしまぁ、こういった卑小な人物は特に注目に値しないので、結局軽んじられるのだが。 こういう卑小な人物を、ヘナチョコと呼ぶ。 ヘナチョコ、自分の信じることをスパッと言い切ることをしないような人物。 何がしかの人(つまり英語で言うところのsomething)とは、無視できない存在である。 その人が周囲を気にかけているかどうかに関わらず、周囲がその人を気にかけざるをえない存在。 その人は自分のことを見てもらうための目的で、誰かに贈り物をしたりする必要はない。 ただあるがままの自分でいるだけで、他人が注目せざるをえない存在。 あの舞台挨拶で沢尻エリカは自分がsomethingであることを誇示してみせた。 共演者や監督やスタッフや映画会社や広告会社やプレス関係者など、周囲の人々を軽んじてみせることで、自分はひときわ違った存在なのだと証明してみせようとした。 彼女が本当にsomethingであれば、それでも映画はヒットし、仕事の依頼は増えつづけただろう。 現実には、それから彼女はあっという間に凋落したのである。 あのときの沢尻エリカが本当にsomethingであったなら、彼女としては反抗的に「別に」などと言う必要はなかった。 「ラストシーンへ向けての主人子の心の揺れが見どころです」などと、ごまかしておけばよかったのだ。 まともに応えない、というのもまた、軽んじることの一形態なのだから。 10代の沢尻エリカはsomethingだった。 『パッチギ!』の彼女を見て、その存在を無視できる人がいるだろうか。 本人が好むと好まざるとにかかわらず、人目を引かずにはいられない特別な少女が存在する。 少女が身勝手であろうとも、いや、身勝手であるからこそ魅力はいや増し、少女もそれを察知しているのでますます身勝手になる。 しかし、20代の肉体と精神にしてそのような少女というのはありえない。 あの舞台挨拶のとき、沢尻エリカは21歳だった。 彼女としても、フィルムに写る自分の姿から輝きの褪せていることに気づいていたのではないか。 それでもなお自分がsomethingだと信じるためには、フィルムを軽んじ、周囲の人々を軽んじてみせるしかなかったのではないか。 本当に自分がsomethingであれば、自分がsomethingだと主張する必要はないのだということに気づきながら。 『行け! 稲中卓球部』というマンガを俺は大好きなのだが、中でも特に好きな回の一つに「その151 ゲース」がある。 ビビりのくせにエゴ丸出しの前野・井沢・田中の3人組に対し、クラスメイトたちはお互いに気づかいあっている。 しかし、そんな気づかいのウラに隠れて、それぞれのエゴにもとづく跳梁跋扈が行われているとしたら、それはとても醜いことではないだろうか。 さらに、単に他人を出し抜くことの上手いヤツばかりが美味い汁を吸って、出し抜かれたほうは怒りもせずに小さく泣いているだけだとしたら、そんな世界のどこに礼儀や常識があるというのだろう。 そんなヘナチョコどもにウンコを渡し、歩き去っていくゲス3人組は頼もしくさえある。 別に沢尻に軽んじられたからといって面白い映画は面白いのだし、沢尻がsomethingであれば誰の怒りを買おうとも仕事はくるのだし、本当に強い人は馴れ合いのウラで他人を出し抜くことに汲々としなくても人目を引くのである。 近ごろ、服装について考えている。 俺はよく、「首から下が残念な人」と言われる。 「顔は良いのにねぇ」という評価を、ずっとホメ言葉として受け取ってきたのだが、どうやらどちらかというとケナシてるらしい、ということに気づいてきた。 しかし俺にとって、服装でウケを狙いにいく自分というのを受け入れるのは難しい。 ファッション雑誌と同じような格好でその辺に転がってるヘナチョコどもと違って、俺はボロをまとっても魅力的なのだ。 服装をキメて「俺はイケメン」アピールをしなくても、あるがままでイケメンなのだ。 いや、イケメンでなくても、違う形での人間的魅力を兼ね備えているから、それで十分強いのだ。 そう信じたい。 しかし、これは沢尻の「別に」という強がりと同じものなのではないか。 つまり、みんなが汲々としている(と俺は思っている)服装を軽んじてみせることで、自分がsomethingであることを自ら主張しているのではないか。 実は自分が特に注目に値するほどの何者でもないのかもしれないという不安を押し隠すために、ボロをまとってみせることで自分に不安など無いのだということをアピールしているのではないか。 本当に自分に自信があるのなら、みなさんのリクエストに応えてみせればいいのである。 自分の勝負するところはそこではないと思っているのなら、そこにおいては適当に雑音を排除しておけばいいのである。 自分が無視されないための「俺も仲間ですよ」アピールではなく、とりあえずみんなこれを欲しがってるみたいだからそうしようかという自然体で。 あるがままの自分でいる、というのは難しい。 こないだテレビで見かけたヘナチョコ。 誰かこいつにウンコをかぶせてあげなよ。
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