This Is The One! - innocent -

俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。


<< 僕等がいた 9巻 | main | 2005年の俺的ベストアルバム Top 5 >>



スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

広告
posted by スポンサードリンク |-|-





書物を読む、ということ〜言葉について〜


一昨日の夜から言葉というものについていろいろ考えてたんだけど、そこに昨日、「白いカラス」の記事へのコメントでこのブログでの俺の語り口の問題が出てきて、いろいろと頭の中にあるので、とりあえず書き始めます。
またもやまとまりのない読みにくい文章になるかもしれないけど、そのことについてもいろいろと言及するつもりです。

言葉の重要な役割はいくつかあるけど、その一つに、他者とのコミュニケーションの手段としての、言い換えると、人の意思を他人に伝えるときの媒体としての役割がある。

人の頭の中(あるいは心の中)にある意思、思いや感情というのは、イメージ(像)みたいなものであって、それははっきりとした形や輪郭を持つ物ではない。
それを他者に伝えようとする時、もっとも理想的なのはそのはっきりしないイメージを、はっきりさせないまま相手の頭の中にピッと送ることなんだろう。
それができれば誤解は生まれないし、ピッタリくる表現を探して苦労する必要もない。
しかしそれができないから、俺達は他者との共通の言葉というものを使って、自分の意思なり感情なりを表現しなければならない。頭の中にあるはっきりしないイメージみたいなものを、表現しなければならない。
そこで俺達は、イメージのなんとなくの形に合わせて自分の知ってる言葉の中から使えそうな言葉を探し出してきては、その単語一つを、一つのピースとしてイメージを形づけようとする。
これは図に書いてみるとわかりやすい。→図1

わかりやすいとか言いながら見にくくて申し訳ないけど、この図の右側が意思や感情のイメージで、左側が知っている言葉の語群。
左側の言葉達の一つ一つをピースとして、右側のイメージにできるだけ近いイメージを作ろうというわけだ。
この時に助詞や接続詞は、接着剤の役割を果たす。

ここで、さっき挙げたのとは別の、言葉の役割が見えてくる。
それは、自分の意思や感情に合う言葉を探そうとして、その意思や感情のはっきりしないイメージみたいなものを頑張って見ようとすることによって、その意思や感情に対しての理解を深めることができるということ。
これは「白いカラス」のところで書いたことと重複するところだけど、自分の思いを整理し言語化しようとすることで、その思いに対する理解が深まることがある、というのはそういうことです。
時にはその思いや感情自体が深まることもある。
この事についてはとりあえずここで終えて、さっきの続きに戻ります。

自分の意思や感情を表現しようとして、それにピッタリくる言葉での表現を頑張って探すわけだけど、しかし、俺達のあまりにも多様な意思や感情に対して、人間の知ってる言葉の数というものは、明らかに少なすぎる。
だから、自分の思いや感情というものを、まさにピッタリに一から十まで少しの過不足もなく、言葉で表現できるということは、(絶対にではないけど)ありえないのだ。

だから、俺達は自分の意思や感情のイメージに対して、おおまかでおおざっぱな表現しかできない。
そしてそれを受け取る側は、その表現をみてその人の中で、またその人なりのイメージ(もちろんはっきりしない)を再構築する。
そのようなプロセスを経ているのだから、ほんの少しだろうがそこに誤解が生まれることは当然なわけである。

「言葉というものは、物事に対して常に不足であること。また、同時に常に過剰であること。私たちはこれを意識しなければならない。」

この一節は、誰が言ったんだかどこで読んだんだか覚えてないけど、そういうことをよく表していると思う。
そこで、その欠陥を少しでも埋めるために、話し手は身振り手振りを使ったり言葉の微妙なイントネーションを使ったりし、聞き手は相手の微妙な表情の変化を読みとったりするわけです。
つまり俺達は喋っているときに、言葉以外の手段も使いながらお互いにコミュニケーションをしているわけです。

で、メールなどの文字のみのコミュニケーションの場合、これは文字通り言葉のみでのコミュニケーションなので、直接会って話すときよりも情報量は大きく劣ってしまう。
そして、このブログでの表現ももちろん同じ事です。(ふぅー…したらくん、この後のところがやっと本題ですよ)

文字のみに頼って自分の意思や感情を表現しなければならないとき、そこに誤解や、意思の疎通のすれ違いが非常に生まれやすくなってくる。
だからこのブログでの言葉選びに俺は非常に気を使っている。
だから、俺の語り口がわかりにくい、だとか回りくどい、だとかいうのは、そういうところに原因があるのだろうと思う。
俺は「わかりやすさの追求」よりは、「より正確な表現の模索」を優先する。

ところが今の日本の世の中では「わかりやすい」ことに大きな価値が置かれている。
わかりにくい(複雑な)ものも、わかりやすく(単純に)表現し、理解しようとしているように俺には思える。
小泉首相の語り口、なんていうのはその典型だ。
しかし、わかりにくい(複雑な)ものをわかりやすく(単純に)捉えようとする、ということは、はっきりした形も輪郭も持たないイメージを、無理にでっかい大枠に当てはめるようなものだ。
こういうことをすると、えてして元の複雑なイメージと、でっかい大枠の間には大きな差異が生まれてしまう。
時には、全くの別物、なんてこともありうる。

わかりにくい物をわかりやすく表現してくれ、なんていうのは無理な要求なのだ。
無理なだけではなくて、時には危険なものにもなりうるのだ。
おまけに俺がこのブログで書こうとしているものの中には、俺自身にもあまりはっきりと捉えられていないような事象を書くことがある。
それをわかりやすく表現する、なんてことは不可能なのだ。
このブログで、俺が「少なくとも」とか「俺にとっては」などの言葉をよく使うのは、危険な断定や一般化を避けるためである。

日常生活のすべての場面で自分の発する言葉をいつも意識しなければならない、とは言わないが、センシティブな事象を扱うときや公の場では、言葉を意識しながら慎重に的確な表現を模索して、言葉選びをするべきであると思う。

このように、ピッタリくる表現を、自分の知っている言葉の中から探し出そうとする時には、当然豊富な語彙が要求される。(ふぅー…舞さん、トラックバックして言いたかったのはここのところですよ)
語彙が少なければ貧相な表現しかできないので、自分のイメージとの差異もまた広がってしまう。
また、語彙を増やすことにより、前に挙げたような理由によって、自分を深めることもできる。

つまり書物を読む、ということは自分を深めることがもちろんできると同時に、語彙を増やすことにも役立ち、ひいては自分を表現することにも役立つわけである。
つまり、インプットとアウトプットの両方に有効なわけだ。
みなさん、書物を読みましょう。

ふぅー…なんとかまとまったぞ…
疲れた…
こういうのはたぶんもうしばらくやらないな。

このように稚拙でやたらと長く、しかも割とありがちな文章を最後まで読んで下さったみなさん、誠にありがとうございます。

途中でやめてしまい最後まで飛んできたみなさん、それも仕方ない判断だったと思います。
また気が向いたら読んでやって下さい。
広告
posted by kach 13:46comments(3)trackbacks(0)





スポンサーサイト

広告
posted by スポンサードリンク 13:46 |-|-


この記事に対するコメント
じっくり読ませていただきました!
私は表現が乏しい自分が悲しいです…。
kachくんはブログを通じても、普段の話し方でも言葉を大事にしてる感じがする!
やっぱり書物を読むのは良い事ですね♪
私もまずはそれから始めます。
まとまらないコメントでゴメンね↓
でもkachくんの考えてる事は分かった気がします☆
舞 | 2005/12/23 10:30 PM


なげぇよ!(笑)
でも最後に自分でも長くてごめんって言ってたから許す!!w

なるほど〜、言葉選びか〜。
確かに言葉って不思議なもんだ。自分のイメージとの差異については考えもしなかったな。
普段からほんの少しでも考えて言葉使うようにしてみよ。
社会の場に出たときにきっと役に立つ!はず!w

でもこの記事書くの相当時間かかったんじゃあ・・・・。
したら | 2005/12/24 1:28 AM


少なくとも2人は最後まで読んでくれたから、書いたことは報われた。
よかったよかった。

書くのに何分かかったかって?
それは言えねぇな…
kach | 2005/12/24 11:33 AM













この記事のトラックバックURL
トラックバック機能は終了しました。