This Is The One! - innocent -

俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。


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祈り


姉に息子が生まれた。
俺にとっては、甥っ子ができた。

子供や赤ん坊というものをあまり可愛いと思ったことはなかったが、これは可愛い。
果てしなく可愛い。

赤ん坊というのは不思議なもので、彼を取り巻く大人たちは、自然と彼に奉仕してしまう。
彼は自分自身でできることはほとんど何も無いが、しかし誰よりも懸命に生きている。
彼ほど生きることに必死にしがみついていて、しかもそのことに対して彼自身でできることはすべてやっているのに、それでもまだ生き抜くには足りていない者がいて、それを見る周囲の者が彼に対してそれほど無理なく十分に手助けしてやれることがあるのなら、それをもちろんしてやるのが当然で、やらないという理由のほうをかえって探さなくてはならないというほどだ。
これはどうも、人間の倫理の基本のように思える。
さらに加えて、周囲の大人たちは、彼のために何かしてやることが嬉しいのだ。
彼のため、彼の喜ぶためであれば、かなりの程度の負荷のある事でも甘んじて行うだろう。
そうやって、彼のために役に立つのが嬉しいし、ましてやそのことで彼が笑ったり気持ちのいい素振りでも見せたら、天にも昇るような気持ちになる。
正味な話、彼はまさにアイドルなのだ。


俺が椅子に座り、俺の膝の上に彼が、俺と同じ方向を向いて座る。
そうして俺と彼がついた四角いテーブルに、家族全員がつく。
すると、位置関係上、それぞれの主体はまったくの平等な距離と関係を保っているのだが、しかし現実的には彼がその中心になる。
テーブルを取り囲んだ家族の顔はすべて彼に向けられ、彼の一挙一動に家族全員が一喜一憂する。
我が母(つまり彼の祖母)が手をたたくと、彼は甲高い喜びの声を挙げる。
家族一同、破顔一笑でどっと盛り上がる。

彼を喜ばせるというのは、これがなかなか高度な業を要するのだ。
たとえば誰かが手をたたくのが彼は好きで、両手両足を振り回して喜びの声を挙げる。
ところが、闇雲だとか、おざなりに手を打っても、彼は興味を示さないのだ。
彼の不意をつくだとか、あるいは単純なリズムをちょっとひょうきんにズラしてやる必要がある。
彼を喜ばせ、ご機嫌を好くするという目的に向かって従事する者は、それ相応の集中力を払わなければならない。
これがなかなか、骨にこたえるのだ。

俺はこれを、人間の芸術的能力の発露であり、尊いものだと思う。
瞬間に集中し、彼の表面から彼のご機嫌と気持ちをうかがい、自分なりの表現を探りながら発する。
それに対する彼の反応をまたよくうかがいながら、何度も探りながらくり返し、彼の求めているものでありながら意外なものを彼に向けて表現し、彼の感性を喜ばせる。
彼の気分と機嫌は刻々と変わり、また自分の表現を受け止めたことによって変わってもいくから、つねに集中しながら、刻々と変化していく彼との対話をつづける。
それは、命と命が出会う、人間的営為で、双方にとって充実した時間となる。
やがて彼との日々を思い出すとき、その時に何をしたか一つも思い出せなくても、彼と過ごした喜びがあったことだけは忘れずにいる。

赤ん坊というのは自分の機嫌や気分に率直だから、「相手がよく頑張っていてくれているからまあこの辺でよしとしまひょか」というような落としどころで納得するということはない。
結局、自分の気分がどうであるか、に従って行動する。
まったくごまかしの利かない対話者なのだ。

これと対峙するというのは、疲れる。
俺の膝に彼が座り、家族全員で彼のご機嫌をうかがっているようなとき、姉(彼の母)はそれほど積極的に参加せずに眺めている。
常日頃、彼と一対一の緊張関係を強いられている姉にとって、実家にいるときは貴重な休息時間なのだ。
赤ん坊に対する手落ち無しで、休息を得るためには、必ず協力者が要る、
子育ては、決して一人ではできない。



疲れる。
そう、疲れる。
誰かと手落ち無く愚直に誠実に対峙しようとするなら、それは人間の集中力を常に働かせる仕業となり、とても疲れる。
人間は休みたいと思う。
どうか、勝手知ったる安全な穴倉で、入り口をぴったり防いで外界と遮断し、片隅にうずくまってすべての緊張を解き、虚空を見つめて空っぽになりたい、と。
赤ん坊を喜ばせるのは喜びだが、ただいつまでもそれを続けている疲れは、やがて喜びを麻痺させていく。
心は自閉し、もう何もかもいらないと訴える。

現代人は、多く、疲れている。
人々は多く、疲れ、閉じようとし、何も見たくない、どんな注意も研ぎ澄ませたくないと、安息を求めている。
そんな彼らはしばしば、スマートフォンを見つめる。
そこにあるのは、あらかじめ整えられ、自ら注意を向けずとも勝手に飛び込んできて、何も残さずに去っていってくれるものばかりだ。
疲れた人々は、電車の中で、食事中に、睡眠前にも、安全に整えられたものだけがある、勝手知ったる休息の地に赴き、集中力をゆるめる。

勝手知ったるスマートフォンと、それを見つめる者の関係は、赤ん坊に向けて表現する大人と、それを見つめる赤ん坊との関係とは、少し違う。

赤ん坊の表面を必死で探りながら手を変え品を変える表現者と、目の前でくり広げられる事態がいったい何事であろうかと少ない経験と全身の感覚を総動員する赤ん坊の間には、異質で断絶された個体同士の、隔たりを大きく飛び越える出会いがある。
その断絶は運命づけられた根源的な断絶だから、それを飛び越えるには奇跡が必要なのだ。
永遠の不可能の中にたった一つの可能性を見つけだし、作りだす、人間の高度な創造的行為がそこにある。
そこにはお互いが、お互いの見えない姿に向かって、聞こえない呼び声に従って、顔を向けて飛躍する、二人の協働が必要でもある。

勝手知ったるスマートフォンを見つめるものは、もとより休息を求めてそこに来た以上、注意力を働かせて気を削ることはしたくないので、何かを受けとる気は無く、ましてや受けとるために自ら顔を向けて飛躍し、赴くつもりも無い。
スマートフォンの中の情報を形成する者も、自分の命の鼓動を聞き分けて飛躍してくる者がいないことをわかっているので、特に何かに向かって集中していくということもない。
ただ、虚空に投げた情報が、そのまま虚空に消えていくものとして、自分の手元を離れた後のことなど気に留めることもなく放っていく。
空振りつづける無数の情報たち。
瞳を失った眼で眺めつづける人間たち。
やがて人々は、疲れを回復する術を失くしていく。

ものと対峙し、人と対峙し、世界と対峙し、全霊をかけて飛躍したことに対する報酬は、飛躍した先でこそ手に入る。
赤ん坊を喜ばせようと模索しつづけた命の緊張を潤すのは、赤ん坊のあげる甲高い喜びの叫び声。
赤ん坊はとてもとても手がかかるし、心を削る。
しかし、いったい何がそうさせるのかは誰も知らないままに、赤ん坊は家族の、大人たちの笑みを引き出さずにおかない。
それは赤ん坊と対峙しつづける緊張を保ちつづけたからこそ得られる報酬だ。

休息の地から足を踏み出さず、張り詰めた注意の向こう側まで行かない人は、自分が何者で、何をしていたのかを忘れていく。
何に疲れているのかもわからなくなったまま、ただ休息を求め、しかしいつまでも癒されない人。
その窮地に、俺も何度か陥ってきた。




赤ん坊で華やぐ実家を出て、今の自分のアパートに帰る前に、地元の駅の美容院に寄った。
中学生のころから、もう15年間も通いつづけている店。
いつも笑顔で親切にしてくれる、「先生」と呼ばれる店長が、翌日から1ヶ月間、入院するために店を空けるのだと、そのときに初めて聞いた。
ガンの治療だ。
俺の母は、8年前にガンをやっていた。
店長もそのときの話を持ち出して、「私はその時には何にも知らなかったんですけどね」と言っていた。
俺よりも長く、20年以上もその店長のもとに通っている母だ。
俺は店を出てすぐに、母に連絡した。
俺から店長にかけられる声はほとんど無いけれど、より付き合いも長く、ガンの経験もある母から、何か少しは支えになるようなことをしてくれるといい、なんて、そんな他力本願な気持ちもあった。
そんなときには俺は今でも子供で、大人のことは大人に投げてしまうのだと思いつつ。

俺は9年前に腎臓を患った。
病は、人に何かを思い起こさせる。
俺はアパートに向かう電車に乗りながら、車窓に流れる見慣れた景色が少しずつ暗くなっていくのを眺め、あの頃の感覚を思い起こしていた。
この土地の上で人間が生活し、日々を営むこの景色は、ただそれだけでなかなか味わい深く面白みがあり、しみじみと注意深く眺めるのにとても値する景色だと。
やがてこの社会に生きるのに慣れてくると、窓から見えるお店がどこに支店を出しているかとか、どのマンションやビルがどこの資本の関係だとか、そういう末端の情報ばかりに目が行きがちになる。
それはそれで面白いのだが、しかしやはり、そのビルが建っていて、隣のビルと並んでいて、なにやら灯がともっているという、ただそれだけの景色や出来事を面白く感じる心を失くしては、どうも面白くないと。
知っている情報の世界は確かにラクで気を抜けるのだが、人間はそこだけでは生きていられない。
この地球上に、ただそこにある、ものや出来事との得体の知れない緊張関係を失くしては、自分がどこに生きているのかもわからなくなってしまう。

母は、忘れたい事実、自分がガンを過去に患ったのだということを思い出したかもしれない。
それは不快な不安を呼び起こす。
しかしそれもまた人生だと、赤ん坊が濃密に世界と対峙して吸収しつづけ、周囲にたくさんの笑顔と明るい喜びを撒き、また別のところでは静かに朽ちていく命もあり、そのどちらもが人生なのだと、改めて噛みしめているかもしれない。

俺はそういう人生を、愛しもし、憎みもし、翻弄されながらも、ただ味わいつづけて生きるのだろう。
愚かであることに失望し、また愚かであることをありがたいとも思いながら、ただ、生きるのだろう。
そんな日々を悪くないと思う。
そんな日々の終わりに、本当の休息が待っているのも、悪くないと思う。
悪くない日々を悪くないと思える、そんな豊かさと平和を、守りたいと思う。
どうか。


 
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posted by kach 21:44comments(0)trackbacks(0)





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