ときどき、俺の勤めている会社はスクランブル(異常勤務状態)に陥るときがある。
入社1年半の俺が勤めている期間で、今が2回目。
平均すると、1年に1回それがある計算になるが、たまたま重なっただけと思われる。
というのも、前回のスクランブル(3月から4月がそれだった)の時に、入社20年以上の社員が「こんなのは初めてだ」と言っていたから。
スクランブルになると、部署全員(ときには社員全員)の土日が無くなる。
毎日終電まで会社にいる。
ギリギリまで絞りつめて、少しでも多くの利益を社内に残そうとする、カネにがめつい会社なので(この資本主義社会において当たり前のことでもある)、普段からギリギリの人数で仕事を回しているのだ。
そこに、通常業務を大きく超えた分量の仕事が入ると、パンクしてスクランブルに陥る。
3月は、消費増税直前駆け込み需要と、新規の大型案件の始動。
今は、倉庫の引越し。
つまりよく働くのだが、それ自体は、まあよい。
問題は、上司に無茶な扱いを受けるときだ。
無茶というのは、それだけ俺の能力が足りていないのだとも言える。
こういうとき、なかなか辛いものがある。
というのは、自分が原因で事態が思わぬ方向に進んでしまうのなら、努力と向上の余地があり、ぐっと一踏ん張りの先に、事態をどんなふうに修正していけるか思い描くこともできる。
しかし、原因が他人にあるとなると、それに対しては手の施しようが無いのである。
仕方が無いので、自分に原因があるところを見つけて、ぐっと踏み出してみる。
そして、俺は自分にこう言う。
「大丈夫だ。たとえ上司が否定しようとも、俺が俺を信じている。俺は俺に見えている未来を信じている。俺が自分を疑うのは、誰かが俺を否定したときじゃない。俺が俺を疑うのは、俺が失敗したときだ。」
しわが寄って汚れたワイシャツに、汗の染み込んだスーツのズボン。
くたびれたペラペラのかばんを無造作に肩にかけ、風を味わいながら通りを歩く。
身のこなしは気取らないが、体には誇りが満ちている。
なあ、そのために生きているんだろう?
生きたいように生きるために生きているんだろう?
人に対するときには、笑顔を浮かべる。
電車に辛そうな人がいたら、席をゆずる。
赤信号でも渡るが、人には道をゆずる。
相手が目をそらしても、挨拶をする。
厚意には友情を、拒絶には憐憫を返す。
誰もそれをしなくなっても、俺はする。
すべての人がそれをするなら、俺もする。
誰もそれを考えなくなっても、俺は倫理について考える。
世界に倫理が完成するときは、俺も幸福になっているときだ。
必ず、もっとみんなと仲良くなって、優しくて楽しい世の中にする。
生まれたことは、生きることは嬉しいことなのだと、子供たちに伝える。
冷たい世の中で寂しいと感じる時、それ以外にすることがあるだろうか。
誰かに冷たくされても、俺は誰かに優しくする。
自由は重荷だが、価値ある重荷だ。
そんな重荷を背負えるなんて、誇りある名誉だろう。
一方で、みんなと仲良くなると言いながら、進んで孤独を選んでいる自分の生き方に疑問も感じる。
この矛盾を解いてこそ、俺は幸せになれるような気がしている。
決して、大きく遠く間違ってはいないはずだと信じながら。
道を歩きながら、俺はこう言っている。
「This is how I live
This is where I stand
This is when I start
This is what I belong to
This is who I am」
and, This is the one.
その小さな炎、消さずに力に変えてGO