This Is The One! - innocent -

俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。


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Good Things, Good Life

JUGEMテーマ:日記・一般






今朝の朝日新聞の朝刊に、「人口減にっぽん」という連載の二回目が載っている。
1面には「『島留学』田舎こそ最先端」という見出しで、隠岐諸島にある高校の紹介がされている。
全国でも代表的な人口減の島根県の、しかも離島にありながら、生徒数が増加しているそうだ。
ドバイの日本人学校から、この隠岐の高校に進学を決めた生徒は「地域全体が学校。ドバイの学校より小さいけど広い」ことが魅力だと感じたと話している。
思えば、大学教育がそうであるように、教育の贅沢な姿とは少人数教育であり、高等教育の行き着くところとは実地教育である。
この高校の生徒たちが学ぶのは、教室での基礎教育に加えて、島の課題をテーマにした実地教育だという。
理論を学び → 実地を見て → 仮説を立て → 検証し → 発表する、という高いレベルの教育を行う環境が整っている。
普通、田舎にある学校というのは教育環境としてはあまり望ましくないと思われがちで、それは予算や設備が不足しているからなのだろう。
しかし、視点を変えれば田舎ほど教育環境が整っているところはないのである。

たとえばこういう環境で学んだ高校生がいるとしたら、その人はもはや都会のマンモス大学に行く理由はほとんど無い。
地域の課題を解決するのに尽力したいと思えば、そのまま実践してみればいいのだし、そのためにまだ学びたいと思えば、学部の早い段階から少人数でガンガン鍛えて論文を書かせるようなトップレベルの大学に行って、フィールドには自分の地元や、似たような課題を抱える田舎を選べばいい。
違う仕事がしたいと思えば、その若さでその経験をしている人材は重宝がられる。
そのために入試を通るための学力が欠けている場合もあるかもしれないが、大学入試はこれから暗記型の学力重視から、大学で何をどのように学びたいかという意欲と課題設定能力を重視する入学試験制度に移行していくらしい。
詳しいことは知らんが、それはいいことだと思う。
俺なんかは何も考えずにとりあえず大学に入ったクチだが、そんな人はどこの大学に行こうとそれほどこだわりはない。
それよりは、その大学で特別に学びたいことがある学生が入学できるようにするべきだ。
俺みたいに特に目的も持たないぼんやりした若者は、大学に門前払いをくらって社会で揉まれ、自分が本当に勉強したいのだと気づいてからもう一度挑戦するぐらいでちょうどいいのである。
それで十分に間に合う。


一流のもの、よいものは都会にあって、田舎にあるものはその下等品か副次的なものでしかない、という一元的発想はもはや時代遅れである。
それが通用するのは20世紀の開発型経済成長が通用していた時代までだ。
今は「差」ではなく「違い」の時代である。
同じ指標で優れたものと劣ったものを比べられる「差」ではなく、そもそも他と比べられない「違い」によって、価値は決定される。
一本の指標の元に順列が決定される一元的世界ではなく、多様な指標が乱立する中で認められたものに価値が付与されるのである。
そこで価値を認められるためには、どのような生活の中でどのようにそれが活きるのか、指標の立て方から包括的に意味を付与しなければ、誰にも伝わらないし、価値を認められないのである。



とかく不景気な世の中で、どうも冴えない顔ばかりなのだが、よく見れば悪くない世の中なのである。

たしかに、20世紀的価値観で、名の通った都会の大学に行って、名の通った企業に就職して、よりよいキャリアコースに乗ることが目標なのだとしたら、よくない世の中である。
名の通った企業に就職したところでリストラされるリスクにおびえなければならない。
国が主導して大規模な公共投資で賃金が上がり、金融緩和で設備投資が促進されてさらなる規模拡大と売上拡大というような、開発型の経済成長はもはや成功していないのだから、経済がよくなる当てもない。
イヤだイヤだと思いながらも昇進と昇給だけを当てにして毎日働いてみても、企業の収益と国の税収は次々と金融の海に消えていき、記号と情報を扱う一部の投資家やファンドのところに溜まっていく。
溜まったところで使い道といえば次の投資だけなのだから、世界的にはまだ始まってもいないアリババという見知らぬ会社が、我々の生活に役立ってくれている様々な企業の数千倍の価値を持つ。
そのアリババが順調に業績を伸ばしたところで、その結果として膨れ上がったカネが我々の手元に回ってくるという期待は持てない。

もしも我々が金持ちを目指すのだとしたら、我々がこれから手にするのはすべて二次的な粗悪品である。
ヨーロッパのスポーツ選手やアメリカの俳優が手にするものに憧れてそれを手に入れても、彼らは広告に写るとき以外にそんなもの好んで使ってはいないし、使っているとすればそれは我々が手に入れたものがイミテーションに過ぎないような格段に優れたものである。
レクサス一台持っていたところでそんなもの珍しくもないのだから、BMWを別にもう一台持つか、時計をロレックスにするか、ゼニヤの生地でスーツを仕立てるか、次の手を考えつづけなければならないし、労働者でいる限りどれだけ働いてもカネは足りない。
無間地獄のような労働生活から抜け出す術もないどころか、不景気でその仕事すら失いかねない、お先真っ暗の絶望状態である。
ま、そりゃ冴えない顔ばかりにもなるわな。


見方を変えれば、それでも悪くない世の中なのである。
現代の世の中において、価値を決定する権利は国とテレビと広告だけに集約されてはいない。
自分の信じる価値観で、いいモノやいいコトがあるなのなら、それを適切に表現すれば認められる時代なのだ。
プラダやベンツなどのブランド品と同じぐらいいいモノとして認められるということではなく、ブランド品とは違う指標でいいものだと認められる。
その指標を提示するところから自分で決められるのだから、自由度は非常に高い。

富豪は俺が持っていないものをたくさん持っている、たしかに。
しかしそれは裏を返せば、俺の生活にある多くのものを、富豪は持っていないのである。
ならば富豪の生活に近づこうとするよりも、自分の持っているものの中でいいモノやいいコトを発見しようとするほうが、よっぽど現実的だし、アタマの使い甲斐もある。

本当はそれだけでいいのだが、現代人は、というより人間は根本的に自分の価値を実感したいものだ。
そして、価値とは他人に認められて初めて生まれるものだから、それを他人に見せなければいけない。
現代には、その手段はたくさんある。
情報化社会に革命的な点があるとすれば、そこだろう。
何かを発信するツールを、誰もが持っている。
おびただしい情報は個人のアタマをいたずらに混乱させもするが、自分で発信しようとするならば必然的に情報は整理されなくてはならない。
アタマを使うとは、そういうことである。



俺は近ごろ思うのだが、人生とは楽しむためにあるのではないかと。
人生にもしも目的があるとして、目的を達成したらどうする。
そのときに死ぬのか?
残念ながら死なないのだ。
目的を達成したらその先の人生があり、達成された目的は意味を失くす。
それならば、次の目的を定めてそれに向けて進むしかない。
人生とは常に途上にあるものであり、完成は訪れない。
もしも人生に目的や意味があるとしても、それは常にここにはなく遠くにあり、せいぜいがぼんやりとアタマの上に浮かんでいる程度の、にぎわいというか彩りみたいなものなのである。
とすれば、やることといえば、その途上を楽しむことぐらいしかないではないか。
どうも近ごろ感じるのだが、景色をただ眺めているときに俺の心は一番喜び、満足しているようだと。

楽しいことを、しようじゃないか。
何をしたら楽しいか、考えようじゃないか。
食うためには働かなければならないから時間は余分にはないし、食い扶持を引いたらカネは余分には残らないけれど、いいアイディアというものは、ある程度の制限をかけられたときにこそ生まれるものだ。
何を使って何をしてもいいからとにかく何かをしろと言われると、かえって人は何も思いつかないものだ。
アタマを使うことは楽しいだろう。



冒頭に張ったMVは1988年のものだ。
当時の日本はバブル景気のはしりの時期だが、アメリカは決して好況というわけではなかった。
70年代の不況からつづく貿易赤字と財政赤字の是正のためのプラザ合意が1985年。
その後の為替レートが不安定な時期であり、ソ連が崩壊して冷戦構造が終結し、アメリカの一強となり金融市場でぼろ儲けするよりも前のことである。

人は自分の生まれる時代を選べないのであり、それぞれの時代にはそれぞれのいいところと悪いところがある。
好景気でどいつもこいつも浮かれ顔だからといって、自分も一緒になって浮つくというのもバカみたいに感じるものだ。
不景気でどいつもこいつもシケ顔だからといって、自分も一緒になって老け込むのもアホらしい。
渋面だらけの世の中で、自分だけ人生を謳歌していれば痛快じゃないか。

冒頭のMVの女性は一方的にはしゃいでいる。
看板やショーウィンドウが映るからといって、広告塔的にはしゃいでいるわけではない。
ショーウィンドウの前で何も買わずにはしゃいでいる。
ウィンドウショッピングで楽しむのはタダなのである。
衣装はたった一着。
一日ですべて撮り終えたのではないかと思えるほど簡潔な構成である。
ビデオカメラ一台と、お気に入りの衣装一着があれば、一日たっぷり楽しめる。
楽しみとは、その程度のものだ。
終えたら、忘れてしまえばいいのだ。
そしてビデオの最後が教えてくれる簡単な真実。
人生におけるたいていの出来事の価値を決定づけるのは、「何を」するかではなく、「誰と」するか、だ。



たしかに、21世紀の経済においては、国外でも商品を売っていかなければ、国内経済も回っていかないだろう。
国内経済にも国外のカネが回っているのだから、当然のことだ。
日本以外の国にも商品を売っていくということは、そこにいる人々に対して「何を見せられるか」が決定的に重要になる。
それが購買者の生活に貢献する、たしかにいいモノであると見せられれば、その商品は売れるだろうし、それが本当であれば根強く残る。
とりあえず売るだけ売って目先のカネを取ってとんずらするのではなく、小さな売上げを長期にわたってあげることで大きな売上げにするようなヴィジョンが理想だろう。
そのためには、「何を見せられるか」、本物をしっかりと作って見せられる地力がなくてはならないのだ。
「グローカル」とは、きっとそういうことだろう。
よいモノ、よいコトで、よい生活を。
それが理想だ。

ありがたいことに、どうやら明日も平和で健康なのだし、いつか死ぬ。
人生を楽しんでいいのだ。


 
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