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俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。


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マーク・トウェイン 『王子と乞食』 と、ドジャース と、その他

JUGEMテーマ:読書

 

 

7回無死のピンチでクローザーがマウンドに上がる。

もう後がないのだ。

何せ、ポストシーズンのディビジョンシリーズ第5戦。

勝ち抜けには3勝が必要なシリーズで、2勝2敗だ。

1点のリードを守りきるため、7回であろうが一番いいピッチャーをつぎ込む。

普段なら9回の1イニング専門のはずのクローザーを、7回にすでに投げさせる。

クローザーはすべての力を注ぎ、7回のピンチをしのぎ、8回も0点に抑える。

しかし9回、上位打線に回ったところでついに限界をむかえる。

2番と3番をおさえるだけの球が投げられず、連続四球。

もう、これ以上のピッチャーは残っていない。

しかしここで、最も頼りになる男が、まさかの復活を遂げる。

シリーズの第1戦と第4戦で登板し、チームの2勝を一人で稼いだ絶対的エースだ。

サイヤング賞に輝くこと3回。

投手としてのあらゆる栄冠を手にしたが、唯一手に入れていないのがチャンピオンリングだ。

第4戦で力を出し切ったはずの左腕が、最後の2アウトを取るためだけに中1日で再び立ち上がる。

9回ウラ1アウト、1点差、ランナー1塁2塁。

対するは4番。

去年のポストシーズン6試合で7本のホームランを放ち、マウンド上の絶対的エースからもそのうちの2本を打った男。

この男を倒さずして、次には進めない。

 

 

これは漫画の話ではない。

田中マーくんの話でもない。

今日のロサンゼルス・ドジャースの話だ。

リーグチャンピオンシリーズでは、またマエケンの出番があるだろう。

頑張れマエケン。

ゴーゴードジャース。

 

 

 

ここからまったく関係ない話をする。

例えば合コンのような席で、大人というものはどこかでいくらか寂しいものなのだと知る。
人としゃべりたい、時間を分け合いたいものなのだと。
どうして大人になるまでそれを知らずにいたのかと思えば、自分には家族がいたからだと気づく。
俺が家族の事をこころよく無視していたとしても、注がれる視線をいつも感じていたのだ。


一人で自分をしっかり支えていられない人を、弱いものだと俺はいつも見てきた。
たとえば結婚したくて仕方ない女性など見れば、まずは大人として自立すればいいのではないかと。
しかし独立心を保って自立した大人もやはり、どこかで心の糧を得てはいるのだ。
本を読んで先人に学ぶ事で、事業や仕事を通じて社会に参加して寄与する事で、メディアや会社の中で誰かに認められる事で、心の糧を得ている。
ある特定の誰かに頼らないからといって、その人が独立しているとは簡単には言えまい。
頼る対象を単純に分散させているだけかもしれない。


結婚してみて、あの寂しさが心のどこからもほとんど消えている事に気づき、その点ではいいものだと思う。
心の渇きを癒そうとして、手をかけ労をついやして、誰かの心と肌を得るのに忙しくなる事はなくなった。
俺の人生にとって、何が良くて何が良くないのかは、俺にはわからない。



ここまでの話とはまたもや一切関係ないが、マーク・トウェインの『王子と乞食』を読んだ。
たぶん二度目、もしかしたら三度目かもしれない。
「トム・ソーヤー」と「ハックルベリー・フィン」だけ読んでいる人は、マーク・トウェインの語り部としての本当のすご腕には気づかないのではないかと思う。
最初にマーク・トウェインの何を読んだらいいだろうかと問われたら、俺はほとんど迷わずその二冊を挙げるけども。
この岩波文庫のあとがきには、トウェインは自分自身では「王子と乞食」と「ジャンヌダルク」を一番気に入っていたという事が書いてある。
そうかもしれないとも思わせる。
というのは、マーク・トウェインは作家であると同時に研究者であって(どんな作家だってそうだろうが)、この二冊において研究者としてのマーク・トウェインにとって一番興味が深いであろう事を書いているからだ。
「ジャンヌダルク」におけるトウェインの筆致は、「ラウィーニア」や「オールウェイズ・カミング・ホーム」におけるル・グウィンの筆致を思わせる。
どちらも、筆者にとって深く知り尽くした運命について語る筆致だ。
そして物語とは元来そういうものであり、語り部と元来そういうものであったのではないだろうか。
ホメーロスがおそらくそうであったように。
知り尽くされ、研究し尽くされ、語り尽くされた運命について、語る。
コメディ作家としての、あるいは古典児童小説作家としてのマーク・トウェインしか見ない人にとっては、語り部としてのトウェインのこの根源的な力量については、知らないままだ。
こうした優れた語りに触れる事は、心をとても喜ばす。
ほとんどあらゆる運命について無知なままの我々は、こうした物語から何かを悟り、こうした物語に何かの居場所を見出す。
おそらく、故郷のようなものを。
そしてその故郷には、未来も含まれている。


叙事をするのだ、叙事を。

おそらくこのブログに最も欠けている、叙事を。

まあそれはそのうち。
 

 

人間の感覚にとって幸福というのは、状態のことではなく運動なのだと、どこかで聞いた。

何らかの感覚が一定の条件に達したら、それが幸福だというのではない。

ある状態から別の状態への移動の時に、人間は幸福を感じるのだと。

 

たとえば幸福の尺度というものがあるとして、プラス10の位置にいるから幸福を感じる、というものではないらしい。

プラス5からプラス10へと移動していくこの運動にこそ、人間は幸福を感じる。

あるいは、ただ漫然とプラス8の位置にいるよりも、マイナス10からマイナス8へと移動する時のほうが、幸福の感覚は強い。

こういうことを知った時、確かに自分の感覚に照らしてみて、納得できると感じた。

そんなことは、自分の人生で何度もあったと思った。

停滞による無感覚も、這い上がる恍惚も。

 

そういう事を知っていると、失敗して、恵まれなくて、落ちていく、崩れていく感覚の中にも、救いはあろうというものだ。

上がるためには、下がらなくてはならないのだから。

いつまでも上がり続けてはいつかプラス10にたどりついてしまう。

プラス10の位置にいても幸福を感じられないならば、人生のどこかで幸福を感じるためには、いつか必ず下がる時は必要なのだ。

人生にはどうしても下がっていく時期がある。

そんな時、下がっていくおかげでいつか上がれると、自分を慰めよう。

 

 

エドワードが馬小屋で仔牛と共に眠る幸福を、俺はこういう感覚で共感するのである。

また、トムがいつしか王の待遇をありがたいとも思わなくなることを。

落ちた人間には、救われる幸福がある。

恵まれた人間には、無感覚の罠がある。

 

 

 

 

 

 

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