This Is The One! - innocent -俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。
|
一定期間更新がないため広告を表示しています
posted by スポンサードリンク |-|-
JUGEMテーマ:日記・一般 俺はいろんなものを捨て去ってきた。 それは恐怖からくるものだと思う。 自分が試され、傷つくことへの恐怖だろう。 しかしそのことを良しとしない理性の働きも同時にあったので、やってはならないと思いながらもあらゆるものから逃げまくるという倒錯状態を続けてきた。 かつて3年前に初めてエヴァンゲリオンを見たとき、こんなところで悩んでいる人間は知性の無い、囚われた愚か者だと思っていたが、今の俺はまさにそのようなところにいるのだろう。 今の俺が、夜に寝ようとして布団にくるまりながら思い出の曲を聴くようなとき、捨て去ってきたもののあまりの膨大さに、取り返しのつかない思いで胸が痛い。 過去の出来事がすべて、限りなくおぼろげに霞んで、手元まで届いてくるものは何も無い。 過去を失われた不変のものとし、未来をも約束のない不変のものとするとき、そこには現在も無い。 ただの、たったの一歩が踏み出せないために苦しみから逃れることのできない俺は、間違いなく囚われた愚か者だが、そのこと自体を誰かが笑えるだろうか。 きっとあの頃の俺は笑うだろう。 もし、これから一歩を無事に踏み出せた俺がいたら、こんな文章を書いていた自分の愚かしさに愕然とし、そして笑うだろう。 しかし、過ぎてしまえば笑い飛ばせる痛みや苦悩も、立ち向かう前の身には死ぬほど恐い、ということはよくあることなのだ。 試合前のどうしようもない緊張と恐怖、あるいは医者のかまえる注射針に勘弁してくれと叫びたい気持ち、どうしても出てこない素直な言葉。 俺はこのブログのこの文章で、「俺は苦しんでいるんだ!」ということを誰かに言いたいだけなのだ、きっと。 未来の自分かもしれないし、これを見る可能性のある唯一の知り合いである高校時代のクラスメイトなのかもしれないし、たまたま立ち寄る不特定で匿名な誰かなのかもしれない。 それはとても微笑ましくて幸福な苦しみなのかもしれないが、当人には耐え難いものなのだ。 返す返すも、21歳にしてこのような地点にいる自分は恥ずかしくて仕方が無い。 かつて18歳の俺は、一度この逡巡を躍動的に乗り越えたはずではなかったのか。 「俺は果てしない広がりを持つ社会のただ中に飛び込んでいくんだ」という決意をノートに残したのはなんだったのか。 俺はそれほどまでに弱い人間なのだろう。 ただ、自分の人生に失礼をはたらきたくない、裏切りたくないから、俺は強くなって本当の大人になりたいから、ここを乗り越える。 今の俺が他人から見てどんなにかっこ悪いところにいて、どんなに失望されても。 それが知性というものだと思うから。 どんな鈍い頭の持ち主でも、知性への欲求を捨てない限りは、勉強を忘れたアホどもよりかは誠実な生き方が出来ると思うから。 恐くない、きっとちっとも恐くない。 「闇を渡る丸太の上を歩く少年よ。一歩を踏み出してみないか。」 対岸には、大人の世界が待っている。
JUGEMテーマ:日記・一般 今、眠るタクヴァの温もりに包まれて横たわり、シェヴェックは思う、結局、二人がともに追求してきたのは喜び――人生を完結すること――ではなかったか。苦しみを回避することはまた喜びとの出会いをも避けることだ。快楽は得られるかもしれない、快楽は複数でやってくるかもしれない、が、人は満足しないだろう。帰還とはどういうことかわからないだろう。 タクヴァが、相槌を打つように小さく溜息をつき、寝返りを打って安らかな夢路をたどった。 物事の成就は一つの時間作用だ、と、シェヴェックは考える。快楽の追求は環状であり、反復性で、一時的なものである。変化を求める観客、スリルを追う者、でたらめな性関係は常に同じ場所で終わる。そこには終わりがある。終わりまでくるとまた一から出なおさなくてはならない。それは旅と帰還ではなく、閉じた環であり、密室であり、独房である。 この密室の外にあるのが、時の風景である。精神は常にその風景の中に、幸運と勇気をもって、築くのだ。こわれやすい、一時しのぎの、実在せぬ誠実の道路と都市を。それは人間が住むことのできる風景なのだ。 その風景の過去と未来の中に一つの行為が果たされてはじめてそれは人間の所業となる。過去と未来が連続することを立証し、時を一つの完全なものに結合させるのは誠実さである。誠実さこそ人間の強さの根源であり、誠実さなくして善は行われない。 ル=グウィン 『所有せざる人々』(ハヤカワ文庫) p.432より ---------------------------------------------------------------------------------- 相変わらず引きこもり生活丸出しの日記ですが、今から髪を切りに行ってきます。
JUGEMテーマ:日記・一般 前回書いた「闘病」ということについて少し書いておこうと思う。 自分でも今おかれた状況をイマイチわかってないと思うし、それがわからないとどこへも行けないと思うから。 このブログの過去ログを見ていて、高校3年の最後から大学1年の半分くらいまでよく書いているのだが、当時の自分の迷いのないことに驚く。 こんなにも自身に溢れ、自分をしっかり持っていた当時の俺は、さぞかし魅力的な人間だったろうと思うww それが、今の俺には最も足りない部分だろうと思うのだが、俺には自分がどこにいるのかさっぱりわからないのだ。 ブログなどに書けば少しはヒントがつかめるかもしれない、ということで書いている。 一つの大きなきっかけは、自分の健康の回復だったと思う。 大学1年目が終わるとほぼ同時で、食事制限を完全に解いた。 そのことと、少しずつ俺が道に迷い始めることと、時期が重なっていると思う。 他のきっかけを探すとすれば、俺の所属する大学機構が完全に俺の思うものから離れて産業化していき、俺はそのことをあきらめて受け入れ、戦おうという意志をなくしてしまったことが一つかもしれない。 日本社会全体に対する不満への一つの闘争の場として、大学が大きく変革されていく中での学生としての戦いがあったと言える気がする。 そこで途中で折れて挫折した俺は、「怒り」というそのものを少しずつ解消していった気がする。 他にも考えられる要素はたくさんある。 運動制限があったころの習慣から抜け出せなかった結果の決定的な運動不足。 自分でもここの理由はわからないのだが、少しずつ進行したサークル離れと、その中での部長就任という乖離。 地元の愛すべき悪友たちから薦められるままにハマってしまったパチンコ。 そもそもの人付き合いの下手さと気弱さから来る、ひきこもり化の進行。 そんな中で大学に行かなくなった俺は、留年した。 留年が決定した去年の3月から、たぶん俺はどちらの方角へも一歩も進むことなく、今もまだここにいる。 時間が解決してくれると楽天的に考えていた俺の怠慢と停止の日々は、一向に変わることなく俺を取り巻いている。 ここで退廃を楽しむことも出来なくはないが、それよりも圧倒的にずっと楽しいことが人生にはあることも、すでに俺は知ってしまっている。 しかし、それがどこにあるのかが、わからなくなってしまっている。 いや、きっと俺はわかっているのだ。 ここで一人立ちすくんで悩んでいる限り、変化は何も訪れない。 今の俺に必要なのは、一にも二にもとにかく行動なのだということを。 ではなぜに俺は動かないのか。 腰が重い、といういいわけは、おそらく本当は臆病なだけだろう。 恐がっているのだ、広い世界に出て自分が試され、打ちのめされ、変化していくことを。 昔から今も持ち続けている価値観として、変化を恐れる人間を俺は強く軽蔑する。 なぜなら、変化こそ存在の本質で、時間の本質だと考えているから。 まぁつまり、結局わかりきっていることなのだが、俺は少年期の最終段階で足踏みを続けているのだ。 いわゆる「頭でっかち」というところで。 「楽園のDoor」を開くのは、とても勇気のいることなのだが、そこで俺は躊躇したままこの2年間を消費してきてしまったのだろう。 では、問題はわかったところで、解決に向けた対策をどうするのか。 つまるところ最終的にはもちろん俺自身の意志の力というか、精神力なのだが、それは試され続けて脆弱なものだということははっきりした。 もう、強制的に自分の力であがかなくちゃならないところへ放り込むのが一番いいんだろうな。 どこか、どこか、どこか、どこがいいんだろう…? とりあえず、2年連続の留年で大学にはいられないことがはっきりしているので、そのことは一つの救いだろうな。 これ自体は一つの強制だから。 しかし、狙って留年したわけではないし、大学の単位を取るということすら満足にこなすことも出来ない自分にはがっかりするが。 同時に、大学に行くということを単位を取るということと同義にする大学に怒りも感じるが、まぁこれはまた別の問題だ。 入学した時点で、中退ということもありえるとは考えていたものの、このような形は想像していなかったな。 何か夢中になれるものを見つけて、明るい笑顔で大学という殻をぶち破っていくと思っていたのになぁ。 後ろ向きになってもしかたないので、こんなところに来ちまったからには、ここからやるしかないということで気合い入れるしかないか。 ということで、「悩み日記」おしまい。 まぁ結局、問題も解決策も最初っからわかってはいるんだけど、自分の意志を少しでも強くするために文字にしてネットに上げる、ということで。 たぶん高校のときのクラスメイト諸君はもうこんなブログほとんど見てないだろうけど、いつか目をとおしたら、俺にこんな時期があったのだと思ってくれたら嬉しいです。 そして、その時点での俺と比べて、あそこからよくぞここまで来たものだ、と思ってくれれば嬉しいし、あの頃から大きくは変わっていねぇなぁ、と思われたら俺はそこまでの人間だったということで、悔しくてあきらめられることじゃないけど、評価は甘んじて受け入れることにしましょう。 「やってみなくちゃ、自分の本当の価値なんてわからない」 よく言われるこんな言葉にでもすがりつきながら、自分を叱咤していきたいと考えています。 これから少しずつ書いていくつもりのこの日記で、このように悩みと逡巡に満ちた文章ばかりでなく、俺の文章が少しずつ芯のとおって面白いものになっていくことを願って、恥ずかしながらもこの文章を上げます。
JUGEMテーマ:映画 こないだ新宿TSUTAYAで半額やってたので6本借りてきたんだけど、そのうちの1本がこれ。 正直、ウォン・カー・ウェイの映画を観るのは初めてです。 先輩からすごい薦められてたりもして、本当は『恋する惑星』が借りたかったんだけど2本しかなくてどっちも借りられてたから、大量に並んでていくつか残ってたこっちを借りた。 まぁ音楽がとてもいいよね。 Cat Power最高! 調べてみたら音楽監督がRy Cooderだそうで、どうりで南部臭いって感じなのかもしれないけど。 ていうかちょっとだけ出てきたジュード・ロウの元恋人役って、あれCat Powerじゃないかと思ったけど。 どうなんだろう、あんなに若かったっけ? 映画としては、いろいろ借りていっぺんに観てるときだから、やっぱり監督の上手さが際立つね。 昨日観たジュード・ロウの『アルフィー』はえらいつまらくて、演出力の差を感じた。 脚本に新しい出来事とか要素は全然ないんだけど、王道のロードムービー型成長物語とでも呼ぶようなストーリーをきっちり楽しませてくれるのは嬉しい。 こういう映画人としての職業意識みたいの強く感じる映画って、向き合えて嬉しいし、勉強になる気がする。 主演のノラ・ジョーンズが、レイチェル・ワイズやナタリー・ポートマンの前だとずいぶん野暮ったく見えて、ジュード・ロウの前だと綺麗に見えるのは、それも演出なのかな。 それとも女優としてのパワーなのかしら。 映画観てると思うけど、俺みたいなひきこもりが相変わらず家で音楽聴いて本読んで映画観ててもどうしようもないよね。 「書を捨てよ、」じゃないけどさ。 この映画を観て、ちょいと原チャでも買って日本一周したくなった。
JUGEMテーマ:日記・一般
自分がどこにいて何をしているのかもわからないのに、世界を勉強することに尽力しなくなってしまったようなやつ。 人のせいにしているんじゃない。 今の日本社会には、人間を怠惰で面白みのないものにする誘惑がたくさんある。
(C) 2024 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.
|