This Is The One! - innocent -俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。
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ほとんどひきこもり化している最近の生活の中で、食べること以外の数少ない経済的な消費活動の一つが、ケーブルテレビでスポーツや映画を見ること。 中でもお気に入りはプレミアリーグである。 何を隠そう小学生のときはサッカークラブに所属していた俺である。 Jリーグ開幕が93年のことで、当時5歳だった俺は、他の多くの子供たちと同様に、サッカーにすっかりハマりこんだものである。 中学では野球部で、高校ではラグビー部であるから、こうしてみるとバリバリの体育系なのだな。 ヨーロッパサッカーはどこも面白いけど、やっぱりプレミアが一番好き。 先週のバレンシア対バルセロナのゲームなんかを見ると、リーガもすげぇなと思うが、全体の面白さはやっぱりプレミア。 チャンピオンリーグの成績を見てもその強さはわかるが、やっぱり見てて面白いし、レベルが高いと思うな。 それにイングランドのあの雰囲気が好き。 俺は一応アーセナルファンであるが、今年はなんといってもチェルシーだろう。 とにかく美しいサッカーをしている。 Gk チェフ CB テリー CB カルバーリョ LSB アシュリー・コール RSB ボシングワ DMF エッシェン CMF バラック (デコ) CMF ランパード (マルーダ) OMF ジョー・コール (ランパード) FW アネルカ FW ドログバ と、こうメンバーを並べてみただけで嬉しくなるようなチームである。(表記のしかたにウイイレの影響が如実に出てるのが悲しい) これに加えて、ディフェンス陣にアレックス、イヴァノヴィッチ、フェレイラ、ベレッチ(オフェンスもやる)がいて、中盤から前にはミケルやサルモン・カルーがいる。 今のラグビーでいうところの、南アフリカ代表みたいなチームだな。 で、前節のブラックバーン戦は、まるっきり段違いの完勝。 俺のお気に入りはなんといってもエッシェンで、プレーを見ているだけで幸せな気持ちになる。 言わずもがなのフィジカルに、スピードもしっかりあるし、全体のバランスを見ながらの位置取りやパスワーク、スペースの埋め方、作り方、使い方、もうどれをとっても美しすぎる。 こんな選手が一人いるだけで、監督はとってもありがたいだろうなと思う。 似合わないヘッドキャップが悲しいチェフ。 いかにもなイングランドのオヤジ、テリー。 どこにいても落ち着きがなくてすわりが悪いが、やることはきっちりやるカルバーリョ。 世界中でトップレベルの選手が目白押しの左サイドバックでも、心から世界最高と称えたいアシュリー・コール。 眉毛のつながった地味な顔ながら、スピード感あふれて意外と華やかなボシングワ。 特に何もしないけど、押さえるとこは押さえて存在感ばっかりあるとこが憎いバラック。 言葉はいらないランパード。 で、ジョー・コールが戻ってきて。 顔から髭からランニングの姿勢から、もう全部がかっこいいアネルカ。 車にひかれても健康そうなくせにすぐに痛がって駄々こねて、なんやねんこいつと思った瞬間に点とってるドログバ。 あれ、俺はアーセナルファンなんだけどなぁ、こんなやつら放っとけないよなぁ。 どうしても嬉しくなりながら見ちゃうのであります。 ブラックバーン戦見てて思ったこと。 ・なんか今年のチェフおかしくない? ・ジョー・コールは全然まだ本調子じゃない。 ・アンチェロッティ来てから、ドログバすっげぇイイヤツになった。 ・イヴァノヴィッチ固いなぁ。 ・ディウフってもっと面白い選手だった気がする。 ついでにリヴァプール対ユナイテッド見て思ったこと。 ・ベナユン大好き。去年のイニエスタなみに上手い。 ・ヴィディッチとベルバトフがスーツ着て並ぶと東欧系ギャングにしか見えない。 ・いつまでたってもオシェイとキャリックとフレッチャーの見分けがつかない。 サッカーのこととかアニメのこととか、今まで書いてなかった俺の生活にあるいろいろなことについて、これから書いていこうと思った。 目指すは毎日更新。
JUGEMテーマ:日記・一般 江國香織の本について書くのがもう2回目で、2回も書いてる作家なんてほとんどいないのに江國香織がもう2回目というのは面白い. 読むきっかけというのが、江國香織が好きな女の子が多いから、女の子と話を合わせるためにそこそこ読んどこうって思っただけのことなんだから。 この小説は怖いなぁと思う。 「現実のこちら側」にいつでもいられると思うのはたぶん早計で、何かちょっとしたものにひっかかって「生活」というものをうまく営めなくなることは、誰にも充分にありうることなのではないかと思う。 そういうのって“病気”とか言われて、そういう対処をされちゃうわけだし、怖いなぁと思う。 例えば右に紹介してる『インディアン・ランナー』のフランキーなんかもそうだと思うけど、「現実のこちら側」でうまくやっていくことが大きな困難を伴うようなとき、その人生は痛々しいよなぁと思う。 そういう人がこの世界で救われるということの、複雑で遠い道のりを思うと寂しくなる。 人と世界、人と人との距離の、その寂しさ。 全てをわかりあうことができないままに、別れていくことの寂しさ。 『リヴァー・ランズ・スルー・イット』の弟も思い起こされる。 最後に兄が過去を思いながら言う、「かつて愛し、そしてわかり合えなかった者たち」。 全ての出会いはそうして始まり、終わっていき、それは今の俺にスウィートな寂寥感をもたらすけど、ひっかかって落ち込んでしまえば狂気にとらわれそうなほどの孤独感だ。 俺をそこから救い、「現実のこちら側」に立たせているのは、Bruce Springsteenの歌だ。 あるいはColdplayやU2など多くの歌であり、今まで触れてきた数え切れない映画や本や、それに愛する人たち。 数々の魂たちが、時間や空間を越えたところで俺にはたらきかけ、今のところ俺がこの世界に立つ手助けをしてくれている。 みんな、それでもなんとかやっていこうと頑張っているのだから。 -------------------------------------------------------------------- 私は、現実のこちら側にいようと決めた。健吾にもいてほしいと願った。私の気持ちが健吾にとどいたかどうかはわからない。いずれにしても時間はすべりおちていくのだ。私たちのまわりを。 (角川書店 p.287) ---------------------------------------------------------------------
JUGEMテーマ:読書 白石一文を読むのは『僕のなかの壊れていない部分』、『すぐそばの彼方』、『草にすわる』につづいて4冊目。 この『見えないドアと鶴の空』は、それらの小説と共通する点が数多くあって、白石一文という作家が常に疑問を抱え続ける人間だということを意識させ、そのとき出せる全てを出そうとして書いていることも伝わってくる。 それぞれの小説に共通する疑問とは、言ってしまえば「人間が生まれて、生きていくこと」それ自体への疑問。 奥付けのさらに後に手書きでこう書いてある。 「洒落た会話や思わせぶりな設定で、愛や苦しみ、やさしさやジョークをお手軽に書き散らしただけの小説はもう必要ありません。自分が一体何のために生まれ、生きているのか、それを真剣に一緒に考えてくれるのが、本当の小説だと僕は信じています。」 この小説から何を引き出すかはそれぞれの読み手に任せるとして、俺がここに書きたいのは出会いの奇跡とその必然性のこと。 こう書くと、運命のことでも言ってるみたいだけど、そうじゃない。 この小説を読みながら、俺は最近触れた数々の本や人との対話を思い出していたのだ。 そして、それぞれが一つの円を描きながら惹かれ合いめぐり合うことを。 例えば、昨日俺は大学の友人に呼び出されて二人で話していた。 彼は俺にとって心から間違いなく友人と言えるような貴重な人物なのだが、俺が大学から離れている期間に疎遠になっていた。 そういった友人関係を続けていくことの難しさと可能性について二人で話していた。 そして、この小説の序文はこうである。 「人は親しい相手をよく知っていると思い込みがちだが、案外それは正反対なのだろう。親しくなればなるほど、その人をより深く知るべきであり、知る努力を継続すべきにもかかわらず、親しいと自覚した途端に実は無関心になるのかもしれない。六年間も一緒に暮らしている妻にしてもだ。」 その友人から、『ドゥルーズを活用する!』という新刊を借りた。 そこでドゥルーズの「此性」という概念に出会ったのだが、この概念と小説中に主人公の気づく思想の近親性といったら! また、魂が集合していった先の、「全体としての魂」という考え方の後期大江健三郎との類似点。 「生命は闇の中のまたたく光だ!」という叫びはナウシカのものだった。 小松左京などのSFを読んでいたから、あのサイキックな現象もすんなりと受け入れることができた。 これら俺の中で呼応し合って影響し合う様々な概念やイメージたちは、俺によって選ばれたから呼応し合うわけじゃない。 それらがそんなにも一つの方向性を指し示しているように思えるのには理由がある。 そららがまぎれもなく、この世界について語ろうとしているから! この世界がどういうもので、そこで人間は何をしているのかを語ろうとしているから! だから、ほんの短い期間にてんでバラバラのところから集まってきたものが、まるで準備されてたみたいに当たり前の顔でピタリと収まっていく。 『海辺のカフカ』で全体をとおして曖昧にしか語られていなかったことを、きっちり描いてくれたような気にさせてもらったり。 森巣博がどうして「祈る」ことをあんなにも大切にするからちょっとわかった気になったり。 とにかく、小説を読むことの大きな喜びがここにはあった。 考えてみたいことが山積みだ。 ---------------------------------------------------------------------- 死によってすべてが遮断され、あらゆるものが無に帰すという考えこそが、何よりも怠惰で安易な思想なのではないか。死をそうやって見ること自体が、我々を偽りの孤独に誘い込み、このありありとした生命の実相、人間と人間の切っても切れぬ結合や統合から我々の魂を遠ざけてしまう最大の陥穽なのではないか。 (光文社 p.309) -----------------------------------------------------------------------
JUGEMテーマ:日記・一般 昨日、久しぶりに高校時代の友人たちと会って、このブログも少なくとも一人は読者を獲得していることを知った。 みんな、ほとんど変わっていないし、それぞれの人生の中で少しずつ変わっている。 生きていく中で、何かを手に入れたり失ったりした気持ちになって、人は舞い上がったり、あるいは落ち込んでしまったりする。 Buono!の「しゅごキャラ!」に関する曲郡の中の一つである「ガチンコでいこう!」の歌詞を借りれば、「大事なもの見つけたり、失くしたり(ハイ、ドンマイ!)」である。 落ち込んでしまっているときというのは、文字通りに穴ぼこみたいなとこに落ち込んでしまっているようなもので、視界が極端に狭まってしまったりして、どこにも救いの兆しすらも見つけることができなかったりする。 前向きに、健康的に考えてみれば「ハイ、ドンマイ!」ですませて次のことに取りかかったほうがいいに決まっているのだが、そうもいかないのがこの状態なのである。 絶望、それは死に至る病。 俺はこれまで生きてきた中で、ありがたいことになかなかたくさんの友人を獲得してきているのだが、これをとても大切にしたいと考えているのだ。 俺は何でもいいから常に表現をしている人間でありたいと考えている。 誰かに何かを伝えたり、自分がここに生きているのだということを言うには、それしかないと思っているから。 そして、例えばなんらかのメディアにのせて大量の人間に届けようと思うような表現と、今となりにいる人間と少しでもわかりあってその人の力になろうとすることは、等価なのではないか、と最近考えるようになった。 形と規模が違うだけであって、やっていることは同じではないのか、と。 俺がたくさんの本や音楽や映画などに触れたいと思っているのは、自分が表現をするためだが、これらから得たものが、身近な誰かを力づけるようなときにも使えるのだ、と気づいたのはけっこう昔のことである。 今は、そちらの表現も積極的にやっていきたいような気分なのである。 誰かが思いもしないようなところに落ち込んで、自分がどこにいて何をしているのかさっぱりわからなくなるような状態になってしまったようなとき、俺に声をかけてくれたらうれしい。 もしかしたら、何かのきっかけになるようなことをできるかもしれないし、できないかもしれない。 そのための努力がしたいのだ。 それがとても大事だと思うのだ。
JUGEMテーマ:読書 結局、半村良を読むことにしました。 読み始めたら止まらなくなって、かなり長いのにもかかわらず一気に読みきってしまった。 出だしの100ページも読めば、夢中になった俺の気持ちをわかってもらえると思う。 アトランティス、犬神、回教暗殺集団、ヴァンパイア、強大な権力の奥の奥に隠された秘密…… なるほど、これもSFの一つの形なのかと感心しながら読んだ。 特に、世界の権力の奥にある秘密、というのが一番興味をひいた。 昔から疑問なのだが、世界中の権力はある一つの“うねり”のようなものを持っているように感じられる。 その“うねり”の志向する先がわからないのだ。 ある時期はフリーメイソン的な秘密結社のことも考えたが、どうもそれも安易すぎる気がして。 本当に行くところまで行ったら、もはや金がそこまで重要にならなくなる気もするし。 「行くところ」なんてなくて、どこまで行っても問題が生産しつづけられるスパイラルがあるのかな、っていうのが一つの解答のような気がしていたけど、釈然とはしないよね。 この小説は、そこに一つの明確な解答を提示してみせた。 あくまでも小説的な解答ではあるけども、その解答に説得力を持たせる情報の豊富さで引きこまれる。 うーん、もしかしたらこれは真実の一端をかすめているのかもしれない、っていう気になるね。 後半の、あのエロスの宴の世界。 川端康成の「眠れる美女」を思い出した。 あの胸がつまるほど美しい死とエロスの世界も、赤い布で覆われていた。 --------------------------------------------------------------------------- 俺はこの会社に血を吸われている……折賀はふとそう思った。比沙子も隅田もその血の一滴だ。デスクには営業報告書が積み上げられている。どのページにも逞しい建設の槌音が響いている。新しい道が、新しいダムが、新しい工場が、新しいビルが……その一つ一つが数多くの夢を担っている。期待に燃えた視線を集めている。そしてその仕事を通じて会社は繁栄し、前進する。だが血も要求する。サラリーマンも奴隷なら、経営者も奴隷だ。この手で育てあげた資本が、いつの間にか支配者に変わっている。 (集英社文庫 p.513) ----------------------------------------------------------------------------
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