This Is The One! - innocent -俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。
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JUGEMテーマ:読書 久しぶりに書きます。 恥を忍んで告白しますと、ポケモンやってました。 あー、自分が許せない・・・(笑) でもいいの、そのおかげで面白いこと思いついたから。 そう思わないとやっていけない。 ま、それはひとまず置いといて。 今日、一気に読みおわってしまった本。 精神病院の、実際は開放病棟が主な舞台なんだけど、一人の患者を中心にその日々を追った小説。 といって、サイコな異常殺人者が出てくるのでも、びっくりするような生活が描かれるわけでもなくて、つまりそこで「人生」を送っている人がいます、ということ。 病院の一つの側面として、円滑な社会生活を送れなくなってしまった人々が集まる、集められる場所としての役割がある。 時につまずくようなことがあっても、それなりに円滑に社会生活を送っている俺みたいな人間にとって、小説の中であってもそういう人たちの人生に触れるということは、自分の生活を見つめなおすことにつながるだろう。 どうして自分は「うまく」やれているのだろうか。 何かを置き去りにしていないだろうか。 そして、なにより「愛」と「美」のつまった、本当に「琴線に触れる」小説。 この小説を読んで、若き俺は改めてこう思った。 「誰かを愛したい」と。 俺という人間が、誰かが生きる手助けをできるのであれば、これは素晴らしいことだ。 俺は自分という人間のことはかなり大事にしてやっているので、もう別の誰かのことを気にかけたい。(I want to care for someone else.)
JUGEMテーマ:日記・一般 高校の、それも比較的よく集まるクラスそれ以外の人々と会うと、ほぼ例外なく感じるこの孤独感。 何もかもが虚無へと帰る。 それは女に電話しようと、かけがえのない友人に電話しようと、どうにも埋まらない。 こんな夜は加藤ミリヤの歌がむしょうにしみるのだ。 思えば、よくもわるくもこの孤独感が俺の根底にある気がする。 それを実感でもって思い起こさせる高校時代の人々は、貴重といえば貴重だが。 キツイなしかし。 どうにか、人生をどうにか、どうにかしたいと、そう思うから。
JUGEMテーマ:音楽
JUGEMテーマ:読書 彩流社という聞きなれない出版者から出ている「自分で考える『道具』としての哲学」シリーズの一つなのだが、そのシリーズタイトルと『ドゥルーズを活用する!』というブックタイトルに違わない魅力的な内容である。 哲学がどうやって我々の生と、どれぐらい確かな実感をもって関わってくるかというのは、知っている人はもちろん知っていることである。 しかし俺は知らなかった。 先輩や同期の友達との会話の中で、ドゥルーズだバタイユだバルトだフーコーだデリダだネグリだ、さらにはヘーゲルだニーチェだカントだマルクスだ、と出てくるわけだが、その面白さや重要性になんとなく想像をめぐらせながらも、しかしついに踏み込むことはなかった。 もちろん、彼らもその名前をいたずらに誇示することもないし、常に目的に応じて引き出し、その面白さを伝えようとする努力も頼まれるだけ惜しまずやってきてくれたが、やはり俺が自分から近づかなければならなかったようだ。 本文中から引用するとこうなる。 「ドゥルーズやニーチェはもちろんだが、なかなか近寄りがたく見えるスピノザを含め、哲学や思想というものは元来、お利口な人たちの慰み物ではなく、思考する動機のある人すべてに開かれている。思考を促す暴力は、自ら出会いを求め、鉄槌の一振りを願わない人には無縁であり、用をなさないだろう。しかし、思考の機会を切に願い、心に激痛を感じながらも、その先を見たい、その向こうに達してみたいと願うなら、哲学はきっと苦痛の記憶と共に得難い宝をも授けてくれるにちがいない。」 俺は、人生をそこそこにラクチンに生きたいと願ったことなどない。 そして、こう続くのである。 「さて、内面に巣くう反動的な感情と向き合う痛みからはそろそろ訣別しよう。今度は、無条件の喜びを享受しうる道を探索しなければならない。真に肯定的な道に通じる標識を探り当てなければならない。せっかく「痛い」と感じながら苦しいトンネルに入ったのだから、突破口にまで達して宝を手にしない手はない。」 そう、この本の向かう先は、そしてきっとドゥルーズの哲学の向かう先は「真の肯定」だ。 そして終盤にニーチェの「永遠回帰」(たとえば、あなたの、私のその人生がもう一度そっくりそのまま繰り返されると想像してみる)について言及しながら、こう書いている。 「肯定されるべき生を築くことに心を砕きさえすれば、あの苦しみも、あの悲しみも、そしてあの屈辱でさえ、きっとすべてがこのときのためにあったと思える瞬間が訪れるかもしれない。ただし、その際の期待は、いつか、この苦しみが報われる日もやってくると淡く儚い希望を抱くだけであってはならない。そうではなく、あらゆる苦しみや悲しみをひっくるめて、すべてについて、「もう一度!」と肯定しうる刻の流れこそが真に期待されなければならない。」 上に挙げた引用はすべて最終章からのものであり、この章がもっとも「道具」としての哲学について書いてあるから、ここから引用した。 本の全体では、それぞれの学問や分野の境界線なんかまったく感じさせないぐらいに様々な事柄について、ドゥルーズの思想と共に書いてある。 それは本文中に書いてあるとおり、ドゥルーズの思想がそういうものであり、澤野雅樹という人がそういう思想の人なのだろう。 俺は、そこに自分を新しくしてくれるような様々な思想と名文句に出合った。 それこそ、俺という「存在(be)」から「生成(become)」へと一つ近づいた気がする。 たとえば、この文。 「そう、問題は、倫理的(エティック)であるより美学的(エステティック)であり、一度限りの決断であるよりも不断のプロセスなのである。」 俺はエンデの『鏡の中の鏡』の中の一つの短編(ほこりを払いつづけるおっちゃんが出てくるやつ)を読んでから、ずっと「モラル」にこだわっていた。(大江健三郎の『日常生活の冒険』の影響もあるか) そのことに若干の違和感を感じながらも、しかし別の考えにはたどり着けずにいた。 この本に出会って、やっとそこから抜け出せた。 そうか、「倫理」でなくて「美学」なのか。 「存在」でなくて「生成」なのか。 「現代の痩せたソクラテスは、言ってみればLEVI'Sのタイトフィットスリムを軽々と穿きこなしていなければならない。自分にあう服を探すことと、着たいと思っている服に自分の身体を折り畳んでゆくこととが、同時に押し進められてこそ、我々は自分を最適な方角に向けて折り畳み、未来の自身を生み出しつつ現在を生きるという、美学的なプロセスを歩んでゆくこととなろう。」 俺はこの本との出会いに感謝しながら、この本を貸してくれた素晴らしい友人と出会えたことにも感謝を惜しまない。
JUGEMテーマ:日記・一般 俺は実家暮らしであるが、うちは両親ともなかなか忙しい人たちなので、一人で夕食を作って食べることも多い。 今日、夕飯に何を食べようかなーと思って冷蔵庫を見ると、白いご飯の残りとナムルがある。 よし、これをゴマ油でいためたらビビンバっぽいチャーハンになってウマイべー、と思って中華鍋の用意をした。 いためる段階になって、もうちょっとなんか欲しいなぁーと思ってキムチを入れることにした。 ついでに、なぜか納豆も入れようと思いついた。 ご飯をいためて、ナムルを入れて、ジュージューいためて。 キムチを入れて、ちょっとためらいながら納豆を入れて、ジュージューいためて。 最後にちょっと醤油をたらして、ちょっとベタベタのチャーハンができた。 これが、ウマイのである。 うわー、俺ってばB級グルメの天才やわー、とかちょっと嬉しくなった。 結果、今ションベンがちょっとクサい。
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