This Is The One! - innocent -俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。
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JUGEMテーマ:日記・一般 前回も書いたとおり、この記事は前回アップしたmixiの日記の続きであり、ヱヴァンゲリヲン新劇場版第2作:破をとおして世界や人間のあり方や成り立ちを探り、論じたものである。 俺の自己表現以上でも以外のものでもないが、そうでない文章を書こうとは思わない。 一人の若者の思考の軌跡がそこには表れているのではないかと思う。 ちなみに俺は、そんな文章を読むのが好きだ。 -------------------------------------------------------- 10000字日記第二段。 一応、前回の日記の続きとして位置づけられていますが、これだけ読んでも成り立つはずであります。 毎日サッカーが見られてとても幸せ。 俺はみなさんと同じくチリのアタッキングサッカーに魅了されました。 堅い戦術のためにエキサイティングな要素が減る、というのは、プロ化されたあらゆるスポーツで起こっていることだけど、そこへの挑戦状はエキサイティングであります。 読みたい本がある、聞きたい音楽がある、見たい映画がある、見たい試合がある、というのはどれも俺の幸せに直結する。 (会いたい人がいるや行きたい土地があるというのを加えてもいいのだけど際限がなくなるので) さて、ヱヴァンゲリヲン新劇場版第2作:破を見て、ボロボロに泣いたことを前回の日記に書いた。 そもそも95年のテレビ放送を起点として映画も含めたあの一連のエヴァ(旧世紀版というらしい)には、そこまでの思い入れがない。 庵野監督の次作、『彼氏彼女の事情』は絶対的な場所に位置する傑作として評価しているのだが。 旧世紀版の映画までを初めて視聴したとき、それは19歳のときだったが、最初に抱いた感想は「こんなとこで悩んでるようじゃダメだな」、だったと記憶している。 人がこの世で生きるなら、人が広大に連なる社会で生きるしかない。 どうせそうなら思いっきり飛び込んじゃったほうが遠くまで飛べるし、生きやすい領分も確保できるのに、と思った。 「腹くくれや」と思ったのだ。 (「Fight The Blues」) 当時の俺の人生観では、よりよい自分を目指すこと、が重要なことの一つだった。 今日できないことも、毎日を意識高く過ごしていればできるようになるはずだ。 そうして将来的には、自分が面白く過ごしながらも他人を抑圧しないような状態を作り出そう。 貴重な時間とエネルギーは、現実にある問題を乗り越えること、自分の願いを叶えることに割り当てていこう。 より良い方向へと前進していこう。 と、考えていたのである。 だから、母の胎内に帰るだとか、死を甘い救済として待ち焦がれるとか、溶けて一つになれば気持ちいいだとか、そんな退行的な思想は考えてもしょうがない。 どうせ死んでいなくなるのならば、出来る限りのことをして生きよう。と思っていたのである。 そういうわけで、旧世紀版のエヴァはあまり気に入らなかった。 ところがあるときふと、自分が進むべき方向を見失っていることに気付いた。 前進とはいったいなんだろう。 どちらが前でどちらが後ろだと、どうしてあなたに判断できるだろうか。 前後の判断ができるのは、起点と終点を決めるからである 現在を起点とし、到達したいと願うところを終点として設定するから、未来が生まれ、そちらを前だと考えられる。 未来というものがなければ、時計は少しも進まずに回りつづけるのみである。 人を動かすもの、それはいったいなんだろう。 人をして、自分は前進していると信じせしめるものはいったいなんだろう。 それは「願い」ではなかろうか。 実は、新劇場版で俺が涙を流した理由も、願いがキーワードの一つである。 前回の日記がルールに関するものであったなら、今回はルールと密接な関係にある「願い」に関する日記だろう。 「もしも願い一つだけ叶うなら 君の側(そば)で眠らせて どんな場所でもいいよ」 これはもちろんヱヴァンゲリヲン新劇場版の主題歌、宇多田ヒカルの「Beautiful World」のサビの歌詞である。 Meat LoafのI want youやI need youと同じぐらい、ある意味ではさらに譲歩したI want to be with youである。 この歌の終盤には、 「僕の世界消えるまで会えぬなら 君の側で眠らせて どんな場所でも結構」 という、謎めいたラインがある。 会うことはあきらめて、側で眠ることを願う、というのはどういうことだろう。 側にいるのだから会っているではないか。 いくつかの解釈が考えられるが、たとえばこんな感じか。 確かに僕は今、君の側で眠れるぐらい近くにいるみたいだけど、僕と君は本当に会っているのだろうか。 身体が触れていれば、それは会っていると言えるのだろうか。 僕は君を知っているのだろうか、君は僕を知っているのだろうか。 (別の解釈としては「In My Room」を参照してみよう) しかし前回の日記で何度も繰り返したことだが、本質同士は会えない。 「僕の世界」が消えない限り、本質同士は会えないのである。 とすれば、言えることはI want to be with you。 このルールの世界、確固としない世界、かりそめの世界で、君を見つめることや君の側で眠ることぐらいは求めたい。 このI want to be with youというセンテンスを軸にして、宇多田ヒカルは「DISTANCE」という曲で、前回の日記とここまで書いた内容のほとんどを、たったの5分半で表現している。 余談だが、この「DISTANCE」という曲は思い入れも含めて、宇多田ヒカルの曲の中でも、「First Love」と並ぶ、俺の最も好きな曲である。 この日記では、エヴァを中心に「願い」について論じながら、その内容と対応する宇多田ヒカルの曲のタイトルをいくつか示してある。 宇多田ヒカルの曲には、大切なヒントがいくつも含まれている。 ところで、この日記では書かないが、「Beautiful World」のBeautifulという単語とIt's only loveというフレーズが俺にはよくわかる。 わかるが、とりあえず書けないので書かない。 あなたもわかりたければ「Beautiful World」を聞いてください。 一つの曲を、一つの言葉として受け取ることもできる。 もちろん『Heart Station』というアルバムを一つの言葉として受け取ることもできる。 そうして「Beautiful World」という曲をもっと理解できるかもしれないから、そちらもまたオススメである。 さて、身体や言葉がルールであるように、水が水であるとかいうのも、物質というルールである。 ヒトは妊娠10ヶ月ぐらいで出産するとか、その間に胎内で何が起こってるとか、地球が丸かったり太陽の周りを回ってたり宇宙が膨張したりしたりするのも、物理というルールなのである。 そして前の日記に書いたように、ルールというのは手続きしだいで変更可能だ。 もちろん、実際にその手続きをとれるかどうかは別の問題だし、そもそもどんな手続きなのかがわからないということが問題であることが多いにしても。 SFの世界では、別の宇宙の物理法則を想定することでこの宇宙の物理法則に違和感をもよおさせる小説や、物理法則を一つの言語として異星人とコミュニケーションする小説なんかがある。 本質的な存在を神とみなすのなら、この世は神の話す言語として読めなくもないだろう。 さて、この世に本質を探すのはむなしく終わりのない作業であり、この世のあらゆることに美と醜、善と悪の境界線を引き続けるのもむなしく終わりのない作業である。 たとえば、美しさと本質は無関係である。 ときに純粋さ、清潔さが美しさと混同されがちだが、そうであれば誰も人間を美しいとは言わないだろう。 しかし、美と本質が無関係だとしても、美と醜の絶対の境界線を明らかにすることが可能だろうか。 見る者によって判断が異なる上に、同じ人間が同じ物を見ても、同じ判断を下すとは限らないのに。 あれは美しくてこれは醜い、これは善いものであれは悪いものである、という線引きを続けたところで、角度を変えれば、あるいは次の瞬間には無効になっているだろう。 本質を探しても見つからない。 ルールは変幻自在、千差万別である。 となれば、我々にできる少しは確かなことといえば、判断を捨ててただ見つめること。 何が人をそこから引き剥がし、地面の上を駆動せしめるのだろうか。 それは「願い」ではないかと思う。 願いがないのならば、移動も判断も意味をなさない。 ちなみに、老子における「無為」はこのような移動も判断も意味をなさない状態を指し、その思想ではこれを徳として、これを乱す「作為」すなわち願いや欲望を排そうとつとめた。(おそらく。俺の理解ではそうなる) これに対して、その作為の一つである願いというものを俺が重視するのは、単に俺の身勝手な好みのためである。 「無為」は徳だと、俺もそう思う。 しかし俺の中にある自己顕示欲や虚栄心というものを、俺はわりと好きなのだ。 自らの中にある「作為」をできるだけ飼いならしながら、人間の営みに積極的に関与していく方向で駆動していきたいと思うのが、今の俺である。 (「Wait & See 〜リスク〜」) さて、万物のルールに対して、自らのルールでそれぞれの判断で境界線を引き続ける。 その基準のひとつは「願い」、世界がどういうものであって欲しい、自分はどうありたい、という願いである。 この時に人は普通、数え切れない願いを抱えながら線を引くために、どの願いを優先するかによってまちまちの線を引いてしまう。 だから、行動にも言動にも思考にも一貫性が出ないし、狭い範囲の世界のルールさえもなかなか改変できないのだ。 サッカーは違う。 ゴール、そして勝利という明確な願い、取り替えられることのない願いがある。 ある願いを据えることによって、ブレることのない線を引くことができる。 ゴールという願いがないときに、右に打つシュートと左に打つシュートの優劣の判断はできないが、しかしサッカーというゲームを知った者なら誰でも答えられる。 ゴールに向かって飛んでいくシュートが優れていて、タッチラインに向かって飛んでいくシュートは劣っている。 一つの地点でトリッキーなリフティングを続けることのできる選手よりは、鋭いドリブルで相手を翻弄できる選手がチームに必要である。 テトリスの名手よりも、フリーキックの名手のほうが価値が高い。 100万円の腕時計よりも、足に合うシューズを欲しがるだろう。 明確な目標があるから毎日練習できるし、よりよいチームへと前進しているという結果が得られる。 願いのために、価値や方向などのルールは生み出されていく。 さて、サッカーのフィールドでは考えられていない、しかし一般には忘れてはいけない一つの側面がある。 我々が勝てば、相手が負ける、ということである。 実際にはこの二面だけでなく、この世のネットは広大だから、一つの事柄はそれに対応して無数の面を持つ。 現実には、この多面体の圧力に負けて、「社会の圧力」などに自分のルールを改変されることが多い。 「負けた」などと書くと被害者のようだが、しかし実はこれもまた、自分の願いの一つの形だとも言える。 確かに、俺だって誰だって、自分が勝ち続けたいのだ。 だが俺の勝ちが誰かの負けを意味するとき、俺はときに引き分けや負けを目指すだろう。 それは他人を尊重したい、という俺の願いでもある。 願いを変えれば、自分の決めたルールは簡単に改変できるし、その結果あなたの気分もガラリと変わることはよく起こる。 ネガティブなものをポジティブなものに変えることも、その逆も、あなたの最も大切なものがゴミくずに変わることも、実はとても簡単なことなのだろう。 (「タイム・リミット」) 参号機に乗り込む前のアスカのセリフが指すのもそういうことである。 彼女はある願いをあきらめた。 しかしそうしてみると、その結果得られた世界も決して悪いものではなかった。 願いによって万物を強引にルールしていくことをやめて、万物のルールを自らの中に取り込んでみると、それに合わせた願いがまた、自らの内に作り出される、ということもある。 どちらが先かはわからないが、人間の気分とは、そのようなものなのだろう。 これについては後に詳述する。 ところで、俺がグチャグチャに泣いたのはもちろん、シンジが初号機を駆って第十使徒に突っ込む場面である。 泣きながらハッキリと自覚していたのだが、この涙の源の大きな部分を占めるのは、強烈な羨望である。 物理法則を変えるほどの、少年の単純で強い願い。 その願いは、人類世界を救済することと直結し、万物のルールのこともネットのこともかえりみる必要なく、ただ手をのばすことのみに、この世に生まれた碇シンジの全存在を賭ければいい。 そしてそれに応えて手をさし出し返す、囚われた少女。 そうだ、恥も外聞も捨てて告白するが、俺はこれに憧れていたのだ。 かつて俺にとって、ロックとはそういうものだった。 ただ一つの価値、絶対的な願い。 この瞬間に、この音を鳴らすということの刹那性、独立性、永遠性。 俺のヒロイズムは誰をも抑圧せず、ただ音となって夢の世界へと消えてていく。 ましてや、綾波とシンジの純粋な願いが、重なっているのである。 お互いの全存在をかけた、ただ一つの願いが重なる瞬間、その奇跡の瞬間はあまりにも眩しい。(俺は全ての単語の中でも「両想い」という言葉がとてつもなく大好きである。) そして、物理法則などの強いルールを改変してまでも、二人の願いを叶えてしまう。 これは羨ましくて仕方がない。 さて次に、第十使徒が零号機と綾波を取り込むことによって、識別パターンを変えた場面に注目しよう。 第十使徒の願いは人間の支配する世界の改変であり、そのためにセントラルドグマの中に待つリリス(あるいはアダムその他かも)との接触が必要であった。 ある一つの願いのために、セントラルドグマに自爆させずに侵入することが必要ならば、そのルールに合わせて自らの身体というルールすらも改変してみせる。 前回の日記で「もしも何かを願うのならば、万物のルールを見極め、それに合わせて自らのルールを展開していくしかない」と書いたことの、これが一つの例である。 その第十使徒の願いという観点から見ると万物は、第十使徒を阻むルールであると同時に、ルール改変に用いることのできるツールでもあった。 もしいつかどこかで第十使徒が「人間って意外といいなぁ」などと思ったことがあったとしても、つまり人間と共に生きるというのが第十使徒の願いの一つだったとしても、ある一つの願いに殉じる第十使徒はそのことをかえりみない。 単純化された純粋な願い(人類世界改変のためのサードインパクト)のために、綾波もシンジもミサトもマヤも、第十使徒がルールすべき万物の一部として切り刻める。 だから、綾波と零号機を単なるツールとして残酷な使い方ができるのだ。 同じように、シンジと綾波にも強くて純粋な願いがあった。 さらにはエヴァと使徒という、世界をルールするための集約されたエネルギーと柔軟さを持ち合わせたツールを得た。 これらを合わせ持ったことにより、この世の物理法則と、人間という生物の形というルールの線を、書き換えるまでに至ったのだ。 そうして、二人の願いは叶った。 現代の倫理では、遠く離れた星や、この宇宙以外のあるかもしれない宇宙のことはわからない以上、それほど気にかけなくてもいいので、二人の願いの実現がこの宇宙の誰にどんな影響を及ぼすかはわからないが、気にかけることはない。 使徒とは利害が真っ向から対立しているが、こちらには正当防衛という全人類の倫理的な後押しがあるので怖いものはない。 こうした後押しのもとで、我々観客もまた、シンジと共に願いは一つ。 どうか、どうかあの少女を救っておくれ。 しかしここで、第十使徒を人外の存在ではないと規定してみたらどうだろう。 イメージしにくければこうでもいい。 たとえば、それが第十使徒ではなくて人間だったとしたらどうだろう。 一つの最も大切な願いのために、人を殺すことを、あなたのルールでは肯定するだろうか、否定するだろうか。 あるいは、他人の生命の尊重というルールのために、最も大切な人が消えていくのを見ていられるだろうか。 尊重すべき他人はどこからどこまでなのだろう。 利害の対立したときに、なぜ第十使徒は殺してもいいのだろうか。 第十使徒は殺してよくて、イスラム教徒やキリスト教徒や共産主義者は殺してはいけなのだろうか。 (「誰かの願いが叶うころ」) 豚を殺してもよくて、人を殺していけないと決めるのは、倫理や法律や宗教などである。 これらも一つのルールであることについては前の日記で書いた。 一人の中に渦巻く願いは、無数にある。 差別的に不平等な取り引きや児童労働には加担したくないと願う一方で、生活者としては安くて質がいいものを選びたい。 ストイックに道を究めたいと願う一方で、友人と無為に語らいテレビを見る時間は何ものにも換えがたい。 極限状態で子供を優先的に助けたいと思うけど、自分もやっぱり生き残りたい。 偽善だと責めるつもりは毛頭ない。 人をさして偽善だと言える人は、きっと善悪の界面を明確にして、世界をかっさばいていけるのだろう。 それは願いを一つに絞った人か、善悪は絶対的であると信じた人にのみ可能なのではないか。 願いに合わせて、人は善悪の界面も、あらゆるルールも作るはずだから。 俺だって、とらわれた少女を自分の手で具体的に助けたい、愛に導かれて民衆に迎えられる革命を起こしたい。 それが一つに組み合わされば、もはや言うことはない。 世界は恍惚とし、俺は誰よりも美しい少女を連れてトンズラである。 しかし実際には、俺の願いは複雑でエネルギーも弱いものなので、万物のルールを大きく変えるには至らない。 さらにいうと、俺はとても幸せなのだ。 ルールというものは、言葉と同じで変幻自在なので、万物のルールの中で実現可能な願いのもとに自らのルールを規定すると、願いが叶ってしまう。 それは幸せの一つの形だろう。 逆に言うこともできるかもしれない。 万物のルールの中で既存の、あるいは手軽に変更可能なルールのもとに自らの願いを設定すると、願いが叶ってしまう。 ルールが願いを規定するのか、願いがルールを規定するのか。 これがなかなか難しい問題である。 人は、考えようによってはかなり自在に世界をルールできる。 たとえば、参号機に乗り込む直前のアスカを思い浮かべよう。 彼女にとってエヴァに乗ること以外の雑事、特に他人との関わりなど疎ましいものでしかなかったはずだ。 エヴァに乗ること、そして第一のパイロットであることのみが彼女の願いであり、そのために彼女のルールは出来上がっていたはずである。 そのルールの中では、他人との距離感に気を使って言いたくないことを言ったり、やりたくないことをしている者どもは、ひどく醜く見えていただろう。 ところが、些細なきっかけで他人を尊重して動いてみると、想像していたよりもずっといい気分だったのである。 それを自分に認めて、ましてや他人(ミサト)に話すというのは彼女にとって大きな変革だから、ずいぶんな勇気をようしたはずである。 しかし彼女はそれを受け入れた。 してみると、彼女がこれまで殉じてきたものとは、なんだったのだろう。 他人に気を配る人間をあんなに醜いと感じて嫌っていたのに、自分も今やそうなっているのである。 では彼女は自分を、醜くて嫌いな上に自分を裏切った許せない人間だとみなすだろうか。 そうではない。 彼女は割りといい気分なのである。 いい気分である自分をながめても、やっぱりまだいい気分なのである。 とすると、彼女のルールが変わったのだ。 ルールが変わったし、願いも変わった。 今や彼女は、エヴァに乗るというただ一つの願い以外にも、目を向けるようになった。 願いが無数の数だけあるのと同じように、幸せも無数にある。 もしもこの世で幸せになりたいのなら、この世で実現不可能な幸せよりも、実現可能な幸せに目を向けよう。 だから、誰かが実現可能な幸せに目を向けるようになると、心優しい他人たちは安心する。 あぁ、これでやっとアイツも幸せになれる。 アスカが自分を追い詰めない願いを見つけ始めたのを知って、ミサトは嬉しく思い、安心したはずである。 (「幸せになろう」には“オフィシャルな野望”という言葉が登場する) このような実現可能な幸せを得ることによって満足して安定できるのが、成熟した人間である。 それに対して、それでもまだあり得るかもしれない他の幸せを求めてしまうのが未熟な人間である。 かつて捨ててしまった願いも叶えたい、新しく発見した願いも叶えたい。 幸せが無数にあるのなら、できるだけ多くの幸せを手に入れたい。 こういうのが未熟な人間だろう。 できるだけ多くの幸せ? 誰がより多くの幸せを実現したと言えるような、数をかぞえられる量が幸せにあるとでもいうのか。 どちらが優れていると比べられるような質が、幸せにあるとでもいうのか。 幸せをそのようにとらえれば、際限のない戦いを続けることになる。 もちろん、成熟した人が未熟な人より優れている、と言っているのではない。 成熟した人の「安定」も、実際には万物が安定することはないのだから、変動する万物のルールの中で、それに合わせながら自分の願いとルールを変革する作業をいつまでも続けているだけのことである。 その作業をいとわないことを、現代では成熟と呼ぶのではないだろうか。 こちらもまた少し形は違うが、際限のない戦いである。 もしこの戦いをおりたいのなら、願いを一つに決めるか、上に書いたように、あらゆる願いや価値を捨てて、見つめる人になるしかない。 俺は願いを一つに決めることによって他の全てのものを踏みにじりたくないし、この戦いからおりたいとも思わないから、迷い悩むのである。 願いを一つに絞れないから、明確な前進方向というものはもはや見出せないのである。 一人の中ですら願いは無数に共存し、その一人ひとりの人間が集合した地球上には、それだけの願いが同時にあるのである。 その中でなんとかやりくりしながら成り立っているこの人間社会を、前進していると見ることができるのだろうか。 今の俺には、単にうごめいているように見える。 そのうごめきも、基準を与えてやれば前進と見ることもできるのだろうけれど。 (「テイク5」) さて、変革はアスカに大きな勇気を要求したはずだと書いたが、このような変革を遂げる人を、俺は美しいと思う。 俺は自分を弱い人間だと見なしているために、勇気というものを称える。 そして弱い人間の俺は常に、何か一つの願いや価値に寄り掛かりたくなってしまうため、いつでも自分を変革する用意をしているつもりである。 しかし変革というのは怖い。 今自分が信じているものが、いつでも色や形を変えうる世界というのは、恐ろしくはないだろうか。 だから、あの場面のアスカのように、大きな恐怖を乗り越えて未知の世界へと足を踏み出す人を、俺は美しいと思う。 そのような人でいたいと願うから美しいと感じるのか、美しいと感じるからそのような人でいたいと願うのか。 ルールが願いを規定するのか、願いがルールを規定するのか。 このようなしなやかな強さを持つ新劇場版のチルドレンにとって、旧世紀版のような人類補完計画はもはや必要ない。 彼らは現状に合わせて幸せの形をつくり、自分を改変していけるはずである。 でも本当に? そうやって強くなって、この世をなんとかいい気分で乗り切れるようになったとする。 それでも、使徒なんか襲ってこなければいいのに、という気持ちを本当になくせるのだろうか。 人生には間違いも失敗もない、なべてこの世はこともなし、と受け入れてみても、そして世界に美を見て心ときめかしてこの世が大好きでも、それでも胸が苦しくて耐え切れないような気持ちになるのはなぜだろう。 身体の痛みがどうしても抑えられないように、心の痛みがどうしても抑えられないのはなぜだろう。 俺の自己顕示欲や虚栄心なんていつでも捨てられるけど、今は面白いから抱えてるだけなんだぜ、とうそぶいてみても、今の俺は本当にそれらを捨て去ることができるのだろうか。 (「BLUE」) そうしてまた物思いと読書に耽溺し、そのような自分を見て気分がいいので、俺は幸せなのだ。 さて、最後に今の俺の具体的な願いを書いてこの日記をおしまいにしよう。 それは、宇多田ヒカルと仕事をする、という願いである。 --------------------------- これら二つの日記を1週間のうちに上げたあと、俺はしばらく読書の期間に入った。 そしてデリダを始めとしてフランスを中心に現代思想に触れ、俺の思考がこれらとどれほど同調しているかを、感動とともに知った。 今の俺の思考の一大テーマは「アポリアにベット(賭け)する」ということだ。 これらのことについて、これからきちんとまとめられたらとても嬉しい。
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