This Is The One! - innocent -俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。
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JUGEMテーマ:読書 うーむ。 うなってしまったのだが、なるほど小説というのはこういうものだったような気がする、と妙に納得してしまったのであった。 奇想天外ではなくともどこか奇妙な出来事を、小説だけに許される技巧であらわす。 文体と視線に筆者の人となりは染み込んでいるので、ことさらに主張を書き立てる必要はない。 思えばアメリカの文学というのは、特にそういうものだったような気もしてくる。 といって、俺の思い浮かぶのはジャック・ロンドンとフラナリー・オコナーとカート・ヴォネガット・ジュニアなのだが。 この視点のとりかた、人生観、世界観とでもいうのか。 それにこのウィットの効いた笑いの含ませかた。 なんだかアメリカを感じる。 ポオもヘミングウェイもフォークナーもまともに読んでいないくせに勝手にそう思う。 映画『ノー・カントリー』の、「この国は人に厳しい」というセリフを思い出す。 ポール・オースターとかジョン・アーヴィングも通じるところあるけれど、毒のキツさが足りない気もする。 メルヴィルもスタインベックもフィッツジェラルドも読んでないくせにそう思う。 まぁいつのまにやらアメリカに偏ったが、人に厳しいのはなにもアメリカに限った話ではないのだし、(ときには広い意味での)笑いを含まない小説を面白く読めるとも思えないので、つまり俺の好きな文学ってのはこういうもんだよな、ってのを思い出しただけなのである。 大江健三郎とクンデラを思い出しながら。 小説で笑っている瞬間というのは得がたいものだとしみじみ思いながら浮かれていた。 という、印象論に終始するのだが、何よりも小説一つあたりの短さというのが驚かせる。 16コの短編が240ページに収まっているのだ。 そして一つひとつが、奇をてらわずに面白いのである。 小説ってのはこういうものだったような気もするな、と妙に得心してニヤニヤうなずいていたのだ。 ------------------------------------------------------------ ライフルがどうしてさっきの衝撃で暴発しなかったのか彼には理解できなかった。もっとも、好箇の実例が二、三記憶に甦って、彼の助けにはなったけれども。とくにひとつの実例を彼は思い出した。そのとき、彼は一瞬精神的に放心状態になって、自分のライフルを棍棒のように振り回して、もうひとりの紳士の脳を叩き出したのだが、後になって気がついたのだが、銃口を握って労力を惜しまず振り回していた、そのライフルは、弾丸がこめられていて、雷管がつけられ、撃鉄は起こされていた ――そういう状態を知っていたら、疑いもなく相手は元気づいて、もっと長く耐え抜いたことだったろう。 (岩波文庫 p.168) ------------------------------------------------------------
JUGEMテーマ:スポーツ スポーツというのは、全力でやるから面白い。 やるのも、見るのも。 週末になると全世界で、プロアマ問わずあらゆるスポーツの試合が組まれている。 プロスポーツはもはや全世界的に中継される時代なので、日本にいてもその多くを観戦することができる。 興味あるものだけを見る、と言っても、ちょっとしたスポーツ好きならば、それらをしっかりチェックするだけで、貴重な休日など吹き飛んでしまう。 たとえば今週末ならば、日米の野球が佳境に入り、Jリーグも終盤戦、相撲では白鵬の連勝と魁皇のカド番をチェックして、アメフト開幕で今年の各チームの出来具合を把握しながら、欧州サッカーは日本人選手が増えて放送も拡大しているので頑張っている姿を見てみたい。 人気どころを並べるだけでこの量だから、これに加えてそれぞれのお気に入りのもの(エックスゲームズだとか自転車ロードレースだとかダーツだとかモータースポーツだとか各種公営賭博だとか)を網羅していては、明らかに時間は足りないのだ。 スポーツに限らないが、情報量は人間を圧倒する時代になっている。 その中で、人情としてはやはり最も面白いものを見逃したくない。 正直、これだけの量があると、その質は均等ではないのだ。 9月25日のバークレイズプレミアリーグ、マンチェスター・シティ対チェルシーは最高に面白かった。 一つのボールと二つのゴールをめぐって交わされる戦いは、激しさをきわめた。 体の芯と芯がぶつかり合い、味方への激昂と敵への罵倒の言葉がピッチを飛び交い、すべてが混合してスタジアムを覆いつくす。 まさに、全身全霊というやつだ。 肉体と肉体の仮借なきぶつかり合いと、藤島大曰くところの「喜怒哀楽の凝縮」が、そこにある。 スポーツを見るからには、これを見たい。 プロ野球はセパ共に優勝争いの佳境である。 今日のデーゲームで行われたパリーグの試合は、どちらもサヨナラで決着がついた。 どうしてそういうことが起こるかというと、楽天を除いた5球団にクライマックスシリーズに出場できる可能性が残されているからだろう。 どのチームも戦力の全てを注ぎ込んで、目の前の1試合に勝ちにきているのだ。 昨日、先発ローテーションの一角、ネルソンをリリーフにつぎ込んでまで勝った落合監督の言葉。 「勝ちゃあいいんだよ、なんでも」 だったらシーズン最初っからそれをやりやがれ、いつ勝っても1勝は1勝だろーが、とプロ野球のシーズンの長さが好きじゃない俺は思ってしまう。 しかしアメフトで、無駄になるかもしれないがタイムアウトを最後までとっておくのと、理屈は同じなのだろう。 どこで使おうがタイムアウト1回はタイムアウト1回じゃねーか、と思ってしまうが、戦略上の価値は変動するのだ。 しかし、プロ野球のシーズン序盤から中盤にかけて、ありていに言えば130試合ぐらいは、見なくてもいいと俺がみなす理由もここにある。 第6節にして、全身全霊のゲームを見せてくれるプレミアリーグとは違うのだ。 ロードレースのグランツールを見なくなった理由も同じだ。 テレビで見るぶんには、グランツールの楽しみはそれほど大きいものではない。 プロ選手の生活の一部、単なるルーティンの一部となっている時間が長すぎるのだ。 メディアリテラシーの一種、スポーツリテラシーである。 現代では、自分の生活を考える場合には誰もが避けてとおれないだろう。 メディアの何と付き合い、何と付き合わないのか。 ツイッターとミクシィとバラエティ番組で、仕事以外の時間がすべてつぶされるのというのは、俺は避けたいのである。(仕事なんかしてないくせにエラソーに)
JUGEMテーマ:読書 小松左京の小説は、なにしろ数が多い。 そのすべてが面白いのであれば、これほど幸福なことはないが、実際は玉石混合といった具合である。 自らも認めるとおり、メモがわりに小説を書くような人だから、そうなるのは仕方のないことなのかもしれない。 しかし読むほうは大変なのだ。 どれが「当たり」かわからないが、とにかく数が多い。 その数が多いのを、俺が今まで読んだ中で乱暴に分けると、だいたい二つのタイプがある。 一つは、『日本沈没』のように、何か尋常ならざる出来事が起こったときに、人々はどのようにふるまうのだろうか、というタイプ。 人々のとまどいや混乱が、政治的経済的社会的心理的に描かれて、我々の日常生活というものに違った角度を与えてくれる。 もう一つは、『果しなき流れの果に』のように、人間を宇宙的視点で見た場合に、それはいったいどのような意味をもつ存在なのであろうか、ということを探り、描き出していくタイプ。 俺が大好きなのは、こちらの小松左京だ。 『ゴルディアスの結び目』、『氷の下の暗い顔』、『虚無回廊』などはこちらだろうと思う。 そして読み終えたばかりの、この『神への長い道』は、そのタイトルからもうかがえるとおり、後者のタイプに属するのである。 その思索の方向としては、『果しなき流れの果に』とまさに同じほうを向いている。 この宇宙が生成変化していく中で、人間が生まれたこと。 そして何よりも、その人間が精神を抱え、宇宙を認識すること。 その神秘を問うていこう、という方向である。 『果しなき流れの果に』では生物間に認識の階梯差が存在する中、ある人間が階梯を一気に駆け上ることで、まだ知らない認識の高みに至ろうとした。 『神への長い道』は生物同士の横のつながりの中で、手探りで進んでいこうとする様子が描かれる。 このような、人生に対する強烈な意味づけが、俺が生きていくことの大きな勇気になることがある。 しかし一方で、何ものにも意味を見出さない唯物的な視点が、大きな勇気を与えてくれることもある。 昨日読んだ『弥勒戦争』という山田正紀の小説では、小松左京とは対称的に進化そのものを疑い、むしろ退化ではないか、という視点が提示されていた。 生きることは喜ばしいことなのか、ひたすらに苦行なのか、唯物のみを見るのか、精神の神秘を見るのか。 仏教ひとつとってみても、その歴史の中でとても大きく振れている。 ふーむ、俺はどうしようかなぁ。 ----------------------------------------------------------- エヴァの体をまさぐりながら、彼は、三、四千年も昔に行った、セックスの、遠い記憶をもまさぐっていた。 ――自分が、ほとんど、やり方を忘れてしまっているのに、彼はびっくりした。まるではじめての時のように、不細工に愛撫をすすめながら、彼は自分たちの上にひろがる暗黒の宇宙に、ふと眼をやった。 宇宙よ……しっかりやれ! そんな言葉が、突然胸の底にうかんだ。――と、ふいに何百億光年もの直径をもつ、巨大な宇宙が、ひどく親しいもののように感じられた。 ---------------------------------------------------------
JUGEMテーマ:読書 俺は「知識人」というと、まず加藤周一を思い浮かべる。 次に大江健三郎。 どちらも「九条の会」の呼びかけ人の一人だから、俺の政治的思想、信条がバレバレなのだが。 大江健三郎は自らを評しては、「小説家を知識人に含めるかは微妙なところ」と言っているが、どの道「知識人の役割」に敏感な人でもある。 九条の会の呼びかけ人は皆そうだろう。 加藤周一はこの本の中で、彼自身による知識人の定義を「自らを知識人だと思っている人」と笑っていて、こういう言葉はそのように曖昧なものである。 知識人の定義はともかく、俺はずいぶんと昔から加藤周一を理想的な人間像の一つとして抱いている。 膨大な知識、柔軟な視点、多彩な語り口。 しかし実際に彼の文章をどの程度読んでいるかというと、実際は朝日新聞の紙上で「夕陽妄語」を楽しみに読んでいただけであった。 よくぞまぁそんなもので勝手に尊敬できたものだと思えるがw しかし文章というものは不思議なもので、たったそれだけでも何か感じてしまうことがある。 久米宏が中森明菜とのベストテンでの思い出を振り返って「人間、ウマが合うというのは不思議とわかるもの。僕と明菜ちゃんはほとんど話したことはないけども、ウマが合っていたと思う」と言っているのも、そういうことに近いだろうと思う。 なにしろ当時の久米宏は明菜サマにデレデレのご様子だが、それが不思議といやらしくならないのは、久米宏の人格と共に、そういうこともあるのではないか。 大江健三郎は自らの読書の体験と作法を語るときに、自分が読むべき本というのは不思議にわかるものだと語っている。 例えばそのときに時間がなかったりして読めなかったとしても、この本はいつかきっと自分にとって大切な読書になるだろうということを感じることがある。 そして、そういう予感というのはたいてい当たるものだと。 これに俺は大きく賛同する。 俺にとっては「ゲド戦記」シリーズは小学校高学年のときから何度も挑戦しては挫折していた本だった。 どうしてあんなに何度も挑戦したのか、あんなに何度も挫折したのかはわからないのだが、今となっては「ゲド戦記」よりも大切な読書というものは無いだろうとさえ思える。 読まないままに図書館で何度も借りた『存在の耐えられない軽さ』から始まる一連のクンデラの読書。 なんども引き寄せられたジャック・ロンドンだとか、他にも音楽なんかでもこういう体験はある。 まだほとんどちゃんと読めていないドフトエフスキーやプルーストに対しても、今の俺はそういう思いを抱いているのだが、さて。 ともかく、加藤周一というのは、俺にとってそういう人だということだ。 その人の講演集である。 たまたま図書館の書棚で目立っていたから手に取ったのだが、加藤周一といえば執筆よりも講義と講演の人、というイメージがあったので、読んでみようという気になった。 結果、期待したとおりに面白く刺激的な内容で、やはりこの人を尊敬する気持ちに翳りは生まれなかった。 いくつか新しく考えてみたいことを発見したが、ここでは一つだけ、日本国憲法第九条についてだけ書く。 九条に関する加藤周一の考えは、まずは簡潔な認識に基づいている。 政府の解釈として示される「自衛の軍」という言葉はおかしい。 すべての軍隊は自衛のための軍隊であって、「自衛のための軍」というのは「四足の猫」と言うに等しく意味を成さない、という認識である。 その解釈に基づいてもなお、第九条を改定したいというのならば、これは自衛以外の目的、すなわち侵略の意図を直接に意味するしかない。 少なくとも国際的には、東アジアにとどまらず、ほぼ全ての国からそう受け取られるだろう。 その意図がないのに、むやみに九条を変えるべきではない。 そして侵略戦争を始めるとすれば、その結果として平和を得る方法は、パックス・ロマーナのような成熟した帝国主義しかない。 それに失敗した場合にはゲリラ戦やテロリズムと、それを鎮圧する武力行動の悪循環のカオスに陥る。 そのようなリスクが高く不透明な二択を選ぶよりも、九条を保持しながらの外交戦略での平和維持のほうが、はるかに現実的で合理的な選択である。 その思考を支えるのは、戦争が目的を正確に遂行したことなど、歴史上にほとんど無いという認識である。 結局のところ、日本を戦争のできる国にしたい、と願う人々の動機は二つに分けられるのではないか。 帝国主義への欲望と、軍産体制への欲望。 日本、さらには世界に対して、本当に平和と自由、一人ひとりの幸福などを少しでも実現していきたいと思ったら、その手段としての戦争はあまりにも非合理的なのだ。 そんな中、昨日は中国で反日デモが起きたそうな。 5年前の靖国問題からの歴史認識を問うデモに発展した経緯ってのはなんとなくわかるし、その盛り上がりも理解できる気がする。 日本政府の態度を見てれば、このままでは歴史認識の問題はいつまでもくすぶり続けるだろうと思う。 でも領土問題って、俺はいつもよくわからないんだよなぁ。 排他的経済水域なんかどうでもよろしいがな、それで生活に支障が出る漁師さんがそんなにいるの? っていう気持ち。 国の威厳なんかはどうでもいい。 そういうものにこだわる人には、帝国主義への欲望があるのではないかと疑う。 尖閣諸島は外交戦略上で何か重要なのだろうか。 よくわからんが、盛り上がってるってことは何かあるのかもしれないですね。 勉強が足りないこってす。 あと、社会主義的原理と資本主義的原理の話にはとても共感した。 かつて大学でほんの少しばかり闘っていた俺であるが、学問の機構・組織というものは絶対に市場原理で動くべきでない。 教育、文化、福祉、これらは市場原理の下ではその機能を果たさないか、まったく別のものになってしまう。 98年の時点で加藤周一はそのことを警告しているが、「官から民へ」の移行など、市場開放と福祉・公共事業の切り捨てはそれから一気に加速したのであった。 あーあ。 もちろん、官僚体制の構造改革は必要だし、マニフェスト選挙など改善したところもあるのだけどね。
JUGEMテーマ:日記・一般 Twitterを始めてしまったために、言いたいことを小出しにして満足してしまうクセがついてしまって、ブログの更新もあまりしなくなってしまった。 同人誌や動画投稿サイトもそうであるように、人々のガス抜き装置はどんどん増えていくなぁという印象である。 実際、俺もTwitterを使うことによってかなりガス抜きされているのだし。 さて、大学に戻ってからというもの、手ごたえのある読書が増えている。 ル=グウィンの日本語訳での最新刊『ラウィーニア』はあまりにも素晴らしかった。 その中で、先ほど読み終えたばかりの、この『マラフレナ』も素晴らしかったので感想を書く。 1979年発表のこの小説は19世紀初頭の、おそらく東欧のどこかにあると考えられる架空の国「オルシニア」を舞台にしている。 19世紀前半のヨーロッパを舞台にしているので、その(登場人物たちの)問題意識はロマン主義文学の趣きに近いものがある。 では、その問題意識はすでに古いものになっているかというと、そうではない。 自由や民主主義の問題を、もはや古いといって切り捨てる人が現代にいるだろうか。 ポストモダンという言葉が流行って久しく、もはや廃れて久しいとすら感じるが、2010年の我々は未だに啓蒙思想、そしてフランス革命から連綿と続く近代の精神の中で暮らしているのだろうと思う。 精神だけでなく、社会体制、政治体制、経済体制にしても。 ではロマン主義文学は今でも我々の心にピッタリとフィットするのだろうか。 ある部分ではそうであろうが、しかしもう通用しない部分もある。 例えば『レ・ミゼラブル』で描かれる1832年6月の暴動の場面では、正義感に燃える若者たちはヒーローのように描かれ、そこで死んでゆく様はまるで何かを成し遂げたかのようである。 しかし20世紀を経験した我々は知っている。 何か一つの信条、イデオロギーなどを奉り上げ、その名の下に武器を取り、殺し、死ぬこと。 それはテロであり、クーデターであり、ファシズムであり、自由や民主主義に反するものであり、結局はエゴと支配欲に基づいていることを。 その旗印が祖国であれ、自由であれ、何であれ。 「自由か、さもなくば死か」は現代には通用しないのである。 20世紀に生まれたフェミニズムにしろ、エコロジーにしろ、形而上学的哲学の解体にしろ、そのロマン主義的妄信からの脱却と、社会の新しいやり方を模索しているという一面では共通している。 もはや「啓蒙」という、上から押し付け型のやり方は通用しないのだ。 当たり前のことだが、一人ひとりが自らの道を真剣に探っていくしかない。 この『マルフレナ』という小説は、そういう小説なのである。 ロマン主義的でありながら、あまりロマンチックな熱情にあふれてはいない。 20世紀後半型の、ロマン主義的テーマを扱った小説、というべきか。 ル=グウィンという作家は、いつでも「自由」や「教育」などの近代的テーマを忘れたことはない。 その作品群の中でもこの小説がとりわけロマン主義的なのは、一にも二にも、舞台が19世紀初頭のヨーロッパである、ということにつきる。 同じことは連作短編集『オルシニア国物語』にも言える。 そこには貴族的支配があり、自由を求める精神があり、革命と暴動がある。 ではそのテーマを20世紀後半的に扱うとはどういうことか。 ロマン主義から妄信的な考え、正義としての大衆などを取り除き、常に悩み続け、変化を続ける個人の中から考えていく、ということである。 このことを俺は「それぞれの王道探求」と呼んでいる。 もはや王道は特定の王のものではなく、全ての生活者にとって探求すべき人の道になっている、という考えである。 ちなみに、このことについて深く考えさせてくれたのはル=グウィンの邦訳最新作『ラウィーニア』である。 ル=グウィンは俺にとって、俺を導く賢者だ。 20世紀前半には社会主義革命、二つの大戦、ファシズム、経済恐慌などがあった。 そして後半には冷戦、内戦、民族主義、そして革命と暴動という文脈で重要な’60年代の世界同時的な学生運動の波があった。 それらの中で人々が学んだこと。 それは、熱情にうかされた盲目的な信望に基づいた動乱は、多くのものを破壊するが、ほとんど何も創造することはない、ということだった。 いや、もっと悪かったかもしれない。 もしかしたら人間は何も創造することなどできないのではないか、という疑いだった。 しかしこれはあまりにも悲観的な見方、というよりも、近視眼的な見方である。 つまり、戦争の世紀と呼ばれる20世紀が、そして戦争の歴史といわれる人類史が教えるところは、人は間違うものである、あるいは人は破壊するものである、ということである。 そして、それだから、一人の人生の時間に対して、社会変革や技術革新の歩みは常に遅すぎると感じるものである、ということである。 人は何も創造できないわけではない。 個人の時間間隔でとらえれば何も創造できていないように思えても、人類規模では間違いながらも遅々として、しかし確実に変わってきているということなのだ。 まぁ、果たして進歩していると言えるのかどうか、が難しいところではあるのだけれども。 しかしそれならば人生ってのはいったいなんなんでしょーね、とふさぎ込んでしまう時もあろうというものだ。 何かをすれば間違う。 でも、間違わずに何もしないで待ちつづけるなんてことができるだろうか? 間違ってはいけないのだろうか? 『マラフレナ』の主人公、かつてロマン主義的に自由を熱望し、故郷を飛び出したイターレ・ソルデ。 彼は5年間の波乱万丈の後に故郷に帰ってきて、こう述懐する。 「ぼくは自由についてよくしゃべっていたけど、あの時は刑務所がどんな所か知らなかったのだ。善についてしゃべったが、ぼくは、ぼくは悪を知らなかった。ぼくの目にしたすべての悪に対してぼくは責任があるんだ。 死んだ連中に対してね。 それなのにぼくにはなにもできることがない。できるのは、黙っていることと、いましゃべっているようなことを口にしないこと、それだけだ。ぼくにもう口を開かせないでくれ、これ以上害を及ぼしたくないんだ。」 彼はまったく思いもよらぬ形で投獄され、刑務所では希望や活力や健康など、明るいものを吸い尽くされながら、家族や仲間にも会えぬまま多大な心配と心労をかけた。 いざ革命(暴動)が始まってみれば、それは彼の思惑とはまったく関係なく、民衆たちが(憲兵もまた一人の生活者である)銃で撃ち合うばかりで、それはただ流血と死と悲嘆をもたらしただけだった。 彼が何をしても周囲の多くの人たちに害を及ぼすばかりであるなら、できる限り害を小さくするために、もう彼は何もしたくないし言いたくない、とこう言っているのである。 これに対して、彼の妹のローラはこう応える。 「人間、生きていることがすでに害悪なのよ」 これである。 害を及ぼさないように生きられる、などと考えるのは、それがもうおごりである。 生きている、ただそれだけで何かを犯さずにいられないのなら、そのことを引き受けて、そのことについて熟慮するのが、いくらか誠実なやり方ではないのか。 「何もしない」というのは不可能であるばかりでなく、不思慮に何かの害を引き起こさないとも限らない点では、むしろ危険なのである。 俺の言う「王道を探す(考える)」というのも、こういうことである。 繰り返すが、現代においては王道は庶民のものである。 これはデリダの「暴力論」「正義論」に近いものがある。 俺のデリダ解釈ではこうなる。 人間は常に暴力的な存在である。 なぜなら存在するということは、(原)エクリチュールの暴力から逃れられないからだ。 もしこの暴力から逃れようとするのなら、生きることも死ぬことも許されない「非・存在」的な何かになるしかない。 しかし我々はある呼び声に対して「はい(oui)」と応える。 この「はい」は我々が存在することの第一歩であり、ある種の賭けなのだ。 そして、我々はここにいる。 我々は「非・存在」的な何かになることなく、呼び声に応えてここにいるのだ。 我々はここに、暴力的にここにいるのだ。 そして呼び声に応えてここにいる以上、「非・存在」的な何かになる道を模索するのではなく、暴力的な存在としてでもここにいることを目指そう。 なぜなら我々はここに生きているのだから。 今さら「非・存在」的な何かを目指すことは、おそらく不可能であるばかりでなく、呼び声に応えたことを裏切ることになってしまう。 その意味で、「はい」はある種の賭けなのだ。 そして暴力的にここに存在する我々は、ここに我々を存在せしめるあの呼び声を「正義」と呼ぼう。 なぜなら、あの呼び声からあらゆるものが始まり、あの呼び声を肯定することであらゆるものを肯定することができるのだから。 そしてあらゆるものが我々の目の前に現れる、そのつどに、その呼び声まで「脱構築」してみることによって、我々は暴力の中でも他者を受け入れることができる。 だから、その呼び声は正義であり、脱構築は正義のための行為なのだ。 哲学の言葉で、ちょっと難しく言ってみるとこういう具合になるが、言っていることは通じるところが非常に多い。 もちろん、デリダとル=グウィンは同時代の人である。 俺は作家では大江健三郎、小松左京、クンデラなどが好きだが、このあたりもみんな同時代の人である。 大江だけ5年ほど若いが、他はすべて1930年と前後1年の生まれ。 20世紀後半の思想をつくり、俺に教えたのはこれらの人々だ。 俺の思想、思考はモロにこの辺りの影響で作られているんだろうな。 さて、ル=グウィンはフェミニズム系の論客として非常にもてはやされたこともあるぐらい、フェミニズムについては考えていることも言えることもたくさんあるだろう作家である。 20世紀の数々の悲劇、それのみに限らず、歴史上のあらゆる紛争の原因の一つとなってきたのは、上記のようなロマン主義的意味での妄信である。 吉本隆明風に言えば「関係の絶対性」であったり、マルクス風に言えば「宗教」や「イデオロギー」であったり、ラカンの言葉を借りれば「支配欲」であったりする、この強固な思い込みに基づく猛進(盲進)は、もしかしたら男性的なものかもしれない。 ユング派の心理学者エーリッヒ・ノイマンが「父権的意識」と呼んだもの。(ある種の便宜的表現でもあるのだが) それは西洋の近代的な「進歩」の原理となってきたもののことであり、無意識から意識を明確に区別する力、そしてものごとを区別する力の強い意識のことである。 それはデリダが、プラトン以来の形而上学的なものとして脱構築しようとしたものと、とても近いものだろう。 マルクスやニーチェ以来、西洋社会は過ちを犯しながら、この意識からの脱却を一つのテーマとして思考してきた。 それが「父権的意識」だとして、「母権的意識」は区別しない力の強い意識のことである。 『マラフレナ』では、伝統的に女性に期待された役割として、そしてもしかしたら「女性的な」行動の象徴として、「待つ」ことが挙げられている。 イターレとローラ兄妹の故郷マラフレナでの幼なじみ、ピエラという女性がいる。 彼女が結婚を前にした時期に、イターレが逮捕されたということでマラフレナに帰ってきて、彼女の人生について迷う場面である。 彼女はこの場面で、少女期の終焉を、女性としての独り立ちを強く自覚する。 「もしこれが彼女の世界なら、そこに生きるだけの強さが彼女にはある。女であり、公的行動にはいっさい慣れていないし、果敢な挑戦にふさわしくしつけられてはいないが、女性の役割を果たすにふさわしく育てられてきている。つまり、待つ、ということだ。だから彼女は待つつもりだ。たとえ何事でも自らそうと意識して行えば、それは一つの挑戦だろう。自主的行動と言えるかもしれないし、それが一生をすっかり変えてしまうことがあるかもしれない」 人の自由は、都会へ向かい、そこで政治行動を起こすことだけにあるのではない。 はた目から見て明らかな、果敢な挑戦だけにあるのではない。 たとえ女性がそのような果敢な挑戦を許された存在としてこの世にあるのでないとしても、それでも女性の選べる自由はある。 それは次の文章にも強く表れている。 「なにを賭けるか、何を与え、何を失うかは結局大したことではない、とピエラは思った。かくべつの才能などまったくなく、すぐれた知力があるわけでもなく、また特にやるべき仕事もない。ピエラのしなくてはならないことは、女性の仕事とされるあらゆることと同じで、毎日繰り返されること、際限のない確認ばかりで、どれもこれで終りということも完成ということもない。けっして終ることはない。それでもやらなくてはいけなかったのである。彼女が望むのは彼女の生活、生活そのものであって、報いを求めているのではない。大したことではなくとも、思い切ってやってみるかぎり、それは彼女自身の生活だ。彼女が天与の力を受け止め、彼女自らが生活を獄舎としてしまわぬかぎり、彼女が自由を第一義としているかぎり、それは生きるに価いする生活なのである。 しかしそれはきわめて難しいことでもある。女性にとって、自由とはなにか、その内容はどのようなものか、それを勝ちとるにはどうすべきか、それをだれもピエラにこれまで教えてくれた者はいない。勝ちとるでは語弊があるかもしれない。女性の自由という点では不適切な言葉のようだ。おそらく、達成する、が適当かもしれない。」 勝ちとるという意識は、自由であるものとそうでないものを明確に区別し、明らかな自由を手に入れるという意識である。 達成するという意識は、何かこまごまとしたものを少しずつ積み上げて、様々なものの複合体として自由を手に入れるという意識である。 自由を勝ち取るのだ、と意気揚々と首都に赴いたイターレは、悲劇と流血を見て帰ってきた。 勝ちとるという意識のもとでは、これは敗北である。 しかし達成するという意識のもとでは、まだその作業の途中である。 確かにイターレは何かに失敗し、何かの害を及ぼしてきたかもしれない。 しかしそれを避けられる人はいないのである。 あっという間に結論が出る、と考えることは、どうやら早計にすぎるようだ。 どちらが真の自由だ、と言っているのではない。 自由とはいったいどういうものなのだろう、と問うているのである。 では、「生きるに価いする生活」を生きている者が、それでもなお自由だとは言い切れないのはなぜだろうか。 ただ自由を第一義として、彼女の(彼の)自主的行動として、与えられた生活をまっとうすれば、それは自由な生活だと言い切れないのだろうか。 ピエラの言葉を引用しよう。 「わたしにはわからないわ。…愛とはなにか、それとも恋とはどうあるべきものなのかわからないの。なぜ愛がわたしの生活のすべてでなきゃいけないの? その時がくる、とイターレはいつも言ってたわ。でもわたしたちは待つばかりよ。私たちは何を待ってるのかしらね、ローラ? なぜイターレは牢に入れられなきゃならないの、なぜ男性ってそんなおばかさんでなきゃいけないの、なぜわたしたちは人生をむだにしなきゃならないの? 愛がそういったものすべての答えなの? わからない、私にはわからない…」 自主的行動として、自らの意志で一つの挑戦を選び取ったとして(それがどんなに小さなものでも) 、そのときに人は自由のなんたるかを感じるかもしれない。 しかし、それのみではその人は自由になれない。 それは愛の作用のためである。 イターレが首都に赴き、また逮捕されたのは、祖国や人民に対する愛のためであり、自らの人生に対する愛のためである。 ローラやピエラが結婚することも故郷を出ることもできずに迷い続けるのは、自らの人生と、親しい人々への愛のためである。 愛が人々を迷わせ、妄信させる。 ここで言う愛というのは、釈尊のいう執着のことでもあり、デリダのいう正義のことでもある。 釈尊の主張でいえば、このような愛、執着こそが苦しみの源なのだから、それを棄てることこそ平安な心と悟りへの道である。 デリダの主張でいえば、この愛こそが存在への賭けであり、他者を受け入れることのできる根拠なのだから、何事もこの愛に向けて為されなければならない。 まったく別のことを言っているようでいて、実は近いものがある。 共通する部分は、エゴを捨てなさいということである。 自由というのは自分が何にも縛られないことだ、と思われがちなところがある。 しかしこれが勘違いに過ぎないのは、何ものからも独立した「自分」というものなどどこにもない、ということを考えればわかるだろう。 自分の中にも他者性があり、またそういった自分を愛しながら、同時に他者を愛している。 存在する、ということはそういうことだから、自分が自分が、と思っているうちは絶対に自由は実現しない。 大澤真幸はこのことを、「他者性こそが自由の源泉である」という言葉で表現している。 例えばイターレの自由について考えてみれば、彼にとって自らの言論や移動の自由はもちろん保障されてしかるべきものだが、そのことを獲得する過程において多くの人々が傷つき息絶えるというのは、彼にとって真の自由とは呼べないだろう。 なぜならば彼には愛があるから。 祖国の独立と民主主義の獲得を希求する一方で、それならばイターレの独裁政治による政権が擁立されれば、それで彼は満足かといえば、そんなことはないはずだ。 彼が全てを執り行うというのは不可能でもあるし、そのようなことを彼は望んでもいないのである。 自らの「はい(oui)」を尊重するためには、すべての「はい」を尊重しなければならない。 このあたりに、自由の難しさの一つの根源がある。 自由とは一人で実現するものではない、ということが『マラフレナ』では「故郷」ということの問題と合わせてこのような語られている。 ボロボロになって帰ってきたイターレに対して語られる、妹のローラのセリフを引用しよう。 「5年間わたしの生活に意味を与えてくれたのは兄さんがあそこで自由に生きているというわたしの信念だったの。 兄さんが自由のために働き、わたしにやれないことを、わたしに代わってやってくれているということなの。 牢に入っている間だって。 あの時はとくにそうだったのよ、イターレ!」 このときには、ローラの言っていることがイターレには理解できなかった。 ローラがイターレのことを落伍者とも愚か者とも思っていない、ということがわかっただけだった。 彼がこのことを理解したのは、後にローラと二人で休息日の教会に行く場面でのことだ。 イターレが刑務所の中で神のことをどう思っていたかについて話した。 神の愛よりも、ボート小屋の中の水や食事用の皿について考えるときに、自分はもっとも大丈夫だったと話した。 それを聞いたローラは、笑みをうかべながら「エホバ家をたてたもうにあらずば」とささやいた。 そして教会でのミサで、神父が「唯一紳へのクレド!」と祈り始めたときに、イターレはようやくローラの言っていたことを理解した。 クレドとは信条のことであり、信仰の宣言のことである。 「ただクレメント神父が「唯一神へのクレド!」と祈り始めたときには笑いたくなった。ふいに楽しくなったからだ。さっきローラの言ったことがわかったのである。なぜ彼女に「兄さんは私にとっての自由なの」と言うことができたかがわかった。前にはわからなかったことが、彼女がイターレにとっての自由だということ、棄てるべき故郷のないかぎり、故郷を棄てることはできないのだということがわかったのだった。だれがあの家を建て、だれのために建て、だれのために守っているのか?」 神を信仰することができるのは、家があり教会があるからである。 牢に入り、もっとも辛いときに思い浮かべるのは、神の愛ではなく故郷の風景、それもなんてことのないものたちだったのである。 イターレが先の見えない冒険的な活動に身を投じることができたのは、故郷マラフレナがその時にも健やかに存在してくれているからだった。 そして、ローラがそのように家を守ることができたのもまた、イターレが活動をしていたからなのだ。 なんでもない故郷の風景があるから、そこに信仰が芽生えるのである。 自由というのはそういうふうに成り立っているのだ。 故郷にいつでも帰れるから安心して冒険ができる、という意味ではない。 故郷が地球上のどこかにあり、そしてそこには懐かしい人々がいる。 そのことを思わずに、人は自由な行動に踏み出すことはできないのである。 故郷がある、そのことが人の存在への賭けになるのだ。 そして、最後にイターレとピエラはこういう会話を交わす。 幼なじみとして、ついたり離れたりしながら、一度も恋愛にはならずに過ごしてきた二人である。 「あの人たちは思ってるのよ、いつかわたしたちは、わたしたちは結婚しそうだって。でもあの人たちは間違ってるわ。それでわたしたち友達になれないのよ。 わたしはあなたと友達になりたいの」 「君は友達だよ」イターレはほとんど聞きとれない声で言った。しかし彼の心は言っていた。きみはぼくの家だ、ぼくの故郷だ。旅であり、旅の行きつく先だ。ぼくの気がかりであり、そのあとの眠りだ、と。 そして、すぐ後にイターレはこう言う。 「ぼくはここに戻ってくるまでは、なぜ出て行ったのかわからなかったんだ。 ぼくがもう一度出かけなきゃいけないとわかるためには、戻ってこなければならなかったのだよ。ぼくはまだその新しい生活を始めてもいなかったのだ。いつでもぼくは始めようとしているだけだ。始めようとしながら死ぬんだろうな。」 ほとんどの場合、新しい生活は始まらずに終わるのだろう。 しかし、始めようと思うことが自由であり、始められるかもしれないということが自由なのである。 かつて、俺はニューヨークを歩きながら、こう実感したことがある。 俺は世界中のどこにいても、故郷があるということを忘れることはないだろう。 愛してくれた両親がいる(いた)こと、大切に思い合い、わかりあえた友人がいる(いた)こと。 一度それを獲得することができた俺は、帰る場所を心の中に持っているのだから、何をしてもどこにいても大丈夫なのだ。 心から、それを実感した。 心に故郷を持つということは、明確な「はい」をいつでも聞くことができる、ということでもある。 確かに俺はかつて一度、家族を得て親友を得たのだ。 それは「はい」の明確な実現であり、それは愛なのである。 一度それを知ることができれば、俺はいつでも終わらない肯定に向かって歩むことができる。 焦る必要はない。 どの道、我々は害をなすのだし、物事は変わっていく。 我々にできるのは、それぞれの王道を探し、それを少しずつ実現していくことである。
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