This Is The One! - innocent -俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。
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JUGEMテーマ:日記・一般 ブログにおいて政治と宗教とスポーツの話題はNGだそうだが(聖☆おにいさんのジーザス情報)、今日はその中でも最も触れてはいけなそうな、政治の話題について書こうと思う。 といっても、政治的主張を声高に叫ぶ気はなく、問題提起ぐらいにとどめておくつもりだし、今の俺の知識と能力ではそこまでしかできないだろう。 その問題とは、死刑について、である。 11月16日、裁判員制度における初めての死刑判決が出た。 その日の夕方と夜のニュースや、各紙の夕刊で大きく報道されたので、多くの人が目にしただろう。 翌日、17日の朝日新聞の朝刊では、なおもこの件について大きく、しかも複数の紙面に渡って記事が出た。 そこで書かれていたのは、今こそ死刑制度の是非について国民的議論をするときだ、という現状認識と主張である。 そもそも日本における死刑制度は、長らく議論の対象になっていた。 それというのも、国際的に見て、死刑制度を持っている国や地域のほうが圧倒的に少数だからである。 多くの国が死刑制度を廃止や停止していく中で、なおも日本がそれを維持する理由は何なのか、というのは当然に出てくる論点である。 今回、裁判員制度のもとでの裁判で死刑判決が出たということは、死刑制度というものがどういう枠組みを持っているのかを、我々一人ひとりに教えてくれる。 そしてそのことは、世界各国で死刑が見直されている理由を、日本に暮らす我々にあらためて、切実さをもって迫ってくるのである。 死刑とは、ある人間に死を言い渡し、実行することである。 裁判員の立場からしてみれば、現に目の前にいる人間に死を言い渡すことである。 しかも審議の過程で、その人の生い立ちや人間関係をも知った上で、死を決定的に言い渡すのである。 俺は正直なところ、そのようなことに参加したくない。 たとえそれが不可能であり、欺瞞であったとしても、本心の部分では誰の死にも加担したくなどないし、誰にも暴力的に殺されたくもない。 そして、裁判員制度のもとでの死刑判決が出た今、考えなくてはならないのは、その死刑判決と俺との関係なのである。 俺も、いつでも裁判員に選ばれる可能性を秘めている!! このことが示唆するのはこういうことだ。 裁判員という市民が、被告という市民に対して、死を宣告する。 今までは国家という仲介役を介していたためにボカされていたこの事実が、ハッキリと前面に出てきたのだ。 国民主権の国家においては、原理的には市民が市民を裁くのだ。 それは立法、行政、司法、すべてにおいてその原則は貫かれている。 国という「お上」が、生まれつきの悪人を抹殺するのではない。 本来的にはなんら権力的でない市民が、本来的にはなんら抑圧されるはずのない市民を、民主主義というルールのもとに殺すのである。 このことをどう捉えるか。 それは一筋縄ではいかないだろう。 ルールは、決定的なものではありえないのだし。 「正義の戦争はありえるのか」と同じように、解消されることのないジレンマを内に抱えた命題である。 しかしもはや、我々は逃れられない。 あらゆる意味で、そういう時代に踏み込んでいるのである。 最後に、俺の意見を書けば、矛盾を抱えた中で、死という究極的に恐ろしいところまでいかなくても、他のもう少し穏やかな道があるならそちらを選びたいと思う。 上にも書いたように、そこまで決定的に恐ろしいことに、俺は加担したくも捕捉されたくもない。
JUGEMテーマ:日記・一般 宵闇に包まれて、ひかりの街の中を自転車で帰る俺はオザケンを聞きながら、いつか俺が自分にとってのマドレーヌを見つけるとき、俺は泣き崩れるだろうなぁ、と思った。 オザケンと俺の出会いはシングル「愛し愛されて生きるのさ」であるから、調べてみれば1994年のことだ。 それからもう16年になる。 とりわけ小学生時代を彩ったのが、オザケンの曲だった。 具体的な出来事なんかはもうすっかり忘れてしまっているが、オザケンの音楽は当時の空気感や気持ちというものと結びついている。 もう一つ、オザケンの音楽と強く結びついている時期というのは、大学1年生のころである。 俺が19歳だったとき。 オザケンを"再発見"した。 俺の中に渦巻く気持ちも、さらに出来事までもすべて、小学生のころから知っていたはずのオザケンがすでに歌っていたのだ、ということに気づいた俺は、幾何学的秩序を伴った人生の美しさに感動した。 「ラブリー」の「Life is comin' back!!」という叫びは、輝きに包まれた俺をどこまでも突き上げていくようだった。 「Life is comin' back」という言葉はそれで全てなのだけど、自分にとってのそのきっかけや内実を探してみると、まったく平凡な出来事なのである。 つまり女の子に関連するあれやこれや、というところばかり。 ただ、もう一つ言えることがあるとすれば、そのときは常に鮮烈な変革期であるということだ。 自分が急速に、それまでの自分とは変わっていく。 あの、不安感、焦燥感、わずかな期待感、総称して、ドキドキする感じ。 近ごろの俺は少しずつ、取り戻してきているような気がするのだけど。 少しだけなら今までだって何度かあったのだから、もうその感覚は信用しないけど、それでも小さなことたちを捕まえておかなければ何も起きやしない。 俺は何も恐れない、もう少し正確に言うと、自分自身であることを恐れないのだ。 セネカおじさんの言葉を借りれば、「自分自身であることに満足する」のだ。 常に。 それで結局、俺にとってのマドレーヌは、やっぱり女の子なのだろうと予想するのである。 彼女が俺にとってのマドレーヌであり、出来ることなら俺が彼女にとってのマドレーヌになれるものなら感動的だ。 輝きは、一瞬の出来事であるに違いないのだけど、何度も言うように俺は恐れないのである。 TM Networkの『human system』を聞きながら、夜に思いを馳せる。 そもそもこのブログを始めたのは、何かを探している人にとって、少しでも情報を与えられたらと思ったからなのである。 俺がかつて逆上したかのように熱中して音楽を探りまくっていたとき、たとえばアマゾンのリストだとか、こういうブログとかで情報を収集しまくった。 俺の好きな音楽を聞いている人たちは、ほかにどんなものを好きなのだろうかと。 今はLast.fmとか便利なものはあるけれど、やはり限界はある。 オザケンとTM NetworkとVan Morrisonは明らかに共通する基盤を持っているのだけれど、それらをつなげるのは統計や演算では不可能だ。 オザケンの『Life』を好きな人は、絶対にVan Morrisonの『Into the Music』というアルバムが好きに決まっている。 これは絶対の自信をもって間違いないと言い切れる。 Lifeがcomin' backする光のことを、完全につかんでいるのだ。 暗闇から手を伸ばす、あの切望を。 (俺がプルーストを完全に読んでいるかのようにかっこよく書いているけど、実際は7分の1ぐらいしか読んでません。 ごめんなさい。 でも他のところでも書いたけど、感じるものはあるからいつか読むだろうと思っているのだ。)
JUGEMテーマ:読書 読み終えたばかりだけど、青春の、知的生活の、文体の、俺にとって一つの理想形。 当時の東京大学に集まっていた秀才たちの魅力的なこと。 たとえば『レ・ミゼラブル』やジャック・ロンドンの『自伝的小説』(マーティン・イーデン)でも描かれるのだが、俺の理想とする青春には、こういう自然発生的な知的サークルの存在が欠かせない。 俺の大学生活でも、それはずいぶん達成されたと感じているけども、ここで描かれる交流をかいま見てしまうと、自分のオツムの鍛え上げられていないことにがっかりするのである。 現代の東大生ともいくらかの交流をもったことがあるが、さして特別な印象も受けなかった。 時代が変わって、日本から優秀な人々が消え去ったのか、それとも俺の巡り会わせや見る目がいけないのか。 何かを学ぶということ。 そのことが自分に何をもたらしてくれるかを知ることによって初めて、自発的に学ぶことができるのだと思う。 俺がそのことの実感に少しは触れ始めたのが、ここ数ヶ月のことだ。 一方ではもちろん、俺の知性の足りないことが理由なのだけど、ただそういう環境にいたこともないのだ、と言い訳してみたい気持ちもある。 冷静に考えてみれば、たとえば俺が東大を受けようと思い立つことはありえない可能性ではなかった。 しかし東大を受けたいと思う理由をどこにも見つけなかったのであるし、勉強したいと気づくきっかけも持たなかった。 たとえば16歳の俺が、そろそろ女の子にモテることばかりを考えるのにも飽きてきたころ、この一冊の本と出会っていたらどうだろうか。 俺はそもそも、勉強の楽しさに気づくことができただろうか。 そういう詮無いことを考えてしまうのも、自分の19歳から22歳までの生活と折り合いをつけることが、未だにできていないからなのだろう。 あまりにも貴重なその時間を、あまりにも無為に過ごしてしまったこと。 そして18歳のころの俺は、まさか自分だけはそのような浅慮に走ることはありえないと確信していたこと。 そういういろんなことが、まさかこの俺のしでかしたことだとは、未だにおさまりがついていないのだ。 そのことのもっと根本のあるのは、きっと「死」のことがおさまりがついていないことなのだろうと思う。 この『羊の歌』にある、死が生活の端々に姿を見せて、見えるものを張り詰めさせるあの空気。 かつて俺はそれを知っていたが、かつての俺が自分で思っていたよりも、それは俺と一体化していなかったようだ。 この本の著者も、この世界のどこを探しても、そこにはもういない。 あらゆる事実が、俺を落ち着かなくさせる。 「どこで生れて育ったか、つまり、どこから始めたかが、一人の男の国籍をきめる。どこに行き着くかが、ではない。」(p.196) この一文には深く同感すると同時に、何かこう、感じ入って考え込んでしまいましたね。 自分の中の「日本」とも、俺はおさまりがついていない。 しかしこちらはまぁ、23歳でそこまで綺麗におさまるものでもなかろう、と思うので焦ってはいないが。 俯瞰的に見て、冷静に考えると、今の俺がやるべきことは何だろうか、というのはそんなに迷わせるものではない。 いくらかの選択肢、というか道を見据えて、とりあえず俺のやりたいことと言えば、まぁ語学かなぁ。 英語をもっと磨いて、フランス語をちゃんと学ぼうかな。 できれば日本の古典をちゃんと読めるようになりたいし、中国の古典も読めるようになりたい。 もっと欲を言うと、ラテン語も読めるようになりたい。 さて、俺はそういうことができるのでしょうか。 生まれてこの方、身を入れて勉強するということをまるでしたことのない俺が。 俺は自分のことも、誰かのことも、何も知らないのである。 あらゆる事実が、俺を落ち着かなくさせる。 If you never try you'll never know Just what you're worth
JUGEMテーマ:読書 ミシェル・フーコーという名前は、現代においてとても巨大だ。 俺は社会学部の学生をやっているが、そこにおいてもたびたび登場するし、とりとめもない雑読の端々にその名前が出てくる。(ときに小説のなかにさえも) 思想というものはまさに生きて、我々の生活を形づくっていくのだなぁ、と驚かされることがある。 俺がどうしてこの本を手にとったかというと、現代における個人の置かれている位相、というようなものについて考えてみたかったからである。 人間一人ひとりというものがどのように捉えられ、どのような期待をかけられ、何をすることができ、何をすることができないのか、などなど。 そして何よりも、俺という個人はどういうものとして捉えられ、俺に何ができてできなくて、俺はどう振舞うのが自分にとって最も望ましいのか、などなど。 俺は知らないうちに何かを禁じられているのではないだろうか、自分自身や世界というものは、実は俺の考えていたものとまったく違うものであるのではないか、などなど。 「だが哲学 ―哲学的活動という意味で言っているのだが― が思考自身への思考の批判的作業でないとしたら、今日、哲学とはいったい何であろう。もし、また哲学の本領が、自分のすでに知っていることを正当化するかわりに、別の仕方で考えることが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとすることを企てることのうちにないとしたら、いったい哲学とは何であろうか」 フーコーは別のところでそう言っているのだが、つまり、俺の知りたいことというのは、少なくともそのうちの一つは、そういうことなのだ。 俺は、もっともっと、ずっと違う考え方ができるはずだと思うし、驚くほどに自分自身が変わるということもありえることだと思っているのだ。 1982年の講義を収めたこの本の内容が、まさにそういうものになっている。 現代の我々が「自分自身のことを考える」というとき、その一般的な態度は、自分を対象として、それを探っていきながら認識していく、ということではないだろうか。 しかし自分自身を認識する、ということだけが自分との関係の持ち方ではない。 たとえば、自分自身を作っていく、というような関係もありうるのだ。 古代ギリシアからヘレニズム・ローマ前半期を主に題材にとって、そこで探られていた自己との関係のさまざまなあり方を見ていく。 その基調に流れる疑問というのは、社会関係の中での<主体>の別のあり方はないだろうか、というものだ。 私たちを脅かす可能性を常に抱えているものとして、権力があり、一人ひとりがそれと付き合うやり方はまだまだ世界中で模索中である。 ときに日常的なものとして、ときに特異なものとして現れてくる、権力的なものという問題は、そもそもどこまで根源的なものなのだろうか。 我々が自明なものとして受け取ってしまいかねない<主体>というものは、実はその内部に何らかの装置を組み込まれているのではないだろうか。 こういうことが、この講義の基調的な疑問として、俺が読みすすめながら聞き取ったものだ。 「存在」への懐疑というのは、数々の思想家が口にするところであるが、「存在」から「生成」へ、というのはここ100年ぐらいのトレンドではないかと、俺は勝手に思っている。 はじめはドゥルーズの解説本で見つけたのだが、次にフッサールの解説本で見つけた。 フッサールは100年ほど前の人物だが、「存在」から「生成」へというテーマがアクチュアルに響くのはここ最近、50年ぐらいだろう。 何かが硬直したときに、人間はとてつもなく凶悪なことができるらしい、という反省のもとで、「生成」というテーマは、法や規範との新しい関係を開くかもしれない。 この講義の校訂者であるフレデリック・グロが「講義の位置づけ」という、あとがきのようなところで書いているのだが、フーコーの『性の歴史』の執筆が遅れたことについて。 「執筆というものは、理論的な計画のたんなる実現になってしまったら、その本来の任務、すなわち経験と試みの場であるという任務を果たしそこねてしまう」 つまり、執筆というものの過程で、自らの思想が研磨にかけられ、何らかの変容をきたしていく、ということだろう。 執筆に限らず、何かを作ったり、人と深く関わったりということには、だいたいこういう効果があるように思う。 つまり、世界を試練として自己を研磨し変容していく、というローマ期の人生観などは、今でも十分に有効なものだろうと思う。 考えてみれば、それ自体は取り立てて目新しくも無いのである。 しかし当たり前のことを、まるで無いものかのように平板化し、枠組み化していくことがあるのが、権力や暴力というものである。 そういうものと対峙するとき、当たり前のことを大きな声で言える、ということはとても大事なのだ。 そのために、透徹した論理は欠かせない。 小熊英二が書いていたとおり、同時代的に要求される思想というものは、多くの人が思っていることを言葉にしてくれるような思想のことなのだろう。 後に評価されるような思想はまた別として。 だからフーコーがこんなにもあらゆるところに顔を出すのも、彼の思想が今を作っているというよりは、彼の言葉が今の時代をうまくすくい取っている、ということなのかもしれない。 どちらにしろ、刺激的で面白いものではあるが。 だが果たして、本当に自由な場で俺が変容していくことなど、できるのだろうか。 最後に、俺はもちろんル=グウィンの大ファンなのであるが、この本でローマの思想に触れてみて、ル=グウィンの思想との類似に驚かされた。 老子から影響を受けていたのだろうと思っていた部分も、もしかしたらマルクス・アウレリウスからの影響かもしれない、とか。 『ラウィーニア』を読んで知ったのだが、ル=グウィンはラテン語を読める人で、ローマの文学には深く魅了されているようだ。 だから、これらの思想に触れていることも間違いないだろう。 そして、ル=グウィンの世界観・人間観に触れて安らぎを覚える俺は、セネカやマルクス・アウレリウスの思想にもよく似た安らぎを覚えた。 もっと読んでみようと思う。 しかし、西洋思想と東洋思想を同時に学んでいると、その相違よりも、共通するものの多さに驚かされる。 人間の発想というものはその程度のものなのか、それとも広大なユーラシアの地理的なつながりに思いをはせるべきなのか。 たかだか5000年程度の文明史ではあるが、人間というのはいろいろと謎を見せてくれる。
JUGEMテーマ:日記・一般 最近、どうも忙しくて タイムマネジメントの本を読もうかと真面目に思うぐらい。 バイトもしていないのだからそれほどまでに忙しいはずはない、と思うのだが、その一因は明らかに俺の時間管理のマズさにある。 ダラダラとアメフトとか音楽チャンネルとか見つづけたり、パソコンつけたらあっという間に30分たっちゃった、とかそういうことがいけないと思う。 出来る人はきっと当たり前に出来ることなのだろうと思うけど、俺はそんなことしたいと思ったことがなかったから、どうにも不便だ。 そういうアメリカ的な、なんでもかんでもマネジメントでキャリアアップな考え方が好きじゃなかったし。 しかしまぁ、やることやろうと思ったら、そのくらいのことは出来なければお話にならないのだ。 そういうものなのだから、それぐらいは出来るようになろうと思う。 いったいなんで忙しいのかというと、それは僕ちん学生ちゃんですから、もちろんお勉強なのである。 一年生(つまり4年前だが)のときから知っている先生が、「私生活に口を出すつもりはないけれど、僕のゼミを受けるならばバイトはやめておいたほうがいいよ。たぶん忙しすぎて余裕なくすから」とかつて言っていたが、それがどのような状況なのか、大学生活5年目にしてやっと見えてきた。 ふーむ、勉強というものはオモシロイのだなぁ。 振り返ってみれば、嫌なことはしない人間として生きてきた俺は、勉強というものを本腰いれてやってみたことがなかったように思える。 英語と国語だけは簡単だと思っていたし、だからこそ嫌じゃなかったからそれなりにやれていたのだろうと思うが、それ以外は壊滅的だった。 しかし、数学、理科、世界史などは、今になって強く興味を引かれているのだから、中高生当時からそのことに気づいていたらどうだったのだろうかと夢想するときがある。 違う学校に行ったり、広がっていく興味関心に合わせて今よりもずっと広範な知識や技術を獲得していたり、そうしたら今とは違ういろんな人と出会ったりいろんなところに行ったり・・・ もちろん、そういう勉強の楽しさに気づけないから中高生というのはガキなのだし、気づけるほどの知性を俺は備えていなかったのだから、どうすることもできたわけではないのだが。 しかし、ありえたかもしれない他の可能性を夢想してみるというのは楽しい。 そのことで現状を否定するように用いると、少し分裂症じみてくるかもしれないが。 俺は今でも十分に楽しいし、探してみても楽しくなかった記憶など見つからないのだから、とにかく今のことを考えるのがあらゆる面で望ましいことは確実なのである。 それでもまぁ、夢想の楽しみは、それはそれで別物である。 望ましいことだけをやるのが、望ましいとは思わない。 勉強しなさい、と言われる立場だと意地でも勉強をしない。 大学5年生になって、もはや誰にもそういう期待をされないようになって、初めて勉強をしてみようと思う。 そういう、3回転ぐらいにヘソの曲がった人間として生きてしまっているのだから、不便ではあるがそういう自分とも付き合わなきゃならないよなぁ、と思う。 学校の講義で面白いと思うのは、半分に少し欠けるぐらいの数だな。 講義の内容よりも、先生の人柄によるところが大きいのだと、最近気づいた。 内容で言えば、そうそう簡単に切り捨てられるものなどほとんど無いだろうと思う。 しかし退屈な話者の手になると、どうにも聞いているのがつまらなくて頭に入ってこないのだから、これはどうにかするのが難しい。 こういうのとは適度なお付き合いというものをして、必要十分な単位というものを取得していかなくてはならない。 論文一本書けばそれでよし、という具合にはいかない。 1万分の1か、それ以下の割合ぐらいで例外はあるのだろうけど。 戦略上明らかに、例外を狙う立場になり得ないオトシゴロの俺なので、しこしこと単位を稼ぐ。 単位制度を改革しやがれ、と声を挙げる気にもならない弱い俺なので、しこしこと単位を稼ぐ。 それでいて、来年には就職活動適正学年としての本場にさしかかるのだし。 実際に就活するかどうかは、また別の問題として。 やりたいこと、やるべきことが山積し、こなしていく手順もまるで見えない、23歳の差し迫る秋である。
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