This Is The One! - innocent -俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。
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JUGEMテーマ:恋の話 彼氏と別れた と いってあなたは泣いた そんな大したことでもないのに騒ぐな と 意地悪な上司に言われて あなたはいっそう泣いた 大したことじゃないのかな? と 問いかけるあなたに そんなことないよ と 俺はあいまいに笑った 大したことじゃないよ 彼氏と別れたことも あなたが今泣いてることも 大したことじゃないよ あなたはとても素敵です あの人はもうアタシを見てくれない と この世の終わりみたいな顔をする あなたはとても素敵です きっと この世の終わりだって 大したことじゃないよね 今 宇宙よりも大切なものを見つけた あなたはとても素敵です
JUGEMテーマ:読書
JUGEMテーマ:洋楽歌詞・和訳 昨日、小学生のころに好きだった女の子と会った。 小学生のころの俺は、自分でもよくよくわかっていたことだが、とにかくイケてなくて、その女の子にもまともに相手にはしてもらえなかった。 どれだけその女の子のことを好きだったことか。 考えるだけで悶絶するような、どうしようもない片想いの思い出はいくつもある。 その女の子とは中学では一度も同じクラスになることがなかったから、ほとんど話すことはなかったのだが、常に憧れは心に残りつづけていた。 飲み会でななめ向かいに座ったその女の子とは1年以上ぶりの再会で、かつてはまともに喋れなかった俺も、一応「普通に」話すことができるようにはなった。 それでも、そのコが俺に向かって話しかけてくれるだけで、俺の話をちゃんと聞いてくれるだけで、嬉しくてたまらない俺は、無我夢中で延々と話し続けてしまいそうな自分をなんとか抑えていた。 きっと何が伝わったわけでも、何かの特別な印象に残ったわけでもなかっただろうが、とにもかくにも、話していること自体が嬉しいのだ。 かつての悲遇を思うと、なおのこと。 そんな俺のことを知っている女友達は、その人に今彼氏がいないことを聞き出し、「がんばれば?」みたいな目つきで俺を見た。 それは、俺だってがんばれるものならがんばりたいものだ。 今なら、少しは度胸もついて、かつてのヘタレよりは、少しはマシなヘタレになっているはずだ。 中学を卒業して8年、23歳が集まる飲み会の話題は必然と、人生の話題=仕事・結婚、へと流れる。 その女の子が次の彼氏に望むのは歳上。 しかも、しっかりと稼いでいる歳上の男性が、お望みだそうだ。 「今さら学生は絶対にない」 「なんか甘えられても困る」 誰が甘えるかっちゅうの!! 学生は学生なりの自立のしかたってもんがあってだな、そりゃ目に見える形で自立していらっしゃる社会人の方々には風上に靴も置けないぐらいにへりくだりますがね、キャリアの物語の中で四苦八苦してる同世代のみなさんとは違うやり方で俺だって懸命に生きてるんでさ! 土壌を共有してる人としか恋愛したくないってならその現実感覚も認めますがね、俺みたいなガイと会ったことがあるかい? 詩とゲームで構成される俺のおしゃべりは、テレビみたいな歯切れのいいノリツッコミとは違うけど、絶対にキミを楽しませることを誓うよ。 そんなこと求めてないって? めんどうなことはごめんこうむりたいって? なんとなくフィーリングが合って、一緒にいて安らげればいいのかな。 そういう関係ならオトモダチでいいじゃないか。 I ain't got no money お金は持ってないよ I ain't like those other guys U hang around キミが引っかかりまくってる男たちと俺は違うよ It's kinda funny なんだかおかしいよね But they always seem 2 let U down そいつらっていつもキミを落ち込ませてる気がする And I get discouraged それでガッカリしちゃうんだよね Cuz I never see U anymore だってキミにはもう会えないから And I need your love baby, yeah キミの愛が欲しいんだ ベイビー That's all I'm living 4, yeah 俺が生きてるのは全部そのためだよ ホントさ I didn't wanna pressure U, baby キミを困らせるつもりじゃなかったんだ But all I ever wanted 2 do... でも 俺がしたいことっていうのは いつだって一つだけ・・・ 飲み会の帰り道は、中学生のころに短期間だけど好きだった女の子と帰った。 そのコは数年後に東京本社勤務か、地方勤務かが決定される。 地方勤務に決まったら、会社を辞めるつもりでいると言った。 「アタシが男だったら別だけど、女の子にはやっぱりそんなの無理だよ」 そうして、得られる選択の、あらゆる意味で最も現実的なものは結婚のようだ。 一人暮らしのこと、彼氏のこと、そういうことは年末にも少し聞いたけど、そこから勝手に俺が読み取ると、だいぶ迷っているようだ。 一人で暮らしていけるようなタイプじゃないけど、今の彼氏と結婚していいのだろうか。 そういうことを。 誰だって、自分の人生を最高のものにしたいけど、全部を求めたら大事なもの一つも得られないかもしれない。 でも、確実に一つの夢が叶うからといって、それが一番大事なことだとどうしてわかるというのだろう。 本当にこれでよかったの? と問いかけながら、それでも笑顔で生きていくしかないのだろうか。 飲み会で、「がんばれば?」みたいな目つきで俺を見た女の子は看護師で、12月に俺の部屋でしばらく話した。 それほどまでに仲がいいのです、という事ではなく、用事があって来たついでに話したのだ。 やはりそこでも結婚について話した。 看護師としての収入があるから、暮らしていくことの不安はないのだけど、身寄りのない一人ぼっちの老後になるのは絶対にイヤなのだそうだ。 だから、子供は絶対に生みたいんだけど、高齢出産を避けるためにはそろそろマジで現実的に考えなければいけない。 20代終盤で一人目を産むとして、その1,2年前には結婚したい。 結婚する前にはお試し期間的に、半年以上は同棲したいから、さらに1年以上前には出会わなければならない。 28歳で出産しようと思ったら、どんなに遅くても25歳のときには相手と出会ってなければならないのだ。 そこに、そのコ特有の事情がからまって、23歳の悩みは浅くないようだ。 それに対して俺は、「結婚ってのは、しなきゃいけなくなったときにするものだと、俺は思ってるからなぁ」と言った。 「あはー、追いつめられる、みたいなね」と言ってそのコは笑ったけど、一人になってから俺はこの自分のセリフを後悔した。 言いたいことが全然伝えられなかった、と。 俺が言いたかったのは、こういうことだ。 結婚をしなきゃいけないことだなんて絶対に考えはしないのだけど、好きで好きでしょうがなくなったときに、きっと俺は結婚を口にするだろう。 今、こいつを失ったら絶対に生きていけないし、こいつの笑顔を守りつづけられるのは絶対に俺なのだから。 そんなにまで大事なものができてしまったら、結婚するしかないではないか。 そういうことが言いたかった。 もちろん、それ以外にも「しなきゃいけない」という言葉に織り込んだ意味はたくさんあって、そのほとんどが精神的・文学的意味なのだけど、そのコに伝えたいのはそういうことだった。 でも、それを上手く伝えられたとしても、どうなんでしょうね。 一人ぼっちの老後になりたくない、という恐れのあるそのコと、さしあたって恐れのない俺との間にはどれだけの溝があるのでしょうか。 23歳でこんなにも夢見がちで、ロマンチストで、人生をスウィートなものとして楽しもうとしているし、実際に楽しんでもいる俺って、やっぱりどこかがバカなのかしら。 その看護師の女の子とその後メールを少ししていて、結婚の話題が出たので、こないだ上手く言えなかったことを補完するチャンスだ、と思って書いた。 オザケンの「いつか完全な誰かと恋におちる」っていう言葉を信じてるんだ、 っていうことと、 いざとなったら離婚など恐れないんだ、 っていうことを書いた。 それへの返答は、 「俺はこいつを一生愛しつづける! 離婚するぐらいなら死ぬ!」ぐらいの勢いで行こう。 というものだった。 そんなことを、俺は絶対に言いたくないし、思わない。 なぜならば、覚悟が伝わる、という以上の意味をまったく持たないからだ。 離婚するときというのはどういうときかというと、「離婚するぐらいなら死ぬ!」という言葉が消えてなくなるときだ。 「離婚するなら死ぬ!」という言葉が生きているのなら、その二人は離婚しないだろう。 離婚するのならば、その言葉はもう死んでいるから、二人は死なないだろう。 二人が離れていくときというのは、かつての誓いがもはや何の意味も拘束力も持っていないことに気付くときでもあるのだ。 だから、そんな誓いには最初から何の意味もない。 意味を成すときには二人が別れないので効力を発揮することはない、つまりそもそも誓う必要がない。 その効力を発揮することが初めて求められるのは、二人が別れるときだが、その別れというのは誓いが意味を成さなくなったからこそ起こるのだから、誓いがその効力を発揮することはない。 しかし、俺が結婚するときには、そんなことは恐れないのだ。 その先に何が待ち構えているかなんて、誰にもわからないのだから。 その中で何かできることがあるとすれば、信じること。 だから俺は、離婚なんか恐れる必要もないぐらいの強さで、相手のことを、自分の愛を信じる。 全力で奮闘するけど、結果なんか知らない。 でも結局、一番大事なのは、俺に何ができるかってこと。 そんなふうに友達の女の子たちと話していて、俺にいったい何ができるのだろう。 俺がその中の誰かのことが好きだったら、Princeみたいに「I Wanna Be Your Lover!!」って叫んでさ、「俺が生きているのは全部、キミの愛のためなんだ」って言えたらいいと思うけど… でも、俺だって悩んで迷ってる中で、中途半端な気持ちでそんな大事なことが言えるのか。 「お前のそんな考え方つまんねーよ」とか、この日記に書いたような分析めいたこととか、そういうことを俺が言ってもただの失礼な人だよね。 俺が女の子たちに本当に言いたいことっていうのは、きっとたった一つなんだ。 いつまでも、そのままの素敵なキミでいてくれよ。 くだらない男とか、くだらない競争とか、くだらない見栄とか、くだらない嘘とかにかかずらってさ、自分を台無しにして、くだらないオバンにならないでくれよ。 stay goldっていう、それだけなんだ。 ところで、そんな素敵なキミを抱きたい、俺のオトコノコな気持ちっていうのは、どこに位置づければいいでしょうね。 素敵な女の子とは、親密にニャンニャンしたいもの。 人生が終わっちゃう前に、もっとよく知り合いたい、もっと仲良くなりたいもの。 Do you still say your prayers little darlin' Once I dreamed we were together again, baby you and me Point blank, right between the eyes
JUGEMテーマ:読書 あけましておめでとうございます。 2011年です。 俺は新年というやつが好きで、まっさらなカレンダーのような、未知なる1年間が目の前に待ち受けていると思うと、期待と不安に震える新入生のような気持ちを味わうことができるのであります。 さてと。 この年越し、そして正月、俺はずっと本を読んでいた。 年をまたいで読んでいたのが、『リーマン・ショック・コンフィデンシャル』の上下巻。 さらに、2日には『水神』の上下巻を読み終えて、今日の夕方に『フラナリー・オコナー短編集』を読み終えた。 「お正月だよ ノヴェル大会」ということで、ノンフィクションとフィクションの違いはあるけども、それぞれに小説である。 そこではダイモンとかポールソンとか助左衛門とか元助とかボビー・リーとかミセス・ホープウェルとかいう名前の登場人物たちが、何かの行動、行為をしたりするわけだ。 大きく異なる場所や時代で、大きく異なる生活を営む彼ら彼女らを見つめていると、何か不思議なものが見えてくるようでもある。 「文化」とか「文明」とか、何かそういうものが。 とにかく強烈なのがフラナリー・オコナーで、彼女の短編たちが教えてくれるのは、こういうことである。 よく考えてみれば(というか、ちょっと考えてみれば)わかることだが、人間に安らぎを与えてくれるような絶対に確かな「意味」など、この世には無い。 この世に生まれたことを、それ自体のみとして見つめてみるならば、この人生というのはずいぶんと空虚なものである。 人間の生に対して意味を生み出すのは、人間自体からなのだ。 人間には、幸か不幸か、知恵というものがある。(知恵は人間だけにある、という断定に読みかえないでほしいが) 知恵がある人間にとって、まるっきり意味を持たない生というのは、どうやら少し耐え難いもののようだ。 無知な生活。 昨日のことも、明日のことも、視界の少し外のことも、あるいは眼前で何が起こっているのかも、何もかもに無知なまま、ただ「今ここ」それのみを受け取る。 知恵を持つ人間は、そういう生活から脱却したくなるらしい。 (最後の引用を読みながら、聖書において、何が人のそもそもの「大罪」だったか思い出してみよう) そういうときに人間は何に頼るか。 まぁいろいろあるのかもしれないが、俺の知る限りでは「道徳」や「物語」である。 こういうことをしていけないのは何故ですか、こういうことは是非やるべきなのは何故ですか、という道徳。 あなたが今しているのはどういうことですか、それをするとどういう期待が持てますか、という物語。 こういうものがあるから、人は自分の行為や人生に意味を付与していくことができる。 俺は誰かの命を助けたから偉い、とか、子供たちが立派に育ってくれたから私は報われる、とか、私は金融業界を救うためにこんなにも働いているのだ、とか、そういうことだ。 そして、道徳と物語、両方を強く持っているのが宗教というものである。 「善人はなかなかいない」というタイトルでまとめられた、フラナリー・オコナーの短編小説たちは、これらを徹底的に問う。 乾燥した農地、カトリック、人種、暴力、いかにもなアメリカ南部の風景の中で繰り広げられるドラマは、普遍的なテーマを含んでいる。 大人たちは頑迷で人の話なんか聞かず、子供たちは他人の都合なんか考えない。 誰も自分のために何かをしてくれようなんていう気はないのだから、必死で自分の身を守らなければならないのだが、そんな努力を笑い飛ばすかのように「現実」は裏切る。 そういう中で、少しでも安らぎのようなものが欲しいのなら、何かを全力で「信じる」しかないのだ。 そして、皮を一枚剥いだ「現実」の生々しさ、あるいは無慈悲さは、20世紀中盤のジョージア州でも、江戸時代後期の筑後でも、2008年のウォール街でも、2011年の東京でも、同じことなのである。 『水神』が教えてくれるのは、江戸時代の貧しい農民の、まさに「生活」。 何時に起きて、何をして過ごして、何を食って、何を話して、そういうことだ。 そして幕府との関係や、村人が日々を過ごす人間関係は、萱野稔人の暴力論や、フーコーの権力論を、素晴らしく実践的に教えてくれる。 それら全てが、今を生きる俺の考えを揺さぶり、生活を小さく変える。 その一連のはたらきも、物語だ。 「経済合理性もまた、現代の宗教である」とはマルクスだが、ウォール街のエリートたちは「株主に貢献する」という至上命題の下に為される諸行為の、複雑すぎる意味について考えはしないのである。 考える時間もないし、意味もないし、そもそも彼らには見えないものがあまりにもたくさんある。 そして、きっと誰もが、全てを見ることはないままに日々をおくるのだ。 それでいいんでしょーか、わるいんでしょーか、どーでもいいんでしょーか。 どう思いますか。 それもまた道徳で物語です。 人間というのは、複雑で、難しくて、面白いですね。 そういうふうにして、「お正月だよ ノヴェル大会」で数々の具体的な疑問を受け取った俺は、次に『自我の源泉』を読もうと思っている。 いくつかの候補の中でこれに決めたのだが、それは第一章の冒頭からこんなにピッタリな文章に出会ったからだ。 「この探求(近代的アイデンティティの探求)を実際に行えばすぐ分かることだが、明晰であろうとすれば、私たちはさらに、自分たちの善の捉え方がどう発展してきたのかを何らかの仕方で理解しておかなければならない。自我のあり方と善、言い換えれば、自我のあり方と道徳は、、実は相互に分かちがたく結びついたテーマだということが判明するのである。」 もし、俺に何かの才能があるとすれば、その時の自分に適した本を選び取る才能だろうと思う。 ------------------------------------------------- ミスタ・ヘッドはとても静かに立ち、神の憐れみがもう一度自分にふれるのを感じていた。だが今度は、その働きに名前をつけるような言葉はこの世に存在しないことがわかっていた。その憐れみは苦しみから生じる。憐れみはどんな人にも拒まれることなく与えられ、子供たちにはふしぎなしかたで与えられる。人間が死ぬとき、造り主なる神のもとへ持ってゆけるのは、神から与えられた憐れみがすべてなのだ。ミスタ・ヘッドはそのことを理解し、突然、自分が持ってゆけるもののわずかさを自覚して、はずかしさで体がかっとあつくなったショック状態で立ち、神の十全さをもって自分を裁いた。すると憐れみの働きが老人の誇りを炎のようにおおい、焼きつくした。これまで自分が大罪を犯した罪人だと思ったことはなかった。だが、こういうほんとうの堕落でありながら、しかも堕落した当人が絶望に陥らないように、これまでかくされていたのだとわかった。 ------------------------------------------------- フラナリー・オコナー 『フラナリー・オコナー全短編(上)』 p.143 「人造黒人」より
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