This Is The One! - innocent -俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。
|
一定期間更新がないため広告を表示しています
posted by スポンサードリンク |-|-
JUGEMテーマ:日記・一般 「さて、ちゃんとやるか」と思ってから2ヶ月足らず、早くも内定が出た。 正確には、内定の一つ前の段階である社長面接に呼ばれた。 「9割方確定です。あなたが社長の前でポカをやらない限り」。 ただし、社長面接にすすむためには、2013年の4月には必ずその会社に入社するという確約が必要なのだそうだ。 正直、めちゃめちゃ迷っている。 今日のところはいったん返事を待ってもらって、明日の夕方に最終的な返事をすることになっている。 わからない。 考えるべき要素が多すぎる。 しかも、その中でも、どうにも明確になりえない要素も少なくない。 実際に働いてみたらどうなのか、そんなことが働く前からわかるわけがない。 東京の向こう側まで通うのはどうなのか、あるいは、都心に住むのはどうなのか。 いったい何年ぐらいその会社に勤めることになるのか。 俺はこの先どんなふうに変わっていくのだろうか。 結婚や子供はあるのだろうか。 考えてもどうしようもないことは考えない、というのが俺の主義だ。 俺が自らすすんで採用過程に踏み込んでいる会社というのは、俺なりのそこそこの観察眼と冷静さで、自分の働き口として見きわめた場合の最低基準よりもだいぶ厳しい基準で選択にかけている。 その上で、働く口があるならば、嫌じゃなければそれでいい、と思ってやってきた。 就職活動なんていう面倒なことはさっさとやっつけてしまいたい、というのも本音だ。 しかし、俺の心が完全に納得しているわけでもない、というのも見逃せない事実なのだ。 論理的に欠けている要素があるわけではないけれど、何かが腑に落ちきらない。 こういうときに相談できる友人がほとんどいない、というのを初めて不便に感じる。 地元のフリーターの友人たちに話しても、彼らには縁遠い世界の話だ。 大学の友人たちのほとんど全ては、いわゆる「就活」というものを経験していない。 そう考えると「就活」をしたこと自体が間違いだったのではないかという極論に走りたくなるが、別に社会の主流に乗りたいからというだけでやっているわけではない。 働いて収入を得ようと思って就職活動しているのだ。 それが、間違いなのかもしれないけど。 いいんだろうか、この仕事で。 じゃあどんな仕事だったら本当に満足なのか、と考えてみても、そんなイメージもわかない。 かつて俺が創作した「満足の技法」=「無いものを数えるのではなく、有るものを数える」。 どんな仕事で会社で職場であろうと、いいところはあるのだろうけど。 クソッタレ。 外国にでも、逃げちまうか。
JUGEMテーマ:日記・一般 俺は王道についてよく考える。 王の道、治めるもののあるべき姿。 洋の東西(ユーラシアの南側を帯状に広がる地帯)において、人間の有り方というものに共通する様式があった。 つまり、治める王がいて、治められる民衆がいた。 この様式のないところに「歴史」が生まれ得るのだろうか。 21世紀初頭に生きる我々は、いまだにその歴史の影響を免れてはいない。 現代の人間的想像力を振り絞ってみても、階層性のない組織や団体というものは考えられない。 完全に平準化された組織において、情報がどのように集約されて、意思がどのように決定され、指示がどのように分散し、作業がどのように分担され、そして調和がどのように保たれるだろうか。 目下のところ、人間の組織的生活には首長が必要なのである。 そして、首長とはそれに足る人物でなければならない。 現代の首長は、正統性よりも正当性によって決定される。 このことについて、俺は考える。 正当性とは他人から保証されるものだが、他人から保証されるためには、あらかじめそれほどの人物として抜きん出ていなくてはならない。 そして、抜きん出るためには抜きん出るための素質だけではなく、抜きん出る意志も必要なのだ。 しかし、将来の首長たるべき素質を備えた当人が、未だ抜きん出る前の時点で自らが抜きん出るべき人物だとどうして知ることができようか。 自覚と訓練を積んでいない素質は何の意味もなさない。 誰がどのようにして、その自覚と訓練を積むのか。 国民主権を憲法にうたう日本のような国では、つきつめれば一人ひとりが王道について思いをめぐらすしかない。 すべての人民が抜きん出る用意をしておくこと。 治めることの専門家としての王や帝に期待することはできないのだ。 王家の者としてのナウシカの誇りを、クシャナの悲しみを、すべての人民がわが身に引き受けるしかない。 はるか遠くを見つめながら、目の前のすべてを愛すこと。 誇りを持ちながら、汚物にまみれるのをいとわないこと。 人民の一人ひとりにそれほどのものを要求するのだとしたら、民主主義とは厳しいものだ。 しかし、自由はそこにしかないのだとしたら、自由を目指すものとしては腹を据えるしかない。 本当に? それこそすべての愚行の出発点ではないのか? 自由とは常に実現されないものであり、途上にあるからこその自由でもある。 なるほど、それだけの知性と精神力をそなえた者であれば、一生のあいだぐらいはその中間地帯で働きつづけることができるだろう。 しかし、人間とは臆病で怠惰なものである。 一人の人間の中での、崇高な意志と、臆病で怠惰な精神の出会い。 愚行とはそこから始まるのではないか。 王とは、強く賢く美しいものである。 俺は自分自身を王の素質だとは感じていない。 むしろ、そのような人物に仕えることを夢見ているような気がする。 どちらであろうと、運命が降り立つ日のために、誇りのもとに訓練を積む以外にやることはないのだが。 肥えて整った土に落ちなければ、種も発芽しない。 せいぜいセルムやクロトワあたり、もしもユパにまでなれるなら上々というところだろう。 本当に? 全部捨てる、という手はないだろうか。 あるかもしれないが、捨てるにも捨て方というものがある。
JUGEMテーマ:読書 これは俺が書いたのではないか、と信じそうになる本がたまにある。 『ジャック・ロンドン自伝的物語(マーティン・イーデン)』というのは、そんな一冊だった。 一人のワイルドな青年が啓蒙の光を受ける。 社会階層の狭間で、とびきりロマンチックな夢を見る。 やがて、その光が彼を苦しめる。 これを読んだ直後の、俺の感想。 「極度に情熱的な、これ以上ないほど胸高鳴る青春小説。「これは俺だ、これは俺のことだ!」と、100年前のサンフランシスコをまぎれもない俺が歩いていたことを知る。愛を至高の位置におき、美で世界を診断する。どうか彼を、俺を忘れないでおくれ。でも、幸か不幸かlife goes on。」 ジャック・ロンドンが一般に有名なのは、アラスカを舞台に犬を主役に据えた動物小説においてだ。 『野性の呼び声』と『白い牙』。 そうであるしかない掟の中で、いかに立ち回り生き延びるか。 しかも、ただ生き延びるだけでなく、尊厳を保ちながら。 今となっては素朴に感じるような社会進化論に彼は同調しながらも、個別具体的な人間たちの生活を忘れたことは決してない。 争い合って生き残るべきものが淘汰されていくことによって社会が進化していく、と簡単に言うほど非人間的ではない。 協調し、思いやり、共に働くこともまた、人間の生活を改善するのだということを熟知している。 彼のもう一つの有名な作品に、エドワード朝のロンドン貧民街のルポ、『どん底の人びと』がある。 ここにおいても、彼の愛情とユーモアに満ちた率直で忌憚のない観察眼と文章が活きている。 このような、情熱的で涼やかな男でありたいものだ。 この本を読むことによって、俺の原点の一つとも言えるような疑問を改めて思い出すこともできた。 その疑問とは、「これだけ文明が発展し生産力が上がってもなお、人びとがあくせく働き、幸福に満ちているように見えないのはなぜか?」というものだ。 好きなように生きていいだけの富を得ているような気がするのだけど。
(C) 2024 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.
|