This Is The One! - innocent -俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。
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JUGEMテーマ:恋の話
サイコーに素敵なことがおころうとしてる。 もしかしたら叩き落されてペシャンコにつぶれちゃうかもしれないけど。 こんなに怖いことって、たぶん他には無い。 何がそんなに怖いんだろうって考える。 たぶん、こんなにも執着するほど譲れないものなんて、他に無いからだ。 ここで失敗したら、俺が生まれてから今までやってきたことなんて、何も無かったのと同じことだ。 自分のやったことが無駄になることを恐れる人を、俺は笑い飛ばしてきた。 誰にとっても何も残らなかったとしても、お前の中に何かが残ったのならよかったじゃないかと。 それでもやっぱり、自分の番になってみると、それはやっぱり怖い。 どんなふうに自分をなだめすかしても、怖い。 また別のやり方で一から挑戦できるなんて、とても幸せなことじゃないか。 失敗できたのなら、何もできなかった今までの俺よりは少しはマシだよ。 冗談にして一緒に笑い飛ばしてくれる友達だっているさ。 どんなふうになだめすかしても、土台までペシャンコにされて「自分」が徹底的に崩れてしまうのは、やはり怖い。 あの人は、俺という人格の本当に土台に近い部分に位置しているのだろう。 今の俺でいることに俺が感謝するなら、俺はあの人にも感謝することになる。 彼女は俺の何だ? She's my inspiration. She's my dream. She start my story.
JUGEMテーマ:今日の出来事 俺のバイト先はだだっ広いのだが、その入り口に大きな一匹の熊のぬいぐるみが置いてある。 どうという目的もなく、なんとなく子供の興味をひくためのものだ。 それもひっそりと置いてあるので、めったに子供が興味を示すこともない。 今日はめずらしく、10歳足らずの一人の女の子がずいぶんそれを気に入いったらしい。 行きも帰りも時間が許す限り、そのぬいぐるみを両手で抱えていた。 それが日中のことだ。 日が暮れて、バイト先の客のにぎわいもなくなったころ、手持ち無沙汰の同僚(40歳・男性)があたりを見回りながら何かと整理したりしていた。 普段は整頓されて一列に並んでいる椅子が、熊のぬいぐるみのところだけ乱れていた。 女の子が熊のぬいぐるみに手を伸ばしたり戻したりしたときに、乱れたのだろう。 椅子が乱れることなど珍しくもないし、その理由など特には考えない。 同僚は別にどうということもなく、流れの中で椅子を整頓して次の作業に移っていった。 俺はそれを見ていて、いくつかのことを思った。 こうして、あの女の子が熊のぬいぐるみと出会い、戯れたことの痕跡は消える。 それはめったに誰にも気づかれないこととはいえ、たまたま気づいた俺にとってみればいくらか寂しい気持ちのすることだ。 時間が流れ、痕跡が消え、「事実」そのものと「記憶」以外には、女の子とぬいぐるみの出会いは何も残さない。 しかし一方で、あのように一列に並んで整頓された椅子がなければ、女の子とぬいぐるみは痕跡を残すことができなかった。 その意味で、あのように整頓することとは、前の痕跡を消すことであると同時に、次の何かを迎え入れるための準備でもあるのだ。 痕跡は堆積しない。 乱れた椅子を、次の何かがまた乱しても、その状態に変化は生まれないのだから痕跡は残されないことになる。 キズでいっぱいの壁に名前を刻んでも、何も意味しないキズが増えるだけだから、まずは壁をまっさらに滑らかにしなければならない。 みんなからの賞賛と尊敬と栄光を集めるためには、いつかどこかにもっとすごいやつがいたんじゃないか、なんてことはみんなに忘れさせなきゃならない。 自分がどこかから来てどこかへ行くのだとは考えもしなかった幼き日、自分の前にも後にもまったく同じようにこの世界を通り抜けていく人たちがいるなんて知るはずもなかった。 4つ上の姉を見ながら、こう考えていた。 「こんなに大きい姉とその同級生たちは今、小学校1年生だ。去年も同じように大きくて、保育園の年長組だった。しかし、今年の年長は、姉たちが年長だったときに比べて小さいように思える。おととしは、姉たちはやはりこんなに大きいままに保育園の年中組だった。ところが、今年の年中は当時の姉たちに比べてずいぶん小さいように思える。今年の年長が年中だったときよりもさらに小さい。」 そして、ついに自分が小学校1年生になったとき、こんなふうに驚くのだ。 「どうしたことだ。俺はもう1年生なのに、まだこんなに小さい。4年前に姉たちが1年生だったときは、もっとずっと大きかったはずなのに、こちらときたら一向に前に進む気配がない。俺たちだけでなく、今年の年長組ときたら、俺たちよりもさらに小さいときてる。来年に小学校に上がったとしても、あいつらならばきっとまだ小さいままだろう。こんな調子では、いつか人間たちはどんどん小さくなって、この世界から大人というやつはいなくなっちまう。」 そんなことを考えていた俺はまだ、相対性というものを知らなかった。 自分を客観視するということを知らなかったから、自分が4年前よりもずいぶん大きくなっているということを知るはずもなかった。 自分が大きくなっていることを考慮に入れなければ、同学年や年下の連中もまた大きくなっているということに気づけるはずもなかった。 そして今、客観的に「大人」と言われる年齢になって、周囲の人間がまだ「小さい」ことに驚きもする。 職場の同僚や上司たち、30、40、50代の連中を見て、子供の時分から何一つ変わっていないのだろうと思える彼ら彼女らの姿を見ることができる。 誰もがいくつかのことを覚えたり忘れたりしながら、本当の意味では誰も大きくも小さくもならないのだろうと、俺はしばしば感じるのだ。 今日の夜、そろそろ帰りのことなど考えるころ、さきほど椅子を整頓していたあの40歳の彼のもとに一つの知らせが届いた。 彼の妻の父が倒れたそうだ。 彼が帰るころには、その知らせは、彼の妻の父が死んだことを伝えるものになっていた。 また一つの魂がこの世を通り過ぎ、去っていった。 彼が椅子を整頓していたのと同じように、彼の妻の父の葬儀が行われ、この世の中の狭いその場所は整頓される。 彼の帰り際のあわただしいバタバタの中で、俺と彼はお互いへの思いやりを示し、俺は生まれて初めて40代の友人を得るかもしれないという可能性のとっかかりを見つけていた。 俺がこの世からいなくなれば、後から来た連中は自分たちのやっていることをおもしろがれる。 少なくとも始めのうちぐらいは、この土地にいるのは自分たちが初めてなんだと信じ込むことができる。 俺とまったく同じことをしているのだとしても、そんなことは知らずにすむ。 そんなことはとっくに俺が上手いこと言っていたかもしれない、なんてことを不安に思ったりせず、誰も気づいてない真理を自分で新しく発見して言葉にしたと大声で主張することができる。 どれもこれも、俺の痕跡がこの世からきれいさっぱり消えているからこそ。 そうであったとしても、女の子とぬいぐるみの出会いは、他の誰や何がどうなろうと永遠にあの女の子のものだ。 その思いだけが、俺の魂をなぐさめる。 俺の出会いは、俺よりも前のやつがどうだろうと後のやつがどうだろうと、俺だけのものだ。 比べてみよう、とか、取っ替えてみよう、なんて言うヤツがいたとしても、俺は鼻にもかけない。 だって俺以外の誰にも、何もひとつもわかるはずがないんだから。 伝えようったって伝わらないし、伝えようとも思わない。 ただ一人、話がつうじるやつがいるとすれば、その出会いを分け合ったあの相手だけだろう。 女の子にとってみれば、あの熊のぬいぐるみだけ。 その、言葉にならない出会いだけが、魂をなぐさめる。
JUGEMテーマ:社会の出来事 いじめられている君へ。 もし、何もかも捨てようとしているのなら、君は正しい。 どちらを向いても思い上がったバカで満ちあふれてる、こんなくだらない世の中に付き合ってやる必要はない。 ただし、捨てる方法は一つじゃない。 つまり、俺が言ってるのは、いっそ死んじまう以外にも方法はあるということだ。 この世の中で生きていくためには強くある必要がある。 これは本当だ。 ただし、俺が言っている強さというのは、君が思っているのとは違う意味かもしれない。 いじめられて、こんなことにいつまでも付き合わされる理由もわからなくて、死んじまおうとしているのなら、君は弱い。 だけど、その弱さは必ずしも君のせいばかりでもない。 強くなる方法は、大人から学ぶものだから。 もし君が弱いのなら、今まで何も教えてこなかった周囲の大人たちにも責任がある。 俺が察するに、君がどんなに辛い境遇にあろうとも、周囲の大人たちが言うのは(あるいは、言わなくても心で思っているのは)こんなことじゃないかと思う。 「耐えろ。いつか過ぎ去る。」 俺の知る限り、こういう徹底的にくだらないことしか言えない大人は少なくない。 しかもこういう大人の絶望的なところは、“言わない”んじゃなくて、本当に“言えない”ということだ。 他に何を言えばいいのかわからないんだ。 「いつか」とは、いったいいつのことなのだろう。 もし、生命の危機に瀕するぐらいの窮状で、「耐える」こと以外の何もしないのだとしたら、生命とはいったい何なのだろう。 生まれて、生きることとは、つまるところ、ひたすらに耐えながら死を待つことでしかないのだろうか。 そうだとしたら、自分からさっさと今死んでしまっても同じことだというのは、確かによくわかる理屈だ。 しかし、生命とは死の“あいだ”の微妙なバランスの揺らぎなのだとしたら、生命は死とせめぎ合うものであるはずだ。 生命は、「死ぬこと」ではなく、やはり「生きること」に運動の根拠を置くのではないのだろうか。 そして「生きること」に一歩を踏み出すために何らかの行動をとるとしたら、それはいつなのだろう。 いつか、それに最もふさわしいときが来るのだろうか。 来るのかどうか、それはいつなのか、誰にそんなことがわかるというのだろう。 先生や大人たちはそんなことを教えてくれるだろうか。 俺が思うに、強さというのは、目をそらすことなく現状を奥底まで見きわめて、それに対応する方法を考え出すことができるということだ。 この観点から言えば、「黙って耐えろ」としか言うことのできない大人たちというのは、ずいぶん弱いということになる。 生まれたときからずっとこんな大人たちに囲まれていたら、君が弱いのも当然だね。 もし君が強くなりたいのなら、そんな大人たちに期待しないで、自分で自分の面倒をみる必要がある。 今、いじめれている君は、どこにも逃げ場がないと感じているかもしれない。 教室にいれば言わずもがなだし、学校の他の場所にいることもできないし、家にいるわけにもいかないし、他に行けそうなところなどない。 いっそとんでもなく遠くに行ってしまえばいいじゃないか、と言う人もいるかもしれないが、そんな見知らぬところで生きていけるほど君が強いとも思えない。 しかし、それでもそうした指摘に少しの正しさがあるのは、君はとてつもなく狭いところしか見えていないということだ。 俺は別に世界中の出来事に目を向けろ、とか言ってるわけではない。 今君が生きている周囲の世界を見渡せば、もう少し別のものを見ることもできる、ということを言っている。 現状を打破するために、君はもう打つ手がないと思っているかもしれない。 しかし、君はどんな手を考えただろうか。 たとえば、いじめっこに対抗して殴り返す。 なるほど、正々堂々とした良い手だ。 根性を見せれば、君も一目置かれて、仲良くならないにしても尊重して放っとかれるぐらいの存在にはなれるかもしれない。 たとえば、誰か味方を見つける。 これも良い手だ。 今の自分は心の底から苦しんでいるんだ、ということを伝えられれば、君に味方してくれる人は必ずいるだろう。 それは同じクラスや違うクラス、違う学年や先生や学校関係者の誰かかもしれない。 そういう人を一人でも見つけることができれば、世界はまったく違って見えてくるだろう。 しかしまぁ、こういったまともな方法は上手くいかないんだろうと思う。 なにせ、それができるのなら、もっと早くやっていただろうし、今だって考えるまでもなくやっていることだろう。 つまり、そもそもこういう手だてができるのなら、君は弱くなかったということになる。 現状を見つめなければならない。 君は弱い。 君の弱さというのは、こういう正攻法の手だてを打てないということだけじゃない。 この程度の手だてしか思いつかないということも、また弱さだ。 もっと奥まで君は見通す必要がある。 物事を見通すためには、筋トレも読書も必要ない。 ただ、徹底的に考えるんだ。 考えて考えて、いじめっこや大人たちには見えていない(あるいは見ようとしない)ものを見たとき、君は現状を打破できるかもしれない。 まぁそうは言っても、結局のところ君は弱いんだから、何も思いつかないだろう。 そこで、今回の窮状を乗り切るために、俺が特別に手だてを教えてあげよう。 つまり、本来は君が考えるべきだったところを俺が代わりに考えてやるということだ。 ここまでは前置きで、ここからが注目だ。 本来は君の周囲の大人が教えるべきことなんだけど、世の中には軟弱な大人ばかりだから、代わりに俺が、強くなるってことがどういうことなのか教えてあげよう。 いじめっこは確かに君よりも強い。 ただし、それはある程度の条件がそろった中でのことにすぎない。 だから、君はその条件の範囲内にいるかぎり絶対にやつらに勝つことができないのだが、条件の外に出てみたら違う結果になるかもしれない。 だけど、君は弱く無知なので、いったい何がその条件であって、どうすればそこから外れることができるのかもわからないんだ。 しかしまぁ、思いついてしまえば簡単なことで、君の頭の中にある常識や既成概念の枠組みを、一度とっぱらってしまえばいい。 今のところ、常識や道徳が君の現状を変えるのに役にたったためしはないんだから。 さて、いじめっこや大人たちも、本人が考えている以上に常識や既成概念にとらわれているので、ここを揺さぶられるとけっこうビビる。 人には、なんの根拠もないのに、ここは安全だろうと考えているところがあるものだ。 ここまで読んで、何か思いついただろうか。 この助言を踏まえたうえで、もう一度徹底的に考えてみてほしい。 もし本当に何でもやっていいのだとしたら、君は何をするだろうか。 それでもまだ何も思いつかない、弱っちい君のために、具体的な方法まで俺が代わりに考えてあげよう。 俺が中学生で、毎日学校で身も心もボロボロになるまで痛めつけられていたとしたら、どうするか。 俺なら、夜中にそいつらの家にレンガを投げ込む。 それがいったい何になるんだ、と思うかもしれない。 しかし、考えてほしい。 日本の一般家庭において、夜に寝ている間は何事も起こらないだろうという前提を意外とすんなり受け入れているはずだ。 つまり、油断しきっている。 夜中に家の中にレンガが放り込まれると仮定してみてほしい。 誰もおちおち寝ていられないだろう。 この恐怖を相手に与えれば、寝不足で憔悴すること間違いなし。 しかも、君はこれを隠れてコソコソやる必要はない。 堂々と名乗り出ながらやるべきだ。 なんだったら目立つようにレンガに名前を書いておいてもいい。 なぜかというと、相手をビビらせると同時に、自分の置かれている窮状を周囲の人たちにアピールするためだ。 いじめの腹いせにレンガを放り込むというのは、なんだか陰湿な行いだと感じる人がいるかもしれない。 そんな人を前もって制すために前もって堂々とした態度を示しておくんだ。 覚えておいてほしいのは、人の判断というのは物事の正しさよりも雰囲気で決まるということだ。 なるほど、油断しきっている人の家にレンガを投げ込むのは、正しいことではない。 だけど、そうするにいたった経緯を知ってもらえれば、いくらかの同情を集めることができて、君の犯罪は見過ごされるかもしれない。 この世で必ず正義が行われるなら、そもそも君はいじめられていなかっただろうということは、君もよく知るところだ。 だから、君は堂々と、自分がこれらの家にレンガを投げ込んだのはこういうわけで、本当は自分だってこんなことはやりたくはないのだが、これに至るまでに自分がどれほど苦しみ追い込まれたか、ということをアピールする。 そうすれば、話を聞いてくれる人は意外といるものだ。 なんだったら、警察に連行された上で取調室であらいざらいぶちまけるのもいい。 法律の適用というのは、おそらく君が思っている以上に幅があって、犯罪をおかしたらその背景と無関係に所与の罰が必ずくだされる、というわけではない。 それにまぁ、最悪のシナリオとして、レンガを投げ込んでも誰も君のことを相手にしなかったとしても、次にいじめらそうになったときには「家にレンガぶち込むぞ」と脅すことぐらいはできる。 それを言う勇気もなかったら、いじめられるたびに問答無用で毎日ぶち込めばいい。 イカれた人間というのは、多くの平和な人間にとって恐ろしいものだ。 さて、ここまでやってみると、君は見えている世界が違っていることに気付くだろう。 誰かの家にレンガを投げ込みながら、それでやっとこさ学校に行くというのはバカバカしくないだろうか。 やっと平和に学校に行けるという段階になってみると、君は意外と学校に行く気もなくなってるかもしれない。 どうしてなのか。 常識のカーテンを一枚めくったからだ。 がんじがらめでどこにも逃げ場がないと思っていた現実も、一枚めくってみるだけで全然違って見えてくる。 学校なんて、誰かの家にレンガぶち込んでまでして行くところでもないとしたら、そもそも大して友達になりたいとも思わない連中にいじめられてまでして行くところでもないのだ。 もし君が本当にレンガを投げ込んだのだとしたら、「耐えなさい」としか言えなかった(あるいは何も言うことができなかった)くだらない大人たちよりも強いということになる。 学校なんて大した価値はないし、大人は意外と馬鹿で弱いし、大人のミニチュアのいじめっこたちはもっと馬鹿で弱い。 一度強くなってしまった君は、そんなやつらの相手をする気もなくなっているかもしれない。 勘違いしないでほしいのは、レンガを投げ込んだから君が強いのではなくて、その手だてを考えられるアタマを持っているから君は強いということだ。 いつでも一歩外へ出て考えることができれば、君は強くなれる。 そしてまぁ、俺ぐらいになると、いつでもそうやって穏やかに人と付き合うので、そもそもいじめられるなんてことはないけどね。 一つだけ、常識的な助言をしておくなら、ずっと気を張って強くいつづけるのは疲れるので、大学を卒業したりするとそれに寄っかかってラクができるんだけどね。 ま、そんなのは君が強くなってしまえばどうでもいいことだから、精進したまえ。 さて、ここまでで一区切り。 ここから先にもう一つだけ、役に立つことを書いておこう。 君がいじめられていようとなかろうと、レンガを投げ込もうとなかろうと、中学生ならばここから何かを学べるかもしれない。 あるいは、すっかり歳をくった大人であっても、中学生よりも特段に賢いとは言えない人であれば、何かを学べるかもしれない。 わざわざこんなことを言うのも、大学を出たとかいうことぐらいで自分が中学生よりも賢いと無邪気に信じ込んでいる人が世の中にはいることを俺は知っているからなのだが。 その理屈で言えば、大学に7年も通っている俺はずいぶん賢いということになる。 ここで俺が言っておきたいのは、「レンガを投げ込む」という方法について。 実は、この方法は、気に入らない相手を参らせるためにアメリカの田舎で伝統的に行われている方法だ。 日本のヤクザが玄関の扉に2発の銃弾を撃ち込むようなケチくさい脅しに比べれば、いくらか気分がスカッとするやり方だと言えるだろう。 この習慣がもっとも華々しく行われたのは、公民権運動下の南部でのことだ。 当時、黒人の集会を開いた牧師の家だとか、黒人の立場を擁護するようなことを口走ってしまった白人の家があれば、その機会を逃すことなく必ずレンガが投げ込まれた。 地域によっては悪ノリが過ぎたのか、火炎瓶を投げ込んだところもあったが、これは伝統的なやり方に反する侮辱的な行いだ。 馬にまたがりながら、遠心力を上手く使って景気よくレンガを飛ばしてガラスをぶち破るのは、この上なく男らしい行為だった。 念のため、いじめられている中学生に言っておくべきことがあるかもしれない。 君が野球部にでも入って肩を鍛えていない限り、レンガを塀の外から投げるのはおすすめしない。 たしかにそのほうが威勢がよくて気分も高まりそうだが、レンガを投げるのは意外と難しいので、万が一ガラスをはずして家の壁にでも当ててしまったらとてもみじめな気分になる。 どうせガラスをぶち破るという失礼をはたらくのだから、敷地に侵入するぐらいの失礼は気にせずに門から堂々と入ろう。 上に書いた公民権運動当時の話を読んで、君は何かを思ったかもしれない。 そう、当時の南部の黒人は、今の君と同じだね。 より強いほうが寄ってたかって弱いほうを攻撃する。 しかも、あらゆる反撃の可能性を封じたうえで。 アメリカの黒人(今では「アフリカ系アメリカ人」と呼ぶことになっているが、なんだかお仕着せっぽく響く)たちが当時の窮状からともかく脱することができたのは、「世論」が彼らに味方したからだ。 東部や北部の白人や黒人や、そのほかの世界中にいる多くの人々が、そんなことはすべきじゃないと考えて、そう言った。 ところが今の君ときたら、世論どころか、味方は一人もいない状態だ。 クラスメイトも先生や職員たちも、親や保護者達も、誰も何かを言ったりやったりしてはくれないね。 何しろ君をいじめているやつらは、当時の威勢のいい白人たちと同じで、君をいじめることで男を(女を)上げてる。 そんなふうに威勢のいいやつらの勢いに逆らうってのは、世の中を渡っていくうえで賢いこととはとても言えない。 そんなに自信にあふれたやつらがやってることならば、まぁきっと間違いはないんだろうってことにしておくのが、世間ってもんだ。 そういうわけで、君の味方はいないし、これからも放っておいたら増えないだろう。 他の誰も君のことを考えて何かを言ったりはしてくれないんだとしたら、君が何かを言うしかない。 自分で言わなきゃいけないんだから、君は強くなければいけない。 だけどまぁ今の君が弱いことぐらいは先刻承知なので、ここで俺が伝えたいのは、その「言い方」のことだ。 俺が「レンガ投げ」をすすめたのは、それが効果的だからというだけじゃない。 先生や大人たちに「いったいなんでそんなことをやったんだ?!」と問い詰められたときに、「レンガ投げ」の歴史を知っていれば君はいろいろと言うことができるんだ。 「いいですか、先生はご存じないかもしれませんが、家にレンガを投げ込むというのは、誰かに対する不満を表明するための伝統的な行為です。えぇ、もちろん日本に伝統的だと言うつもりはありません。それはアメリカ(わけてもそれは南部から西部地方のことなのですが)に伝統的な行為です。えぇ、日本では馴染みの薄い行為を勝手に輸入したことは謝ります。しかしいかなる文化も、そのルーツは外部との交流にたどることができ、そしてそれが持ち込まれた直後にはとても刺激的に感じられたものです。僕が日ごろの窮状を打破し、鬱積した不満を表明するために今回このような手段を選んだのは他でもありません、公民権運動当時の黒人たちが置かれた状況に非常に強いシンパシーを感じているからなんです。当時、200年にわたる借金を清算するために、毎晩家にレンガを投げ込まれるべきは誰だったのでしょうか。もちろん、200年の頸木を解き放とうとしない白人たちのほうです。ところが、実際に行われたのはその逆、やっと芽生え始めた正義の萌芽を前に、あくどくて強いほうが、正しくて弱いほうを痛めつけたのです。当時の白人たちがもう少し誇りを持っていて、先祖を敬う気持ちがあったなら、レンガを投げるよりも、決闘っていう手段を選んだんじゃないかと僕は思うんです。アメリカにおいて正々堂々と不満を解消する方法と言えば、本当の伝統的にはそうするべきだったんですから。ところが、彼らは新しくて手っ取り早いほうに飛びついてしまった。あのときに、黒人と白人の決闘が行われていたとしたら、それはどんな見ものだったんだろうって僕はよく考えましたよ。そんなふうな正々堂々とした決闘と違って、一方的に力を誇示して不満を表明する方法がもしあるのなら、それは正しくて弱いものに属するべきだと僕は思う。いや、条件をもっと緩和してもいい。正しいかどうかは問わないにしても、弱いものがそれを行使すべきだと僕は思う。家にレンガを投げ込むというのは効果的な手段だと僕は思いました。それは確かに卑怯な行為です。だけど、今の僕のように追いつめられて他に逃げ場もない弱い立場の者が行うなら、その罪も少しは軽くなるのではないかと思ったんです。だって、それより他にとりうる手段は何もなく、卑怯な行いをあきらめて正しくあろうとすれば、僕はもう生きていくことはできなかったんですから。先生は僕が死んだほうがよかったと、平和な家の窓ガラスが破られるぐらいなら僕が死んだほうがよかったとそうおっしゃるわけではありませんよね。もしそうだとしたら、えぇ、もう何も言いません。授業中の学校に爆弾をしかけて僕も死ぬことにします。心配しないでください、誰と何にいくらの保険がかけられているかを調べた上で、僕の倫理観に照らし合わせて少なすぎると感じる分は現金で置いておきますから。そうすれば物事の調和が保たれるってもんですよね。もちろん、僕が死んでも誰も気にしない世の中で、こんなケチな学校一つが中にいる人間ごと吹き飛んだところで、誰かが嘆くとも思わないですし、保険なんか誰もかけてないんじゃないかって思うんですけど。まぁ実際にそれをやれるかどうかは別の問題として措くにしても、今の僕としてはもしそれが可能ならぜひやりたいっていう気持ちなんです。僕がレンガを手にした気持ちをおわかりいただけたでしょうか。わかっていただけないとしても、僕としてはもはや一向かまわないんですけど。」 とまぁこれぐらいまでしゃべれば、話している内容の是非なんかは問わずに無罪になることは間違いない。 何しろ先生にしてみれば、とにかくあわてちまって何がわかるって言えば、コイツはただものじゃないってことだけがハッキリとわかるだけなんだから。 そうすると先生の頭の中で電卓がはじかれて、この比類なきイカれバイオレンス小僧を野放しにしておくよりかは、見慣れた悪ガキのいじめっこ共を呼び出してとっちめたほうが面倒は少ないっていう結論になる。 家の窓ガラスを割られた両親がピーピー騒ぐようなら、先生も何かの対応をするだろう。 先生が弱っちいやつで、いじめっこの両親に負けそうになっていたら、仕方がないから君が出向いて同じ演説をぶってやるしかない。 「これ以上騒ぎつづけると寝不足で仕事をクビになるか、さもなけりゃ新しく家を買って引っ越すはめになるぜ。ガラス一枚で勘弁してもらったことに感謝しておとなしく引っ込んでたほうが身のためなんじゃねぇのか。」って。 結局、世の中で役に立つ弁舌ってものは、いかに道理がとおっているかってことよりも、どれだけのハクを見せられるかっていうことなんだ。 なにせ、世の中には頭の弱いバカが満ち溢れてるんだから、これは当然だ。 そんなハクを見せるのにも、「レンガ投げ」ってのは効果的だと俺は思う。 こんな立派な弁舌をぶつためには、君は明日から毎日でも勉強しなきゃならないんだけど、今のところの君は弱っちいから、この記事にあるのをそのまま使っていい。 いじめられっこの君、いいブログを見つけたね。
なぁ坊っちゃん。 こんなとき、ただ聞いてるだけじゃダメなんだぜ。 「早く過ぎ去らないかなー」なんて思いながら聞き流したらダメだ。 “なんで俺がわざわざこんなことを言ってるのか”ってことを考えながら聞けよ。 言わなくてそれで済むことなら俺だって言わねぇんだ。 俺が今言ってるのは「それはやめとけ」ってことだ。 理由は簡単なんだぜ。 「お前の身が危険だから」だ。 坊っちゃん、まだ女とキスもしたことねぇのに死にたくはねぇだろ。 そんなんじゃあ“人生”ってもんを味わったことにはならねぇよ。 お前に考えてもらいたいのは“なんで俺がわざわざこんなことを言ってるのか”ってことだ。 答えは二つある。 一つでもいいからわかるか? 「お前だって死にてぇわけじゃねぇだろうと思うから」。 これが一つだ。 俺の親切心ってことだな。 実際のところ、かまわねぇんだぜ。 お前が死んだところで俺は困らねぇし悲しくもねぇんだ。 なのに、俺はお前のことを勝手に“思いやって”言ってやってるんだ。 そのことに気づいたら、お前だって少しは感謝するぐらいのもんじゃねぇかと思うんだけどな。 ありがたいとも思わねぇってんなら、どうぞ勝手にしたらいいよ。 「お前にここで死なれると困るから」 これがもう一つだ。 坊っちゃん、俺にも仕事や生活ってもんがあるんだ。 お前にここで死なれてみろ、俺の仕事は台無しだろうが。 お前がどうなろうとかまわねぇが、これは俺のために言ってんだ。 俺を困らせたくてやってるのか? ただ何も知らなかっただけなんじゃねぇかって俺は思ってるんだけどな。 お前だって俺のことを少しは“思いやって”くれるんじゃねぇかと思ってるんだぜ。 だけど「知ったこっちゃねぇ」ってこともあるよな。 そしたら俺にだって手がないわけじゃねぇんだぜ。 そんなときの準備ぐらいはしてあるんだ。 そのときにはお互いに厄介なことになるってことぐらいは知っといたほうがいいぜ。 さぁ坊っちゃん、わかってくれたかい? お前には頭も心もあるって俺は思ってるんだけどな。 賢くて優しい子なら、こんなときわかってくれるもんだ。 それでもまだどうしても「やる」ってんなら坊っちゃん、方法は二つだぜ。 俺を説得するか、張り倒すか。 “今のままで俺がわかってくれる”なんてことを期待しちゃいけねぇよ。 そんなふうだったらどうやって“世の中のバランス”ってもんがとれるんだい? お互いに“思いやって”いこうや。 ここはお前のもんじゃねぇんだぜ。
JUGEMテーマ:日記・一般 今日、図書館の窓際の席に座り本を読もうとした。 すると、窓にはまあまあの大きさの黒い蜂がとまっていた。 そこそこの迫力をもった攻撃的な昆虫を間近にしながら平気で本に集中できるほど俺の神経は太くない。 窓を少しだけ開けて、蜂が出ていくのを待つことにした。 蜂は窓をはい回り、外に出ていく方法や道を探しているように見えた。 窓は透明だから外の景色は確かに見えるのに、そこへ出ていくことができないというのは、蜂にとっては混乱をまねく事態だっただろう。 蜂は窓の全体をはい回るのだが、窓の縁まで行くと必ず引き返してしまう。 窓の縁が一段高くなっていて、そこを乗り越えないと外へは出られないのだが、蜂にはそれがわからないのだ。 一度などは、縁に上ってみるところまでたどり着いたのに、すぐに引き返してしまった。 蜂と俺は、立場も視点も違って、見えているものが違っていた。 引いたところから全体を見ることのできる俺から見れば、蜂が求めるものにたどり着く方法は明らかだった。 窓の縁に上り、その先に進んで飛び立てばいいのである。 しかし、一段高くなった縁に囲まれた窓をはい回る蜂にしてみれば、それを見ることができないのだ。 どうすれば外へ出られるのか。 そもそも出ることは可能なのか。 答えを知ることのできない問いを問い続けながら、とにかく何かをやってみる以外に何もない。 結局、蜂はいつまでも窓を周回していて、俺はあきらめて別の席へと移った。 無知。 どんな生命にとっても、無知は根本的な条件だ。 自分のおかれた状況を理解しようと懸命に努力するが、理解にはいつも限界がある。 まして未来のこととなれば、数秒先の生死のことすら知ることはできない。 俺の気分が少し残酷であれば、蜂を叩き殺してから本に集中していたかもしれない。 蜂にとっては、これまで育ってきた中で培ってきたどんな能力をもってしても予測することのできなかった、まったく意外な死。 もしかしたら、蜂は来月に結婚式を控えていたかもしれない、ずっと求めていた海外事業所のポストに就ける辞令を受け取ったばかりだったかもしれない、生涯をささげた研究の成果がやっと出始めていたところかもしれない。 そんなことにはまったく思いをめぐらすこともなく、俺は蜂を叩き殺す。 無知は人間にとっても根本的な条件だ。 人は自分の運命を知らない。 運命を語ることができるのは優れた予言者のみだが、予言はしばしば語られる意味を持たない。 語られたところで、誰も聞かないからだ。 そして確かに、聞く意味などないのだ。 運命をあらかじめ知っていたところで何になるというのだろう。 先日紹介した、T-ARAの「Lovey-Dovey」の日本語バージョンのビデオを見ながら、俺は運命について考えていた。 俺はいつか結婚するかもしれない。 それはありうることだ。 しかし、その相手とどうやって出会うのだろう。 たとえば、T-ARAの誰かと俺が結婚すると仮定する。 この仮定があながち的外れでないのは、つまり現実世界においても元始の時点において候補は複数人いて、結婚することになるのはそのうちのただ一人というところだ。 もっともありそうなのはこんなシナリオ。 俺が欲しいのはウンジョンちゃんかキュリちゃんのどちらか。 だけど、実際に結婚することになるのはソヨン。 どうしてそうなったかというと、もともと俺はウンジョンかキュリのどちらかと仲良くなりたかったのだが、いきなりしゃべるのは緊張するので、まずはソヨンあたりと気軽にしゃべっていたのだ。 ソヨンと仲良くなれば、ソヨンの友達ということで彼女たちのコミュニティに入れるし、ウンジョンやキュリの好きな話題の傾向もつかめるだろうという魂胆もありながら。 そうこうしてるうちに、彼女たちの中で俺とソヨンは気が合うらしいみたいな空気が出来上がってくる。 良心的な女性の感覚として、自分の友達とイイ雰囲気になっている男は自分の恋愛対象から外れる。 つまり、俺はウンジョンとキュリやその他のT-ARAのメンバーの恋愛対象から外れる。 こうなってくると、俺の選択肢はソヨン以外になくなる上に、ソヨンもけっこうかわいくていい奴だということがわかってくる。 で、いつか結婚。 俺がもともと求めていたウンジョンとキュリとは、自分の妻の親友という間柄に終生とどまることになる。 もちろん、現実には候補の女性は7人しかいないわけではない。 ここで一番欲しい女にたどりつけなかったのなら、他の場所でまた試してみることはできる。 しかし、こういう考え方をしている人は幸福にはなれない。 なぜなら、女性は数字や記号ではなく、人間だから。 誰しもが結局は出会える人としか出会えないのだが、出会った相手を人間として扱うことで、相手を無視できなくなり、人生が始まる。 出会った人を数字や記号として扱っていると、いつまでも数字と記号だけを追うことになり、結局のところ何も見てはいないので、人生は始まらない。 人生とは、始まったところから始めてみるしかない。 何かやってみなければ何もやることがないのである。 そうであったとしても、俺が驚くのは、T-ARAの7人のところに飛び込んでいくときの俺の無知さなのだ。 自分の運命について、何一つ知らない。 そもそも7人がどんな女性たちかということすら何も知らないのだ。 ウンジョンがどんな人でキュリがどんな人でソヨンがどんな人なのか、何も知らないままに、始めにウンジョンとキュリを求めたのはほとんど根拠の無い直感にすぎない。 ディズニー的世界観で「運命の人」との出会いを夢見る少女は、運命があらかじめ決まっているかのような語りをする。 ウンジョンとキュリを求めて飛び込み、ソヨンと結婚したとしたら、俺はとんだ道化ではないか。 飛び込む前の俺にインタビューして、「7人のうちのだれが運命の相手だと思いますか?」と質問したら、ウンジョンとキュリのどちらだろうかと決めかねたに違いない。 ところが実際にはソヨンなのだ。 しかしこれは我々がシナリオを知っているから言えるのであって、このタイプの運命というのは結局のところ事後的に決定されるのだ。 俺はソヨンと結婚したから、俺の運命の相手はソヨン。 トートロジーであって、これならば何も言わなくても同じことではないのだろうか。 もし運命が直感にこそ宿るとしたら、俺の本当の運命の相手はウンジョンかキュリだったかもしれないのだ。 俺は本当の運命をつかみそこねて、運命じゃない相手と結婚してしまったのかもしれない。 この疑いが正しいか誤っているかを確かめる術はまったく無い。 自分以外の視点から何かを眺めるということは不可能なのである。 人はまったくもって無知なので、選べるのは現在にどんな味付けをするか、ということぐらいなのである。
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