This Is The One! - innocent -俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。
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美人は注目を受けることに慣れているので、注目を受けながらも気づいてないかのように振る舞い、その状況を楽しむことができる。 なかでも生粋の美人は注目を受けることに飽き飽きしているので、注目を受けると目を伏せて拒絶する。 生粋の美人でありながら、注目を受けることにいつまでも決して飽きることのない人は? 乾くことのない虚栄心の持ち主なのだとしたら、誰からも敬意を払われるべきビッチになれる。 いつまでも世事に心を煩わされることのない少女のままでいられる人なのだとしたら、この世の人々のやり取りのなかでもっとも高貴な一群に属することになる。 そういう高貴な美人は、慨してひどく少数なので、この世に芸術が生まれることになる。 この世のすべての人間が貴族になることは決してなく(美人に注目する目の数もまた限られている)、芸術家は貴族に仕えるということと、同じ構図である。 もちろん、自らが仕える貴族をある程度選ぶ芸術家はいるかもしれないが。 人間は糊口をしのがなくてはならない。 芸術家はインスピレーションを見つけなければならない。 そして、この世の資源は限られている。 もしこの世が人畜無害で理想的な味と栄養の食物で満ち溢れていたとしたら? もしこの世の誰もが究極の異性を手に入れることができるとしたら? そこに生物はいないだろう。
JUGEMテーマ:夏フェス総合 初めて、夏フェスあるいはロックフェスティバルというものに参加してきた。 参加する前のテンションはマックス。 クルマに乗り込んで出発する直前に写真を撮ってフェイスブックに上げていたとすれば、おそらくこんなコメントを付けていたはずだ。 「これから愛車のダイハツハイゼットフルノーマルでレインボーブリッジをセメまくりの、そのままサマソニにぶち込み参戦だ!!! Musashino発のice coldな俺たちが真夏のTokyoとChibaを駆け抜けてfreezing outしてやるぜー!!」 さて、参加前にはスケジュールをいろいろ悩んでタイムテーブルとにらめっこしていたものの、結果的に見たのは以下のライブ。 時系列に、 Stroboy (Sonic Stage 「出れんの?! サマソニ?!」 winner) きゃりーぱみゅぱみゅ (Sonic Stage) Grouplove (Marine Stage) St. Vincent (Sonic Stage) Passion Pit (Mountain Stage) Death Cab for Cutie (Mountain Stage) Nelly Furtado (Sonic Stage) Sigur Ros (Mountain Stage) 気合が入りすぎて朝の8時に到着した俺たちは、リストバンドをもらってのんびり歩きながら、会場を見てまわる。 9時になると会場の扉が開くらしく、人々が扉の前に列をなしているので、俺たちもきゃりーぱみゅぱみゅを見るためにSonic Stageの扉の前に座り込んだ。 9時の開門を直前にして、係りの人たちがトラメガで呼びかけるには、「扉を入りますと下りの階段になっております。走ると大変危険ですから、ゆっくりと歩いて入場なさるようにお願いいたします。」とのこと。 そこから察するに、なんと会場に入ると同時に走りだす人たちがいるらしい。 こちとら夏フェスは初めてだが、今日の相棒のKくんと共にコミケには何度も参加している。 コミケよりは争い合わずにのんびりやれるかと思っていたが、やはり夏フェスも甘くはないらしい。 そうとなれば、きゃりーぱみゅぱみゅをより良い位置で楽しむためならば、毎朝のパチンコ屋の開店入場で鍛えてきた「少しも走らずに他人を出し抜いて前に出る技術」を披露するのにやぶさかではない。 ましてや、今日はKくんの彼女も一緒に来ていて、彼女がきゃりーぱみゅぱみゅのファンだというからにはなおさらのことである。 そうして、俺とKくんは彼女にコツを伝授しながら、まずは俺たち二人が道を切り開くから、彼女はとにかく二人についてくることだけを心がければよいということを言い聞かせた。 そして、いざ開門すると、下りの階段を前にして高いところから会場を見渡すに、一面が屋台の群れである。 なるほど、これが事前に調べてきたところの「ソニ飯」の屋台だな。 さらに目をこらしてみると、屋台のあいだを駆け抜けていく一群の人々がいるではないか。 係り員が必死に「走らないでくださーい!」と呼びかけるにもかかわらず、会場の向こう側の扉から青空の下へと一目散に走っていく。 「あくどい野郎どもめ! “走るな”と言われてんだから走らずに競争するのがスジってもんだろうが! こいつらに美学はないのか!」 そうは思いつつも、無理が通れば道理が引っ込む、このイベントだけのために雇われた素人の係り員では人々を止めようもない。 走っている連中をぶん殴るわけにもいかないので、俺たちとしては美学にもとづいて、できるかぎり走らずに急ぐしかない。 会場を抜けて外に出る扉を通り抜けながら俺たちは、走り回る人々に必死で呼びかけ続ける係り員の人に「気苦労お察しします」という涼やかな笑顔を向け、世の中には良心もあるのだと示して慰めてやる。 外に出てみると、狭い間隔で何やら柵が置かれて、その柵のあいだを人々が整然と並ぶことができるようになっている。 そしてなんと、その列の折り返し地点が見えないほど遠くまで柵がずーっと並んでいるのだ。 人々はどんどんそこに駆け込んでいく。 なるほど、この柵のつづいていく先のどこかに野外ステージがあるのだろう、ひとまずこの柵のあいだに人々を溜めておいて、時間が来たらまたステージへと順番に誘導していくのだろう、と理解した。 柵がつづいていく横手には物販スペースがあり、「あとで時間が空いたらグッズも買いたいねー」などと話しながら、俺たちはライブを楽しみに待ち望んで、おだやかに列にならんで柵のあいだをすすんでいく。 やがて、また係りの人が前方に立っていて、彼がトラメガで呼びかけるには「物販スペースへ向かう方はこちらの列にお入りくださーい」だそうだ。 ん?と考えてからすぐに理解したのは「なんと!こいつは物販スペースに並ぶ列を誘導するための柵だった!」ということだった。 この列はずっと遠くの折り返し地点を何度も折り返したあげくに、今まさに横に見えている物販スペースに帰ってくるようだ。 「ちくしょう! 世の中にはバカが多いというのは先刻承知していたつもりだったけど、夏フェスに早朝から参加して並んで走って並んだあげくにグッズを買おうとしている連中がこんなに多いとは思ってなかったぜ! 夏フェスに参加するからには当然ライブが見たくて来てるんだろうし、朝から並んで走って並んでいるからには当然ライブを見るために必死なのだと思い込んでた俺が浅はかだったんだよ! 夏フェスに参加して真っ先にやることがグッズを買うことだとは俺の頭には浮かびようのないアイディアだけど、世の中のバカどもの頭には浮かぶかもしれないってことぐらいはちょっとでも考えておくべきだったんだ!」 しかし、事態はすでに取り返しのつかないところまで進んでおり、俺たちは会場に戻ろうにもすでに二重の柵によって隔てられているところまで進んでしまっていたし、うしろからはさらに尽きることなく人々(バカども)がどんどん並んでくるのだ。 そうして、手出しもできない係り員が見守る前で、俺は柵を二枚、心からの憎しみを込めて蹴り倒して、会場に戻った。 会場に戻ってみると、ソニックステージは、先ほどの屋台の会場から外に出るのではなく、横に抜けたところにあった。 こちらはまるで人けもなく、ステージ前の最前線まで自由散歩である。(それが上の写真) してみると、9時よりも前に扉の前に並んでいた人々も、会場内を走っていた人々も、本当に物販スペースのみが目的だったらしい。 世の中、俺の理解を超える出来事があるものだ。 きゃりぱみゅを前に、ステージに登場したのはStroboyという(おそらく)素人バンド。 冒頭の2曲はともかく、後半の曲はファンクネスが効いてていいなぁと思ったら、Kくんから「レッチリのコピーかと思った」という手厳しい一言。 確かにまぁ、フロントマンとドラマーはちょっと物足りないところがあったような気がするものの、ドでかいイベントの、しかもアウェイの空気の中でよく頑張ったんだろう。 俺がヴォーカリストだったとしたら、あんなグラサンをかけていたとしても顔がひきつっていただろう。 次に、Thriller Liveというショウのショートバージョンを見せられる。 中盤までは、よくできたアメリカの学園祭でも見ているような気持ちだったが、衣装をばっちりキメたマイケルのパチモンがでてきた瞬間にホットな気分になる。 エルヴィスのそっくりさんも極めれば一つの芸だが、マイケルもそうかもしれない。 これは、あとでもう一回見ることなったが、二度とも見事なまでにまったく同じ内容だったので脱力した。 このあたりから、きゃりぱみゅに向けて人がぞくぞくと集まりつづける。 タイムテーブルを見たときから覚悟していたことだが、この時間は人の流れがOne OK Rockときゃりぱみゅに大別されるのだろう。 しかしまぁ、こちとら2時間前から陣取って場所を確保しているので、最前線の柵にもたれかかりながらゆったり見ることができるのである。 グッズに消費するために走ったバカどもは、人波の中でせいぜい苦労しやがれ。 というわけで、きゃりぱみゅの登場である。 きゃりぱみゅがステージに登場した途端、俺の真後ろのアリーナピットでとんでもないモッシュが起こった。 「てめぇら!“モッシュとダイブは禁止です”ってさんざん言われただろうがぁ!」と思いながら、柵に肘をつっぱって必死に耐える。 いつまでたっても、きゃりぱみゅの曲がどんな調子であっても、モッシュはまったく途切れることなくつづく。 やがて、きゃりぱみゅがMCを始めると、後ろで暴れている連中のなかからMCにあいづちを打つやつらが続出する。 しかも、揃いもそろって特徴的なのは、そいつらがステージのきゃりぱみゅにはちょうど聞こえないぐらいの絶妙の声の大きさで、「わかるー」とか「えーほんとに」とか「行くー」とか「わははー」とか満足げにあいづちを打つことだ。 自分が周囲に影響を与えることは許すが、自分が周囲から影響を与えられることは許さない、きゃりぱみゅに語りかけるが、きゃりぱみゅの耳にとどいてリアクションをもらうのは怖い。 図々しさとビビり具合の絶妙なブレンド、このあいづちを聞いて、俺は確信した。 「こいつらヲタクだ!!」 もう、俺は腹をくくった。 相手がヲタクとなれば、何を言っても訴えても無駄。 とにかく付き合わされるだけ損だし、俺はあいつらを嫌いだし、あいつらは誰もを嫌いだ。 モッシュがほんのちょっとゆるんだところで、俺は最前線の柵を乗り越えた。 あわてて駆け寄ってくる警備員に「暴れようってんじゃなくて、とにかくもう嫌気がさしたから抜け出したいだけだよ」っていう顔をしてみせて、ステージの前をそそくさと通り抜けて、会場をあとにした。 隣の会場、さきほどの屋台の群れの中で広島焼きを食いながら、きゃりぱみゅが終わった人ごみのなかからKくんと落ち合って一緒にマリンステージに向かった。 Kくんたちも先ほどのモッシュにもみくちゃにされて疲れていたので、マリンではアリーナに入らずに客席から見ることにする。 対岸のRサイドは比較的空いているように見えるのだが、Lサイドはなかなかの人の入りで、3席つづきで空いているところがなかなか見つからない。 一番上のほうまで登ってみると、ファミリーシートとでも呼ぶべきか、テーブルとそれを囲む席でつくられたところが空いていた。 座ってみると、ステージからは遠いもののよく見えるし、あともう少し時間が経てば日陰にも入りそうだ。 「おう、ここはなかなかええやんけ」 「ここだったらGreen Dayまでずっと居座ってもいいかもしれないねぇ」 などと、都合よく空いているところを見つけた自分たちの幸運をほめたたえながら、テーブルの穴にビールをセットしたりしていると、係り員がやってきた。 いわく、この席は特別チケットが無いと座っちゃいけないんだそうだ。 それならそうとわかるようにしておけ!と、恥ずかしさをまぎらわすために一言お返ししたいところをグッとこらえて、「すみませんねぇ」などと謝りながら席をかたづけた。 その係り員が、そのまま隣の席の日焼けカップルにも同じ注意をしに行ったので、俺たちの恥ずかしい思いは少しまぎれた。 さて、前のほうのクソ暑いところになんとか席を見つけて、Groupeloveを見た。 「やっぱ外タレはちがうな」というKくんの感想は的確で、音の迫力、バランス感覚、そしてなにより外タレにしか出せない“本場の感じ”が「あぁ、ライブに来たんだな」ということを実感させてくれた。 考えてみれば、一発目は素人だったし、きゃりぱみゅはカラオケだったから、モノホンのライブを味わうのは本日初、である。 Kくんとしてはこれを求めていたわけで、さらに本日初のビールを飲みながら、「めっちゃうめぇ!」とはしゃいでいた。 iPodのCMのあの曲でめちゃくちゃに盛り上がってるアリーナを遠巻きに見て、俺は何かを悟ってしまった。 つまり、「あぁ、俺はもうあそこには行きたくないな」ということを。 ロックの味わい方として、あれこそが一つの正当ではあるのだろうけれども、俺はもうあれに魅力を感じない。 この思いは、のちにPassion Pitで一段と深まることになる。 ともあれ、あれを求めないのであれば、Franz FerdinandもGreen Dayも見なくていいということになり、マリンステージをすっきりと捨てることができる。 ポカリスエット(公式スポンサー)を飲んだそばから汗になって蒸発していくような猛烈な暑さに辟易していた俺としては、もう幕張メッセから外に出なくていいのならそれは理想的なことのように思えた。 マリンとメッセの移動も、できる限りしたくない。 Kくんは、あの盛り上がりを求めてフェスに来ているので、マリンを中心に(そしてGreen Dayをメインディッシュに)見ることになるので、ここからは別行動ということになった。 メッセに向かう途中で後輩に連絡すると、ソニックステージでGrimesを見終わって、これからSt. Vincentを見るところだという。 俺はPassion Pitまでやることもなかったので、合流することにした。 コミケの場合だと、しばしば電話で連絡することもできないことがあったが、サマソニではそれが可能なので助かる。 後輩の二人と上手く合流して近況など話していると、すぐにSt. Vincentが始まった。 St. Vincentというバンド(ソロ?)を俺はまったく知らなかったが、始まって1分もたたぬうちに、頭に浮かんだものがあった。 「ダブステップ!」 といって、俺はダブステップについてほとんど何も知らない。 知っているのは、James Blakeがダブステップというジャンルに分類されていたことだけだ。 だから、St. Vincentを見てすぐに頭に浮かんだのは「ダブステップ!」という言葉だったけれども、それが意味するところは「James Blake!」ということだった。 James BlakeにしてもSt. Vincentにしても、その音楽を聞いて俺がすぐに理解したのは、それが未来型のブルーズ(Blues)だということだ。 「未来型」というのは、Robert JohnsonやMuddy Waltersなどから見て未来であり、The White Stripesから見てもまだ未来である。 表面上は新奇で未来的ではあるものの、結局はギターと声であり、身の回りの些細なことをギターと声でやっているにすぎない。 そして、身の回りの些細なことこそが祈りになる。 そうであれば、そのような音楽には敬意を払わずにいられないのだが、このSt. Vincentという歌手、このライブを見た限りではファンになれそうもない。 人に見せるものとして、あまりきちんと成り立っていないのだ。 たとえば、ぎりぎりまで引き絞られたテンションで鳴らすギターはどこか性的なものを感じさせ、このおねぇちゃんはイきそうなんじゃないかと思うようなときがあった。 だが、それがセクシーかというとそうでもなくて、オナニーを見せられたからといって必ずしもセクシーとは言えない、というのと近しいものがある。 誰かのオナニーをセクシーだと感じるかどうかというのはその人との関係やその他の諸条件に依存するが、このようなステージを楽しめるかどうかというのも近しいものがある。 ブルーズというのがステージで演奏して他人に見せるものかというと、微妙なところだ。 ブルーズはやはり、演奏者のものなのだと思う。 ましてやフェスで、でかいハコで。 St. Vincentはプロのミュージシャンとしてステージで見せることを選んだわけだけど、この日のステージは結局、どっちつかずの微妙なものだったように思える。 後半には、なんだか客を踊らせるためと思えるキャッチーな曲もやりはじめて、俺は「やっぱりな」と思った。 オナニーの比喩をしつこく持ち出すとすれば、前半のブルーズもライブチャットのカメラの前でのオナニーぐらいのものでしかなかったのだ。 見世物と自己満足のどっちつかずの宙ぶらりん。 最後には観客の中にダイブまでしちゃって、痛々しくて見てるのがつらかった。 結局、このステージで彼女は、禁止行為のダイブをやるしかないところに追い込まれてしまったように見えた。 あのやり方でテンションを引き絞れば、ダイブして観客に媚びる以外に落としどころはなかったのかもしれない。 さて、空き時間にまた後輩二人とダベりつつ、Passion Pitのマウンテンステージへ。 前座(じゃないけど)のStroboyが俺の心に点火してくれた、ギターのカッティングとシンセのメロディーで踊りたい気持ち、それを抱きながら期待と共にPassion Pitへ。 10分前ぐらいに入って、そこそこの位置を確保できたのだが、いざ始まってみるとものすごい数の人。 Passion Pitってこんなに人気あるんだ。 それなのに、10分ばかりの遅刻。 まぁ、外タレには珍しいことでないけれど、フェスでは守ってほしいよね。 ましてや、スケジュール的に50分しか時間を与えられてないんだから。 時間がカブってるRussian Redも見たい後輩二人はそわそわ。 いざバンドが出てきて演奏が始まってみると、一曲目から観客は大盛り上がりのシンガロング。 Passion Pitってこんなに人気あるんだ。 ところが、観客の盛り上がりとは対照的に、バンドの演奏はイマイチのらない。 フロントマンは「いったいなんだってこのオーディエンスは勝手に盛り上がってるんだ」と理解に苦しんでイラだっているようだったし、バンドの一人ひとりも、集中しているとは言えないヘラヘラムード。 観客のほうは、バンドの様子なんかおかまいなしに、自分たちがただ盛り上がりたいだけ。 たぶん、マイク全部抜いてCDの音源流しても、同じように盛り上がったと思う。 実際、そんなようなもんだったし。 自分たちがいようがいまいが同じように盛り上がるんだろうと思える観客を前に、フロントマンはそれを受け止めかねていた。 だから、「へっ、なんだこの狂った日本のオーディエンスは」とシニカルに笑ってみたり、「サンキュー」と言ってるふりして「ファッキュー」と言ってみたり、そんなふうに俺には見えた。 そしてそのうちに、どうせ観客が求めているものははっきりしているんだから、自分たちとしてはそれだけきっちりこなせばいいだけなんだな、という方向に腹をくくって、求められているものを与えることを心掛けるようになった。 あの観客の相手をするんだったら、それが一番賢い方法だと俺も思う。 どうせまともに見てやしないんだから、適当にこなしちまうのが一番だ。 まぁ少なくとも、それをやろうとしてきっちりやれるんだから、さすがプロの人気バンドはすごいということだ。 あの観客たちは帰り道で、「Passion Pitすごかったねー」などと語り合うのだろうか。 すごかったのは自分たちだというのに。 ここいらでだいぶ、夏フェスというものの正体がわかり始めてきたような気がする。 つまり、バカ騒ぎをしたい連中が集まってるだけなんじゃないのか。 いや、そうじゃないとは誰にも言われたことはないけれど、そうだとしたらわざわざ来るほどのものでもなかったのかもしれない。 バンドなんてのは盛り上がるネタに過ぎなくて、何を見ようと同じように“踊って”、「ヒューー!」とか奇声を発して、サイコーだったと言い合うのだ。 そして帰ってからは物販で買った「フェスTシャツ」を着て、自分もバカの仲間の一員であるということを誇示して満足するのだ。 ロックにはたしかにずっとそういう側面はあったけれど、もはやそれしかないというのか。 Russian Redを見に行った後輩二人と別れて、俺は一人でマウンテンステージのDeath Cab for Cutie。 Passion Pitのときほど、観客が前に押し寄せる圧力はない。 時間通りにあらわれたバンドは、すぐに演奏を始めた。 神経質そうに体を左右に揺らしながら歌うヴォーカリストは、マイクの音量を上げるように身振りで指示をする。 それ以外にも、とにかく神経質に、二本のヴォーカルマイクの位置を微調整したり、ピアノにまわるとその音量やピアノにつけられたマイクの音量の指示を出したりする。 ヴォーカリストだけでなく、ギターやシンセの担当も同じように、演奏しながら微調整を繰り返した。 演奏のほうはというと、前半は“引き”が効いていた。 ガッと盛り上がるかのように見せてそこでヴォーカルが逆に小さくささやいてみたり、観客に話しかけたり盛り上げたりすることもない。 しかし、退屈かといえばそうではなくて、担当の楽器を変えたりしながら次々に変化を見せる演奏は観客の耳目をひきつけていった。 知っている曲も、着ている洋服のテイストを変えたように、新しい印象で聞くことができた。 後半に向けて少しずつ盛り上げていき、終盤にはヴォーカリストがドラムを叩きドラマーとの連弾で楽しませる一幕もありつつ、最後は綺麗なメロディと怒涛の演奏で締めくくった。 と、ここで後半に関する俺の記述が具体性に欠けるのは、腹がへりすぎて飯を買いに行ったら前線に戻れなくなってしまい、細かいところが見られなくなってしまったからである。 とにかく、観客に媚びるわけでもなければ自己満足でもない、バンドも観客も共に楽しめる“音楽”があり、そういう上質の演奏がそこにあったのは事実だ。 前半の神経質なこだわりも、その日のライブをその場で“つくって”いく過程であり、その“つくって”いく感覚をはっきりと感じることができた観客は、「良いものを見た」という満足感を得られたはずである。 「なるほど、これが“良いバンド”というものなのだな」と妙に納得し、何かに感謝したい気持ちになり、デスキャブに感謝した。 ついでに、なんとなく内容の予想できるFranz Ferdinandを見にいったことでデスキャブを見逃したKくんと後輩二人を憐れみ、優越感を感じることでさらに一層の満足感を得たのであった。 次に見たのがソニックステージのNelly Furtadoである。 さすがにもう、足がすっかり疲れてしまっているので、これは遠くで座って見ようと思った。 しかし、1曲目のパワーがものすごくて、思わず立ち上がってステージの近くまで行ってしまったほどだった。 基本的にはバンドセットなのだが、ギュインギュインのギターと南米系の陽のパワーのポップネス、それにファータドの歌とラップとダンスがドーンと乗っかって、ものすごいパワーだった。 黒のスパッツに銀色のキラキラシャツを着たファータドは、ステージの上ででっかく見えた。 かっこよかった。 ステージ上には、何やらフラフープを操る男もいて、たぶんすごいことをやっているんだろうけど、いくぶん地味で謎の存在だった。 このあたりの、なんでもいいからオモロイもんなら放り込んどけ、という感じが、この日のファータドのステージをよく表していた。 とにかく、出し惜しみなしで、持てるすべてを使って客を楽しませる、というエンターテインメントに徹していた。 レゲトンなどもまじえたラテン系のノリで攻めながら、飽きが来たかなというところで、(たぶん)有名なバラードソング。 ここでファータドはステージから降りて、観客と触れ合いに行く。 St. Vincentのように警備員とカメラクルーを大慌てさせるようなものではなく、周囲に配慮しながら観客を楽しませに行くプロのやり方で。 キャットウォーク(じゃないけど、たぶん)を存分に使って観客と触れ合ったあとは、最新式のクラブテイストに味付けしたメドレーでオーディエンスを揺らす。 J-Loの"On The Floor"やBritney Spearsの"Till The World Ends"のように、印象深いリフレインの繰り返しのもとに味付けし直された"Maneater"でアツくなったところで、音がスーっと引いていき観客の注意力を集中した瞬間にリフレインが帰ってくると同時に4人のダンサーと揃ってキメポーズのダンスに入る。 あの瞬間はサイコーにかっこよかった。 その後も「アタシが"jump!"って言った瞬間に飛びなさい!」というひねりの無い盛り上げ方でもサイコーに盛り上がった。 俺は、途中からやっぱり遠くで座って見ていたのだけど。 観客が期待している形で、しかも観客が期待している以上に盛り上げる、という覚悟を最初から決めてる、プロのエンターテイナーのステージを見た気がした。 もちろん、自分の音楽を持ってない人が最新式のクラブテイストを借りてきたところで大して盛り上がりはしない(少なくとも俺は)のだから、ファータドの懐の深さがうかがえるというものだ。 ここで思い出したのは、「小説家もまた、読者の奴隷にすぎない」という言葉。 しかもこの言葉を書き留めたのは、生半可な青二才などではなく、比類なきマーク・トウェインなのだ。 ミュージシャンもまた、ある意味においては観衆の奴隷にすぎないのだろう。 そして、最後がSigur Rosだった。 これに関しては一言、この音楽は、こんな大勢でヒマ人みたいに突っ立って聞く音楽じゃない。 もっと個人的なものだし、観客とバンドの応答なんかまるで無くてざまぁみろって思った。 と同時に、足が疲れて立ってるのがつらくて、早く座って帰って寝たかった。 フェスなんか、二度と来るもんじゃないと思った。 しかしまぁ、シガーロスにしたって、バンド全員でバーンって盛り上げる以外の落としどころは無いもんかね。 なんか結局のところ予定調和で、すっかり脱力してしまうのだけど。 「あーはいはい、ここでもう一回フレーズ繰り返して、その最後にあのパートを入れて次への期待をもたせておいて、さらにもう一回繰り返してその最後で次のシークエンスへの導入をつくって、次で半歩横へ抜けおいて戻りながらバーンと盛り上がる、ね。はいはい。」 夏フェスに初めて参加して、なんとなくつかめたことがある。 俺は、期待通りの高揚感も、誰かとの安易な一体感も求めてはいないということだ。 たとえ俺が最前線でモッシュに押しつぶされていなかったとしても、きゃりぱみゅのコールに合わせて横のバカと一緒にバカみたいな手振りをするバカにはなれなかっただろう。 幼稚園のお遊戯でもあるまいし。 何が楽しくて何が悲しくてそんなことをするのか、給料が出るわけでもないというのに。 もちろん、先生役のきゃりぱみゅには給料も出るしうらやましがられるし尊敬もされるのだから、俺だってあっちの立場なら喜んでやる。 その場合、音楽は仕事と分けたプライベートな趣味としてやることになるだろう。 結局、何を見たって聞いたって同じように(本当に同じように)高揚するだけなのだとしたら、ライブや音楽なんてバカバカしいものだ。 サイレントディスコでチャンネル1(というのはおそらく、DJではなくてコンピューターによるMP3の垂れ流しだろう)で流れるFranz Ferdinandの"Take Me Out"を聞きながら、みんなで一斉に歌いながら“踊って”いる連中を見て、「あぁこいつらは実際にフランツを目の前にしても同じことをするのだろうな」と思った。 「ならば結局、こうやってヘッドフォンで聞きながら“踊って”ればいいじゃないか」と思った。 フェスなんか、やる必要ないのだ。 CDと同じように盛り上げてくれることを求めて、予定通りに“踊れ”れば、それで満足なのだ。 ヘッドフォンを外してみると、完全無欠のバカどもをそこに見ることができる。 しかし一方で、音楽が特別な体験をつくりだすことも、俺は知っている。 俺の体験では、大ファンだったバンドが目の前で演奏したことがそうだったし、それまで知らなかったミュージシャンに初めて聞くような音楽を演奏してもらって特別な気持ちになったこともあった。 夏フェスにおいて、そういう出会いが生み出されることもあるだろうか。 少なくとも、バカに囲まれて暑さでへばり疲れ切っている、というのはいい条件ではないだろう、というのは言える。 コミケも夏フェスも、生気のない頽廃の祭りだね。
JUGEMテーマ:日記・一般 「人生とは、それすなわち、練習だ。」 「人生とは、それすなわち練習だ。なるほど、我々は無知で未熟な状態から始めるよりほかないわけですから、まずはとにかく身のこなし方を覚えるにしろルールを覚えるにしろ練習するほかないわけでありますな。とにかく練習をして量をこなすなかでもろもろのあり方を覚えていくこと、人生とはそのようなものだとおっしゃるわけですね。そうしますと、その練習の成果を活かす、本番とはいつごろおとずれるものなのでしょう。」 「本番とは、それすなわち、そこにある人生だ。」 「本番とは、それすなわち、そこにある人生だ。なるほど。もし仮に“死後の生”というものがあるとして(これは語義矛盾ですが、便宜的にこのように呼称させていただきます)、“死後の生”こそが本番なのだと仮定することもできます。この場合には、もしそれが輪廻のようなものだといたしますと、我々のこの生こそが前世の練習を活かすべき本番だということもありえるわけです。しかし、我々の知る限りそのような(前世での練習を活かしているような)人物や生物がいたことはない。もしそれが輪廻のようなものではなく、直線的な軸をもつものだと仮定しますと、我々のこの生では練習の成果が発揮されていないことから類推するに、我々のこの生は直線的な軸の始発点に位置するべきもののように思えます。しかし、この世界の広いことを知っていながらしばしば我々が自分こそは世界の中心だと思い上がってしまう愚かさのことを思うと、たかが我々のこの人生程度のものを軸の始発点に置くというのは尊大な思い上がりであるということのほうがほぼ確実にありえそうなことだと言えます。我々が透徹した思考を求めるのなら、この可能性のとほうもない小ささに思い及ばなければなりません。そういう立場に身を置いてみますと、“死後の生”が存在するのかしないのかという問題について考えるとき、我々の思考はこの問題を解くべき何のヒントも得ることがありませんから、これを確実に存在するものとして扱うのは利発なことだとは言えません。その場合にとりうる態度というのは、“死後の生”のことは是とも非とも結論をつけえぬものとして留保しながら、それがどちらであろうと対応することのできるような生活をおくることでしょう。そうしますと、まずとりうる具体的な方策としましては、“死後の生”は無いものだと仮定しながら日々をおくることなのでしょうな。といいますのは、このやり方をしておけば、仮に“死後の生”があったとしても、我々のこの生における練習の密度には曇りはないわけですから、立派に対応できるというものです。つまりそれはこの生を本番として生きることであるというわけですね。」 「練習とは、それすなわち、本番だ。」 「練習とは、それすなわち、本番だ。なるほど。練習とは常に本番に向けてなされるわけですが、練習がそれすなわち本番だということになれば、練習は向かうべき本番を失うことになり、本番は単なる本番以外のものではなくなってあくまでも本番であり、練習はどこにもなくなるということになるわけです。本番というのは常に練習の成果を発揮する場でありますから、練習とはそれすなわち本番だということになれば、練習抜きの本番というものがそこにあるわけですから、それは本番であるというよりも、単に徹底的に不慣れな者が未知なるもののなかで不恰好に暴れているだけどいうことになるわけです。練習とは、それすなわち、本番だ、という命題を置いてしまうと、練習も本番もどちらも消えて無くなってしまうわけですな。」 「人生とは、反射神経と即座の対応力を試す悪ふざけにすぎない。」 「人生とは、反射神経と即座の対応力を試す悪ふざけにすぎない。なるほど。我々が生活の中で学んだつもりのものを実践的に応用したつもりになってみても、次の瞬間にふと気づいてみれば状況は予期していたものとはまったく異なるものになり、我々はこの変化を包括する新たな学びのあり方と学びの結果を考え出さなければいけなくなります。その変化はあまりにもとりとめがなくて幅が広いので、我々としては突然目の前に現れたものをとっさにひっぱたいたり懐柔したりとりなしたりするばかりで、何か土台になるようなものを築く場所も時間もありはしないというわけですな。」 「知性のなぐさみ、それすなわち、笑いだ。」 「知性のなぐさみ、それすなわち、笑いだ。なるほど。我々がどうしたって学ぶことができない以上、賢い人は必ずやそのこと(私は学ぶ事ができない!)に気づくはずです。さらにその人が賢さを発揮するなら、どうせ大した成果が期待できないのなら、そのことを嘆くよりも笑ったほうが自分のためになるということに気づくはずだというわけですな。かねてより貴族よりも庶民のほうが笑いに長けていたということは、まるで人間の知性の悲しさを表しているようです。この世界に、人間のように笑う生き物が他にいないということも、人間の寂しさを表しているのでしょうか。」
JUGEMテーマ:日記・一般 俺の友達に「サゲチン」がいる。 彼は人生を馬鹿にしている。 いわゆる社会的にまっとうな人生というものを馬鹿にしているだけではない。 人生を良いものにしようとか何かを得ようとか、そういう期待を持つことを馬鹿にしている。 どうせ降って湧いたような人生で、大したものが用意されてるわけではないんだから、まぁせいぜいなるべく苦しまないようにやり過ごせればいいじゃないか。 そんなに大したことでもないのにカッコつけて大騒ぎするんじゃないよ。 一理ある。 それでもやっぱり、それはよくないよ。 モラルとしてよくないわけじゃない。 人生を馬鹿にしながら、そうして何十年も生きるのはつらいよ。 期待したり失望しながら生きないと、味わいもそっけもない日々なんて、やるせないよ。 人間はやっぱりそうして生きていくべきなんじゃないかって、小さくて凡庸な俺はそう思うよ。 誰かを馬鹿にしたら自分も馬鹿にされるのが世の中だから、人生を馬鹿にしたら人生からも馬鹿にされるんじゃないかって思うよ。
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