This Is The One! - innocent -俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。
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JUGEMテーマ:日記・一般 男性と女性の違い、というものがしばしば話題になる。 何に関しての違い、というのではなくて、おおざっぱに類型的、いや、というよりも、根源的な違いについて。 こういう話題に対しての俺の基本的な態度というものは決まっていて、単純な一般化や抽象化にはなるべく慎重な姿勢で臨むようにしている。 それでもなお、男としての人生を生きていると、個別の人々とのかかわり合いの中で生まれる様々な出来事をとおして、一般化された「男性」と一般化された「女性」について、そこにやはりけっこう根の深い違いがあるような気がすることは、たまにある。 男性も女性も、つまるところは、人間であり生物である。 然り。 男性と女性には、違うところがある。 然り。 誰にも否定できないであろうレベルでひとまず言ってみて、俺もこれぐらいのことならば積極的に認める。 そして、さらにもう一歩進んで、何の根拠もなくぼんやりと思うに、男性よりも女性のほうが現実的である、と思う。 これはおそらく、男が体のことを忘れて頭の中身だけでどこかにすっ飛んで行けるのに対し、女は常に体と共にあることに慣れている、ということではないかと思う。 文化のことを考えるときに、一つの有効な方法は、それを身体的に、徹底して具体的な条件に還元して考えてみることである。 たとえば、気候、地形、植生など。 男性と女性の身体的な、徹底して具体的な条件。 とはつまり、肉体の機能や特徴のうちの、性別に依存する部分である。 一つ。 男性の性的な生理、すなわち勃起やら射精やらにまつわることであるが、男はこれを比較的忘れることができる。 男がこれを意識せざるをえないのは、性的に欲情したときのみ。 しかも、一発スカッと発射してしまえば、またすぐに朗らかな気持ちで過ごすことができる。 それに対して、女性の性的な生理、すなわち月経やら出産やらにまつわることであるが、女はこれを甘んじて耐え忍ぶことを強いられる。 遠慮もなくめぐってきて、やがて去っていくまでは、個人の都合などおかまいなしに居座り続ける生理現象。 数ヶ月にわたって体の動きを拘束したうえで、盛大な労働と痛みで落とし前をつけていく妊娠。 女性はこれを自らの意思で忘れてしまうことを許されていないが、そのうえで、平気な顔をして生活しているのである。 二つ。 男性と女性の肉体を比較してみたときの、現実的な男性の優位。 まずは、一般的に、男のほうが女性よりも力が強い。 それはつまり、体の大きさだとか、筋力だとか、戦闘力だとか、そういうことである。 それに加えて、性的役割として、孕む者と孕ませる者を比較したとき、現実的な機能というか、応用力や汎用性、モビリティやユーティリティという側面で、孕ませる者のほうが優位だ。 というのは、孕ませる者は受精させてしまった後にはそんなことはさっさと忘れてしまえるのに対して、孕む者にはそれから数ヶ月の身重の生活と出産が待っている。 しかも、孕ませた男がいなくなっていて、なおかつ新生児が親の補助を必要とする場合には、育児もしなければいけない。 もし仮に性的機能以外のすべての面で、筋力や走力や知力などのすべての面で、まるっきり互角の男性と女性がいたとして、この二つの個体同士は生存するという目的のためには互角である。 ところが、性的な側面では互角ではない。 仮に男が女をレイプしても、女が男をレイプしても、孕むとすれば必ず女のほうである。 このように、女性は男性よりも、力が弱くて、孕む者である、という現実的な立場競争の上での劣位と共に生きている。 このことで、女性は人間以外の自然の中で生き抜くことだけでなく、人間の男性(の圧力と脅威)にも気を配りながら生きていかなければならない。 男性はそこでもまた頭を悩ませることなく、時間や労力を他のことに存分に使えるわけである。 比較的、男は女を無視することができる。 比較的、女は男を無視することができない。 女性は「自然の主」を目指すどころか、そもそも何の主でもなかった。 そういうわけで、唐突に結論づけるけども、男性は「受け入れる」ことが苦手なのである。 男性は、現実的生活の中で、特に制約を感じる機会も少なく、好き勝手にふるまえる。 当然、頭の中身も「あれがやりたい」だとか「あれができるかもしれない」だとか、好き勝手なこと、ときには突拍子もないことに、比較的飛んでいきがちである。 それに対して、女性は、始めからできないことがあることを認めたうえで、その中で何ができるのかを考えるというわけだ。 男性は制約を受けいれることに慣れていないから、それを強いられると戸惑ってしまうのである。 戸惑って、まずはどうにかしようとあがく。 そういう未熟で垢抜けないところが文明を進歩させてきたとも言えるのだが、それでもどうしてもどうしようもないことというのはある。 どうしようもないこと、受けいれられないことを、それでも何とか受け入れようと葛藤した跡が、宗教や思想である。 キリスト、モハメッド、釈迦、孔子、プラトン、みんな男性だ。 歴史や思想は、男の名前の果てしない連なりだ。 女性が葛藤しなかったというのではなく、振れ幅の大きさの違いだ。 何もかも思い通りになるのではないかという期待をほんのわずかでも抱いていた者と、思い通りにならないことはどこかに必ず残ると始めから前提に組み込んでいた者との、違いだ。 そういう、男の未熟さもそろそろはっきりと自覚されてきたので、始めから不都合を受け入れて、しかも競争でなく協力を、という成熟に向かってもいい頃なのではないかと思う。 どこかにすっ飛んでいくことを考えるよりも、ここの生活を充実して生きることの技術を磨いてもいいのではないかと思う。 下は、非常に論争的な、アントニーの新作ビデオ。 暴力的なのやグロいのが苦手な人は、見ないほうがいいかもしれないです。 内容もショッキングですが、映像自体もとてもショッキングだと思います。 ウィレム・デフォーこんなに老けたのね、ということはおいといて。 俺はAntony and the Johnsonsのファンで、その音楽や映像に救われてきたクチだけど、このビデオはどうかなぁと思う。 あまり肯定的には受けとめられない。 ビデオの中の行為、それをやらないのが、女性の強さなのではないかと思うから。 今ある条件の中で、可能な目標を見定めて、したたかに根気づよく。 強いつもりで能天気な相手の盲点をついて、ゆっくりとよどみなく確実に。 それでも、もしも本当に辛抱の限界に達したのなら、自分たちの手で男を殺すなどということはしない。 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの「男たちの知らない女」のように、静かにその姿を男たちの前から消していくのではないかと思う。 そうなっては、やがて男たちが絶望的な孤独のうちに滅びていくしかないということを知りながら、そういう運命の男たちを捨てていくのに十分なほど、男たちに絶望したときには。
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