This Is The One! - innocent -俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。
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JUGEMテーマ:日記・一般
どうして俺はこうなんだ。 どーーーーーーして俺はこうなんだ!! いつもそうだ。 二人離れてから、電話を切ってから、押し寄せる悔恨の波。 足りなかった! あれを言うべきだった! もっと心をひらけたはずだ! もっと率直に好意と友情を示せたはずだ! 俺が好意と友情を示して、「俺にはあなたを受け止める用意がある」ということを伝えなければ、相手としては俺にいつまでも遠慮しなければならない。 意気地なしが!! 相手のほうから先に好意と友情を示されなければ、自分のほうから心をひらくことのできない意気地なし! 俺は恐れているのだ。 俺が示した好意と友情に対して、相手からの好意と友情が返って来ないことを恐れているのだ。 好意と友情に対しての見返りを求める意気地なし!! たとえ一方通行であろうとも、好意は好意だけで、友情は友情だけで貴いものだというのに。 俺は俺の気持ちを示せさえすれば、それに対する返答など気にかける必要はないのに。 伝えることだけが肝要で、その後の展開など神秘の領域だというのに。 俺は愚かでもあるかもしれないが、それ以前にまず憶病だ。 どうして俺はこう意気地がないんだろう。 それに加えて甲斐性もないんだろう。 どうして俺はこう怠惰なんだろう。 どうして俺は人の顔色をうかがってしまうんだろう。 どうして俺は自分から、もっと自分から発信していかないんだろう。 さよなら、さよなら、俺の嫌いなところだけ。 もっと、ラショナルに生きたいんだけれども。 心の赴くままに、ラショナルに。 もっとデーーンと、堂々とかまえてだな、 君ってすごくいい感じだよね もっと知り合って、仲良くなりたいな ほら、俺はこういう人間だよ 今は、こんなことを考えてるよ よかった 君と会えてよかった そういうことを、さらっと素直にだな、口に出せる人物でありたいと思うわけだ。 そうであるためには、自分に誇りを持っていなければいけないんだ。 自分に誇りを持つということは、自分の世話をきちんと見てやるということだ。 こんなに貴い自分なのだから、ちゃんと丁寧に扱ってやらなければいけないんだ。 甘えて怠惰に過ごしているようじゃあ、自分に対して失礼なんだ。 自分に対して丁寧な人は、相手に対しても丁寧なんだ。 相手をぞんざいに扱うような自分になってしまったら、自分を貶めることになるからだ。 自分にも相手にも丁寧な人は、相手からも丁寧に扱ってもらえるんだ。 自分で自分のことを本当に好きな人と一緒にいると、周りの人も自分のことを好きになれるんだ。 自分に誇りを持っている人には、周りの人にも誇りを持たせて朗らかにさせる力があるんだ。 そういう人物に、俺はなりたいと思うんだ。 俺が斉藤由貴の歌と初めて出会ったのは、TSUTAYAでたまたま手に取った『YUKI’S MUSEUM』がきっかけだった。 その中の「MAY」という曲をなんとなしに聞いて、俺は衝撃を受けた。 その歌の中には、未発達なままの、幼児のような俺がいた。 生まれて、成長していく先は見えるのだけど、まだ踏み出していない、ただ芽ばえたままの俺の姿。 いつか、言いたいことを、言いたいときに、言いたいままに、言いたいように、言えるときが来たのなら、俺はもう何も書かないし、つくらない。 ----------------------------------------- MAY 作詞 谷山浩子 作曲 MAYUMI MAY そんなにふくれないでよ 笑った顔見せて いつもみたいにおどけて MAY そんなにふくれないでよ そのただひとことも 口に出せないの私 困らせてる 今も あなたしずんでても なぐさめの言葉は 百も思いつくけど どれも言えない! 噴水の虹を見てるふりで 「きれいね」とつぶやくだけ きっと 内気だと思ってるね だけど言えない! あなたが魔法をかけた こんな秘密の庭の中では どんな 言葉もみんなウソなの MAY 内緒でそう呼んでるの 初めて逢ったのも まぶしい木もれ陽の中 MAY 声に出して呼びたいな でもこれ夢だから 醒めると困るからダメ 教えないわ まるで きゃしゃなガラスの鳥 ふたりでいる時も 自分だけの夢を見て ばかね私 あなたを喜ばせたい なのに この夢から出られない 少し うつむいて微笑むだけ だけど好きよ 好きよ好きよ誰よりも好きよ 世界がふるえるほどに いつか この鳥カゴをこわして いつも私 あなたを喜ばせたい なのに この夢から出られない 少し うつむいて微笑むだけ だけど好きよ 好きよ好きよ誰よりも好きよ 世界がふるえるほどに いつか 大きな声で告げるわ -----------------------------------------------
JUGEMテーマ:日記・一般 ※ 御する 1 (「馭する」とも書く)馬や馬車を巧みに扱う。「暴れ馬を―・する」 2 他人を自分の思い通りに動かす。「部下を巧みに―・する」 パイセン 「お前、なんか丸くなったな。」 オレサマ (なんかちょっとイヤな感じのニュアンスが含まれてる気がするな。たぶん、あの頃の突っ張ってた俺を御しがたく(※)思ってたのに、久しぶりに会ったら知らないうちに穏やかになってる俺を見て、なんだか勝ち逃げされて置いていかれたような感じで、ちょっとだけ悔しいんだろうな。ここはひとつ、単に褒められたんだと思い込んでる体裁で毒気を抜きにかかるか。) 「お、やっぱりそう見えます? なんか、俺の期待どおりで嬉しいですね。」 パイセン 「え、嬉しいんだ? なんか意外。お前そんなふうなヤツだったっけ?」 オレサマ (やっぱりな。この人の中で俺は、自意識とプライドでつっぱってる負けず嫌いな臆病者のままなんだ。「丸くなった」って言ったら、俺は甘く見られたと思って突っかかってくるだろうと、そう思ってたんだろうな。ここで張り合ったら昔の俺と同じだから、ここはひとつ、今の俺の目指す姿にしたがって、素直な気持ちをできるだけ伝わるように話すとするか。) 「たぶん、あの頃よりも自分を知ったんですよ。あの頃はホントに、屈折してひねくれてましたからね。俺は人を傷つけたいんじゃなくて、本当は人に優しくして仲良くしたいんだってことに気づいたんです。」 パイセン 「なんか、牙を抜かれたな。」 オレサマ (そっちから突っかかってくるか! 「仲良くしたい」って言ってんのに。そんなに俺に突っ張ってほしいか。きっと、張り合うやり方は知っていても、仲良くするやり方は知らないのかもしれないな。そうだとしたら、この人の内面は昔の俺とソックリだから、今の俺には手に取るようにわかるわけだ。だとしたら、なんとも御しやすいことだな。「牙を剥く」のが価値だとかステータスになると思ってるとしたら、なんとも素朴な価値観の人だよ。ただ、だからといって、それをここでいいように転がしても仕方あるまい。ここはひとつ、できるだけ親切に、できるだけこちらの手の内を明かして、そういうのは俺の望みではないですよと、間接的に伝えることにするか。) 「そうかもしれません。牙が無くても生きられる方法を身に着けたいと、ここ最近の俺は思ってきました。誰かと優しく触れ合おうとしても、牙は触れた相手を傷つけますから。だからたぶん、“扱いをおぼえた”んだと思いますよ。道具を使うためには、それなりの方法があります。銃には安全装置が、刀には鞘が必要です。それが、武器を使う上での、人の知恵ですね。警察が銃を撃つには、何重もの制約をクリアにパスしなければなりません。武士が刀を抜くときは、相手だけではなく自分の命をも賭すときです。できるなら絶対に武器に手をかけないというのは、お互いを守るためなんです。折衝や政治で紛争を解決できるように、とことんまで努めるべきなのですよ。お互いのためにね。」 パイセン 「そうか。ついにお前も社会に丸め込まれたか。」 オレサマ (中学生ですかね、この人は。俺がここで下手くそながらも柔和に笑って、もうすぐ会社員になろうとしているのがそんなに気に入らないですか。俺のつかみどころの無さに怯えてるのかな。それにしても、自分の中で折り合いがつけられない不安を、そのまま他人に当てはめて投げつけるとは、おさまりの悪い無防備な人だよ。社会に、というよりも、来たものすべてに逆らっていかなければ、自分が消えるとでも思ってるのかね。その程度の自分にこだわることが、いったいどんな良いことをもたらすのかということについて考えてみたことはないのかね。ここはひとつ、参考にでもなるかということで、俺が俺なりに考えて、たどり着いた場所を開示してあげますか。) 「えぇ、そう願いたいですね。社会に完全に丸め込まれて生きていくというのは、一つの幸福です。すべての成員を丸め込む社会というのは、素敵に成功している社会です。ところが人間というのは面白いもので、おそらくどんな社会であれ、絶対に丸め込まれない部分というのが人の心にはあるんですね。それは生命の面白さなのかもしれませんが。だから俺は、できる限り積極的に自分から社会に丸め込まれようとします。そのうえで、それでも残る不満や息苦しさを感じたときには、それに対して徹底的に正直でいたいと思っています。とは言っても、言うは易く行うは難し、なんでね。すぐにめんどくさくなって眠くなっちゃいますよ。」 パイセン 「やっぱりお前、あんまり変わってないわ。むしろなんか、レベルアップしてるかもな。」 オレサマ (あぁ、その笑顔。痛々しくて、悲しい笑顔。やっと受けいれましたね。俺がもう、あなたの知っていた俺ではないことを受けいれましたね。そしてなお悲しいことに、俺があなたからすっかり遠いところまで来ていることにも気づきましたね。俺はきっと、あなたの気持ちがわかりますよ。あなたはたぶん、あの頃の俺が好きだったんだ。あなたよりもエネルギッシュに、あなたよりもキレ味鋭く、あなたにはできないまっすぐさで、突っ張っていた俺が好きだったんだ。そして、あなたにはできなかったことを、俺が相変わらずつづけていて、それは今ではいったいどんなふうになっているのか、見てみたかったんだ。ところが、目の前の俺は柔和に笑っていた。そう、そしてそれは、確かにあなたにはできないことだった。あなたは今、またしても、俺には手が届かないことを、あの頃とは違う形で実感したんだ。あの頃、俺とあなたは近くにいたかもしれない。でも、今やこんなにも遠い。あなたが本気になれば、あなたはあなたの道を見つけるでしょう。そしてお互いの道は、進めば進むほどに離れていくでしょう。それらすべてを指摘してもいい。「俺もあなたが好きだった」と、情にほだされた嘘をついてもいい。でもここはひとつ、私情や意見を挟む余地のない、端的な事実で場をなごませましょう。) 「この数年、俺もまぁそれなりに生きてきましたからね。聞いてください。たぶんもうすぐ俺は、7年の時を費やして、ついに社会学学士になるんですよ。」
JUGEMテーマ:読書 小説家の天分というのは、「複数の視点を持つ」ということだ。 クンデラは、初の小説家としてセルバンテスを挙げている。 ドン・キホーテが踏み出した道こそ、相対性の道である。 ドン・キホーテ、サンチョ・パンサを始め、数々の登場人物たちが現実を勝手に理解して、それぞれの見解をしゃべり倒す。 そこでは、共同体から与えられた、誰もが共有する先験的な見解というものを、ほとんど期待することができない。 それは、各々が完全に別個の視点を持った他なる個人である、という、個人主義への道でもある。 小説はまさに「個人主義の文学」であり、個人主義の時代の芸術なのである。 ということを考えたうえで、氷室冴子という小説家は、稀有な存在である。 まず単純に、作家としての力量が素晴らしい。 俺が頭をふりしぼって切り開いてやっとこさたどり着いた境地が、簡単な一節にまとめて書いてあったりして、かなわんなぁと思うことはよくある。 よくぞこんなに人間について多くのことを知ってるものだと感心させられる。 そういう優れた小説家が、良き時代のコバルトで書いていたというのが、また面白いところなのだ。 当時のコバルトの位置づけというのはたぶん、少女マンガが小説でも読めるというようなものだったのだろう。 だから、面白いのは、それぞれの小説が、同じ舞台の同じ登場人物をめぐって書かれていたりもするところだ。 読者としては、雑誌連載のマンガのつづきを手に取るような気持ちで、またあの登場人物たちに会えると思って嬉しくなって読むことができるというわけである。 それでいて、連載もののマンガや現代のライトノベルと異なるのは、単純に同じタイトルの巻数が増えていくのではなくて、それぞれに別のタイトルを与えられた別の作品であるというところだ。 それぞれの小説はやっぱり独立して完成した作品で、それ自体で一つの小説世界をつくっている。 同じ人物を、同じ土地を、同じ出来事を、別の作品の世界観の中で眺めることができる。 たとえば横浜であったり、北海道であったり、あるいは時代も土地も現代日本とはまったく異なった場所であったり、どこかで誰かがそれぞれの人生を生活している息吹を感じることができる。 「あの場所では、あの人とあの人とあのコたちは、今日もあんなふうに生きているのだろう」と。 『なぎさボーイ』、『多恵子ガール』、『北里マドンナ』というのは、北海道の地方都市である「蕨ヶ丘」というところを舞台にした連作で、それぞれに主人公が異なっている。 蕨ヶ丘の第一中学校から、蕨町高校へと進学する五人組がいて、「なぎさ」「多恵子」「北里」というのが、そのうちの三人の名前である。 あと二人、三四郎と野枝のうち、三四郎の物語は、これよりも先に書かれた『蕨ヶ丘物語』に収められている。 時期としては、中学一年生から高校二年生まで、というあたりで、それぞれの作品で微妙にズレてもいるが、同じ出来事をそれぞれがどのように見ていたのか、ということを知ることもできる。 そして、そこが小説家氷室冴子のすごいところなのだが、「なぎさ」「多恵子」「北里」というそれぞれの登場人物の視点をみごとに描くのである。 それぞれにはそれぞれの人生があって、都合があって、想いがある。 それをお互いに、予想したり、疑ったり、期待したり、がっかりしたり。 この「わからなさ」、どうしようもない遠さこそが、個人と個人の隔たりなのである。 小説は、それを明らかにする。 しかも、それに重ねて、これらの小説を感動的なものにしているのは、彼ら彼女らの年齢である。 中学一年生から高校二年生、12歳から17歳。 まさにその年齢こそが、お互いがどうにも離れた他人同士としての個人なのだ、ということに気づかされる年齢である。 それまでは、自分以外の人、友達や親などの想いや都合などかまうことなく、ただ一緒に遊んでいればみんなだいたい同じような気分だろうと高をくくってやってこられたのが、いよいよせっぱつまる出来事などに直面して、これはいったいどういうことなのだろうと考え悩みながら、そうか他人のことは考えてもわからないのだからそれなりに思いやって尊重しなくちゃいけないのか、と身につまされるのが、いわゆるティーンエイジというやつである。 なぎさも多恵子も北里も槇修子(そういう登場人物がいるのだ)も、それぞれの素敵なところもあれば足りないところもあって、そういう一人ひとりが切磋琢磨する様子こそが現代の人生であって、それを描くのが小説なのだ。 必死で誰かのことを考え、自分のことを考え、そうであればこそ自分の醜いところをまざまざと見つめなくてはいけないこともあり、人とかかわるのは良いことばかりというよりかは、むしろ悪いことばかりのような気がするときもあるのだけど、それでも誰かのもとへと向かっていくのは、心がそう命じるから。 そういう、人生の輝かしい側面、というよりも人生そのもののようなものを、氷室冴子は見事に鮮やかに描くのだ。 なぎさがいて、多恵子がいて、北里がいて、それぞれのもとに何やらいろんな人が押しかけてきたり、自分からいろんな人に突っ込んでいったりしながら、そこで起こる様々な出来事を連ねて、そこに一つの世界を作り上げていく。 「あぁ、蕨ヶ丘というところで笑ったり泣いたりしていた人たちがいるんだなぁ」ということを、読者の心の中に届けるまでに。 氷室冴子に見えているさまざまな風景、人物などを、読者の心へと投影していく。 それはもちろんお互いに同じようでいて違うものを心の中に描いてもいるのだけど、でも、ある世界で生きていた同じ人物を同じように知っているというのは、なんだか素敵なことで、そこには小説、というよりも芸術や表現活動一般の素敵なところがある。 それぞれは別の個体同士だけど、同じものを見て語り合うことはできるし、自分に見えているものを頑張って表現すれば何か伝わるものはある。 別々の個人同士で寄り添いながら生きるのだから、お互いの懸け橋になるそういう活動は、どうしても大切にしていかなければならないのだ。 それには、もちろん技巧や形式というものがあり、現代に生きる人々はそれを少なからず学びながら生きているのである。 その中で、時代によって何が参照されたり、何が好まれるというのは変わるものだ。 だから、どうかこんなに素敵なものがいつまでも人々の手元に残るといいな、というのがファン心理で、そういう気持ちでこのブログを書いている。 それで、いつしかファン心理を超えて、あの作品に感謝をささげる気持ちで、自分も作品を作り上げてみたくなったりもする。 作品というものはすべからくそうやって作られ、そうして世界にまた一つ素敵な作品が増えもするのだけど、素敵な作品が一つ新たに生まれるということは、その分だけ過去の作品たちは見られなくなっていくということでもある。 そもそも自分が見つめてきたあらゆる作品に感謝をささげるつもりで作品を作ってみたところ、それは結果的に、感謝をささげるつもりだったそれらの作品の死に寄与することになる。 それはまさに親殺しであり、どうにも心苦しくて必死でほうぼうであの作品への愛と感謝を語ってみたりもするのだけど、それもやはりすべての作品について完全に名誉回復をというわけにはどうしてもいかないから、自分を育てたあらゆる作品のほとんどはこの世から少しずつ影を薄めていく。 人の連なりとはそういうものであり、そういう連なりの大きな流れの中で、個人は生きる。 氷室冴子がいなければ、今の俺はいなかっただろう。 やがて氷室冴子は誰にもかえりみられなくなり、やがて俺も誰にもかえりみられなくなり、氷室冴子の名前も俺の名前も、この世のどこからも消えて無くなる。 それでもそこには、氷室冴子が育て、俺が育て、さらにその次の誰かが育て、さらにその誰かが育てた次の誰かが、その世界でやっぱり切磋琢磨しているのである。 氷室冴子がいなければ、俺がいなければいなかったであろう誰かが、そこにいる。 逆のほうを振り返ってみれば、その人がいなければ氷室冴子も俺もいなかっただろう誰かが、そこにはいるのである。 たとえ、少しの影も見えなかったとしても、氷室冴子が書いて、今の俺がここにいるということは、その誰かも必ずいるのである。 その連なりの言語的な側面が文学であり、小説は文学の一側面である。 小説家の心に、ある人物が浮かぶとき、それは一つの命なのだ。 一つの命が生まれるとき、母の中にあるものが外から来た父と出会ってそこにまったく新しい命が生まれるように、小説家の中にあるものが外から来た何かと出会ってそこにまったく新しいものが生まれる。 そうして生まれた人物は、胎児が胎児なりのやり方で、母に依存しきっていながらも固有の命を生きているように、小説家に依存しきっていながらも、人物は固有の命を生き始める。 そういう人物が生まれたとき、小説家は書かずにいられるのか。 胎内に命を宿したとき、母は生まずにいられるのか。 それを生むことこそが、生命のモラルではないのか。 生むにせよ、無かったことにするにせよ、それぞれには適切な仕方で対処しなければ、母体の命も危ぶめる。 それが生命の厳しさだ。 この世の厳しさだ。 誰の意思でそこに生命が生まれたわけでもないというのに。 しかしそれこそが生命の喜びであり、個人の喜びでもあるのではないか。 何かを求めるとき、意識するにせよ意識せざるにせよ、その欲求の先には必ず誰かにつながっていくものがあるのではないか。 誰かにつながっていくということは、そこに何かを生むということであり、何かを生むということはやがて自分が死ぬということだ。 何かを求め、そこに喜びを見出し、喜びの先に何かが生まれ、生まれた何かがまた新たな喜びをもたらし、それを育て、育った何かが自分の死を連れてくる。 氷室冴子が筆をとらなかった、最後の10年間について、俺はときどき考える。 氷室冴子は、書かなかった。 野枝の物語も書かなかった。 現代では、自分の面倒だけをみていられる自由が人にはある。 ましてや、あれほどの仕事を果たした氷室冴子のことだ。 そうしたところで、誰の責めも負わないだろう。 氷室冴子の書かなかった小説は、いつまでも永遠にこの世に生まれることはなく、それと出会うことによって成り立っていたかもしれない俺の人生の可能性も生まれない。 野枝の物語と出会えなかったことを思うと俺は寂しい。 でも少なくとも、野枝について考えることはできる。 どうしようもないことはどうしようもない。 ひとまず、それで満足しようじゃないか。 片想いで終わる恋もある。 恋がかなわなかったことについて、呪いと憎しみを抱きつづけるのは、誰にとっても望ましくない。 でも、恋をすること自体をあきらめてしまうのも望ましくない。 俺が俺の人生を全うしたいなら、いつかは恋を実らせて、子供を生んで、育てて、愛が連れてきた死に抱かれるように消えていきたい。 心に嘘をつかずに、欲しいものには手を伸ばして。 強く、強く生きたい。 個人主義の時代の倫理は、個人の心に拠っている。 共同体主義を唱えずとも、個人の幸福を追求すれば、そこから倫理は生まれるはずだ。 氷室冴子はきっと、子育てを終えて、仕事もやり遂げて退職したおばあちゃんのように、ただのんびり過ごしていたんだろう。 「その子はいつも、あたしをどきどきさせた。いつも感動そのものだった。 重要だったのは、大事だったのは、いつも考えていたのは、たったひとりの男の子のことだった。それだけだった。今も、それだけが重要なのだ。・・・ 離れれば離れるだけ、あの人は知らない人になった。他人の顔した人になった。 知りたい。 もっともっと、あの人のことが知りたい。 あたしはちょっとだけしか、あの人のこと知らなかった。それだけのことだ。」 『多恵子ガール』 p.257 「なぎさくん。 きみ、知らないでしょう。 あたしがどんなにきみが好きだったか、どんなに憧れていたか、どんなにきみに関わるすべてが好きだったか、知らないでしょう。 あたしは順序をさかさまにしてた。 嫉妬したってより先に、それくらい君が好きだっていうのを、ずっと、どれくらい好きだったかって言うのを忘れてた。 これから、わからせてあげるよ。思い知らせてあげるよ。逃げ出したら追いかけて、わからせてあげる。殴られたら、殴り返してわからせてあげる。」 『同』 p.259
JUGEMテーマ:読書 俺ぐらいになると、その作家を気に入るかどうかは、読む前からけっこうわかる。 というかまぁ、最初から気に入るつもりで読み始めているから気に入るのかもしれないけど。 逆のパターンもあって、気に入らない作家も、読む前からけっこうわかる。 これも、気に入らないつもりで読み始めているからかもしれないけど。 たとえば、筒井康隆なんかは、どうしても楽しめない。 俺の好きな作家、たとえば長島侑なんかが筒井康隆の『七瀬ふたたび』について書いているのを見かけて、この人が気に入るならば俺も気に入るかもしれないと考え直して、またトライして読んでみたりするのだけど、やはり気に入らない。 こういう作家は、たぶんいつまでたってもウマが合わないのだろうと思う。 小説家として以外の、評論家だとかなんかそういうところでのインテリとしての筒井康隆はたぶんそれなりにセンスがあるのだろうと思うのだけど、特に何か極端なこだわりがあるような人には思えないんだよなぁ。 ただまぁ、それはいいんだ。 大事なのは、気に入るほうの作家だ。 津村記久子の小説は、読み始める前から、これは俺にとって充実した読書になるだろうという予感があった。 それはたぶん、ツイッター上でフォローしている、俺が割と信頼を置いている読書家の感想を目にしてからのことだ。 あとは、会社員やりながら書いていることだとか、タイトルの感じだとか、装丁の感じだとか、とにかく、それらのもろもろすべてをなんとなく評価しての、なんとなくの感覚である。 気に入るだろうと予想しながらも、何度も手に取りながらも読み始めないでいる作家というのもたまにいて、たとえば俺にとってはクンデラがそういう作家だったということは、前にこのブログのどこかに書いた。 そういう予感があったから、どんな作家なのかちっとも知らないくせに、出版順に網羅的に読んでいくかということにして、最初に手をつけたのがデビュー作の『君は永遠にそいつらより若い』だった。 そこから、『カソウスキの行方』、『婚礼、祭礼、その他』と来て、次がこの『ミュージック・ブレス・ユー!! 』である。 なんつーか、良いものに出会った直後にそれを褒めるときって、あまりにも言葉が出てこないものだけど、今もさっき読み終わったばかりだからそんな感じ。 それまで読んだ小説でも、「あぁこの人はロックを聞いてきた人だなぁ」というのは明らかにわかったのだけど、それを正面から扱ったのがこの小説とでも言うべきか。 かつての、それこそ高校生だったころの俺を知っている人なら、俺もたいがいロックにイカれていたということはわかってもらえるだろうと思う。 18歳のころからは、50枚以上のCDをリュックに入れて持ち歩き、電車の中などでガチャガチャとポータブルCDプレーヤーを開いて入れ替えながら、いつでもヘッドフォンを耳に当てていた。 高校生の俺はどちらかというとU.Kだった。 Bloc Party.、Franz Ferdinand、Kasabian、Keane、Hard-Fi、22-20s、Kaiser Chiefs、Razorlight、The Subways、The Zutons、Snow Patrol、その他多数のもはや名前も思い出せないバンドたち。 たぶんここに挙げたバンドのほとんどが2004年か'05年のデビューのはず。 俺が高校2年生から3年生のとき。 当時は「ポストパンクリバイバル」だとか「ニューウェイブリバイバル」だとか言われてて、それを言い出したのはもちろんrockin' onだとかの業界なわけだけど、なんの知識も持たないただの飢えた子どもだった俺みたいな若者は、雑誌だとかCD屋で必死で情報を探るしかないわけで、業界の言葉には敏感にならざるをえない。 それに触発されてGang of FourとかThe Pop GroupとかエコバニとかP.I.L.とか聞いたけど、もはやなんの印象も残ってないのがちょっと虚しい。 当時の俺は、音楽こそが人生なのだと思っていた。 というよりも、音楽は人生よりも大事なのだと思っていた。 しかもたぶん、この小説の主人公のアザミほどにも、人と関わってはいなかっただろうと思う。 それこそ、トノムラぐらいに、人と関わるのは下手だっただろうと思う。(それを認めるようになったのは、つまり「俺は人付き合いが下手なのだ」ということを認めるようになったのはけっこう最近のことだけど。) 勉強をしたという覚えもないし、将来のことなんか少しも考えなかった。 親の追及をかわしたくて予備校にかよったりもしたけれど、予備校に行っているふりをして、予備校のある街の大きなTSUTAYAに行っていた。(思い出すと、親に頭が上がらない思いで泣きたくなるが) そこは品ぞろえが多摩地方で最大というところで、しかもプレーヤーが置いてある視聴コーナーがあったので、ずっといられた。 視聴コーナーからは思いっきり駅前の遊歩道が見下ろせるようになっていて、その風景は今でもすぐに思い出すことができる。 このブログを始めたのも、俺と同じように音楽に飢えている誰かが、少しでも新しい音楽を発見できる助けになればいいと思ったからだ。 それから、俺は人生について、当時よりは少しはよく知るようになった。 Badly Drawn Boyの「歌は答えなんかじゃ全然なくて、ただの人生のサウンドトラックだ(And songs are never quite the answer, Just a soundtrack to a life)」という歌詞や、イエモンの「僕が犯されたロックロールに希望なんかないよ あるのは気休めみたいな興奮だけ それだけさ」という歌詞を、なんの抵抗もなく受け入れられるようになった。 音楽は人生そのものではないし、ましてや人生よりも大事なものではないけれど、人生を助けてくれる、彩ってくれるものだ。 今は、そういう位置づけで音楽とは付き合っている。 数か月前に、2006年から使っていたPCが壊れて、それとほぼ時を同じくしてiPodも壊れた。 それで、俺がため込んだ音楽データのほとんどが消えた。 もちろん、バカみたいな量のCD-Rをひっくり返せば、そこから再現できなくはないのだけど。 もはや、それをやる気にはならなかった。 去年の12月にiPhoneを買うときに、他の在庫がなかったのでたまたま64GBのやつを買っていた。 そこで、まぁとりあえず必要そうなものだけをiPhoneに取り込んで、それ以外は放っておくことにした。 そういう基準で選んだ、今の俺が必要だと思うバンドたち。 それすら、無ければ無いで、それなりに生活できてしまうのだとは思うけれど。 Antony and the Johnsons Arcade Fire Badly Drawn Boy Bloc Party. Bruce Springsteen Cat Power Chrisopher Cross Coldplay Damien Rice Death Cab for Cutie Fountains of Wayne The Hooters Jack's Mannequin John Frusciante John Mayer Johnny Cash Kanye West Lady Antebellum Manic Street Preachers Mates of State Meat Loaf Metronomy New Order Prince R.E.M. Red Hot Chili Peppers Rod Stewart Sade Sam Cooke Stars The Stone Roses Tegan and Sara U2 Van Morrison なんというか、自分でリスト化してみて、「なんか、オトナやなぁ」という印象を抱いてしまったけども。 Chrisopher CrossとかRod Stewartとか、昔の俺が見たら「お前マジかよ」って感じだろうけども。 まぁそれでもロック寄りのものを集めてみると、こんなもんだろうかねぇ。 Kanye Westは、ほとんどロックみたいなもんだろ。 ま、これぐらいあれば飢えで苦しむことはないかな、という感じで選ぶと、こんなもんなんだろうねぇ。 ちなみに、Fountains of Wayneは『君は永遠にそいつらより若い』を読んでから入れた。 Mates of StateとTegan and Sara、Cat Powerあたりは俺のシュミなんだけど、なんでMetronomyが入ってるかというと、ちょっとヒネったのが聞きたくなったとき用、なんだろうねぇ。 今まで気づかなかったけど、'70年代より古いのがほとんど入ってないんだな。 Johnny Cashは「American Recordings」シリーズだけだしな。 こうしてみると、あの頃アホみたいに聞きまくってたバンドたちの、ほとんどがもはやあまり聞くこともないんだなぁと気づかされる。 上に挙げた、2004年ごろデビューのバンドたちのうち、今のiPhoneに入っているのはBloc Party.ぐらいか。 それすら、たまにあのドラムが聞きたくなったとき用に入れてあるだけで、実際にはほとんど聞かないもんなぁ。 あの、熱にうかされたような日々はいったいなんだったのだろうと思わなくもないけれど、「グルメ(美食家)であるためにはグルマン(大食家)でなければならない」って上野千鶴子も言ってるしな。 それで、グルメになって残ったのが、「ロック」というテーマでこのリストですかぁってのも、なんか、お行儀よすぎかな。 でも、これでたぶん飢えは十分にしのげるんだよな。 特に、Antony and the Johnsons、Bruce Springsteen、Coldplay、Johnny Cash、Prince、Van Morrison、このへんの主戦級たちさえ残っていればなんとか。 『ミュージック・ブレス・ユー!! 』についての話に戻りますけどね。 音楽聞いてたあの頃っていうのもあるんだけど、高校っていうのも確かにこんな感じのとこあったわぁ、と思わされるところもいろいろ。 人と人との距離感っていうかね。 津村記久子の小説には、いい感じの女のコがよく出てくるよね。 それに反して、いい感じの男のコがほとんど出てこないよね。 もうホントに、自分が男であることの嫌なところをまざまざと見せられるようで。 俺は高校生の時分には、たいそうイヤで醜くて汚い人間だっただろうなぁと、今となっては自分でもそう思う。 そして、そこから演繹して、今でもたぶん他人にとってたいそうイヤなやつなんだろうなぁと思うと、背すじがヒヤッと冷える。 津村記久子の小説には、そういう力がある。 いつも、倫理を突きつけてくる。 そうでない文章作家がいるのかといえば、まぁすべからく文章とは倫理を問うものだと言えるのかもしれないけど。 まぁそんなふうに一般化することには大した意味はなくて、つまるところその問う対象だったり切り口だったり角度だったり、問い方こそが作家性なのだろうけど。 それで、津村記久子は良い作家です。 いや、ホントに。 どこまで行っても絶対に俺には書けない文章がある、と思うわな。 ファンです。
JUGEMテーマ:読書 たぶん、このタイトルは、英語で思考してみる人の頭から出てくる一言だよなぁと思いながら、手に取った。 「そいつら」というところには辛辣さを感じるし、面白そうだと。 You're forever younger than them.(?) こういう、単純な事実を簡単に言うのは、英語のほうが上手い。 初出を見たら、元のタイトルは「マンイーター」といったそうですけども。 そう聞くと、確かにそれはそれでふさわしいように思える。 どんな名を冠するかによって、やはり印象は変わる。 あんまり正しくあろうとし過ぎると、何もかもが、というよりも人生が、他人事になる。 しかし、正しくあろうとしなければ、人生なんてでたらめで面白くもない、というのもまたおそらく事実だ。 この小説の主人公のホリガイさん、とても好きだ。 とっさの場面でしょーもないことばかりが口をついてしまって、いつまでたってもまともに人と関われてる気がしない。 自分をなだめすかして、説得づくでおとなしくさせておいて、それだからいつまでも自分は欲しいものにありつけないのだと責める。 自分が欲しいものにありつけないだけならまだしも、そのことでかえって他人に対してもおろそかにしてしまったような結果になる。 繊細で聡明で、自分の人生を台無しにしないように気をつけているせいで、なんだかいつの間にか部屋で一人きり、しょーもないことばかりをして過ごすようになっている。 人生を大切にするって、こういうことだったかな、と首をかしげる。 まぬけで笑えて、やっぱりちょっと悲しい。 何もかもに対して正しくあろうとすると、ただヘラヘラ笑っているだけの味気ない人になる。 それでいけないか、と問われれば、少しもいけなくないけれど。 ただ、それも一つの利己主義の現れというか、ただ保身のための日和見だとしたら、やはり醜いだろうとは思う。 ホリガイさんは、ようやく自分の捨てきれないこだわりと向き合い、そうと決まればパワフルに突っ込んでいく。 平等性だとか正しさはひとまず棚上げだけど、その姿は人間的で魅力がある。 それに、そこにしか人生はないのだろうとも思う。 小説の出だしから幕切れまで、一貫したテンションの文体で統一しててすごいなぁと思う。 全体の構成も、部分の細かなつくりも、ゆきとどいていてすごいなぁと思う。 俺は近ごろピアノを弾き始めて、弾いていると途中からだんだんリズムが狂ってくるのだけど、まぁでも楽しみで弾いてるんだから今の俺が楽しんで弾きたいリズムで弾けるんならなんでもいいや、適当に指にまかせてやっちゃえやっちゃえ、と思う。 ダメに決まってんだろ。 形式に向かって自分を合わせていくために、ピアノの前に座るのだ。 でたらめに楽しみたいだけなら、さっさと布団にもぐって眠っちまえ。 やっぱりここまで完成させてこその、小説だよな、作品だよな。 笑えて、考えて、いい小説だ。 「そんなふうにいろいろ考えつつも、言ってしまったら河北うんぬんよりも自分の道徳がおしまいになってしまいそうなので、思ったことをたらたら言ってしまわないように自分に緊張を強いた。」 p.162 「どうして今になって、他の人から口づてにきくような破目になるのだ、と自分を責めた。もっと早く、もう一度あの人に会いたいんだ、会わせてくれと言い張ればよかった、そんなことをわたしのような人間が言うなんておこがましいだなどと、自分を欺瞞している暇があれば。」 p.179
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