This Is The One! - innocent -俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。
|
一定期間更新がないため広告を表示しています
posted by スポンサードリンク |-|-
JUGEMテーマ:恋の話
それには波があるのだが、発情するときがある。 そうなると、もうダメダメダメダメ。 女のコがまぶしくてまぶしくて、匂いなど嗅ごうものなら泣きそうになる。 そしてもちろん野暮で甲斐性なしの俺は、街にちりばめられた輝く女性たちのただ一人にも、触れられない。 行き場が無くてやり場が無くて、泣きそうになる。 俺を知ってくれれば、信じてくれれば、誰よりもいいオトコだってわかるはずなのに。 俺は誰よりもまっすぐな情熱で君だけを見つめるのに。 そう、何も手に入れていない時点で、始める前の時点で、それは簡単そうに見える。 お互いにたった一人を見つめ、愛しぬくこと。 しかし愛とは迷宮であり、始める前に描くそのヴィジョンは幻影である。 人生のあらゆるテーマがそうであるように、愛もまた、挫折の物語である。 敗北し、挫折し、傷つけ、傷ついてなお、発情はくり返し訪れるのである。 まるで、その間に起こったすべての出来事など無かったように、以前と変わらぬ輝きをともなって。 3人連れの少女たち、いったいどこの町に行けばこんなに可愛らしい少女たちが何人も同時に暮らしているのだろうか。 およそ目に付くすべての愛らしい女性たちと固有のドラマを演じてみたいという欲望をおさえることはできない。 現実には、始まるものしか始まらないし、一つを始めるということは一つが始まらないということなのだ、と知っていても。 その願いもまた、叶わない。 つまり、どの道に転ぼうとも、達成などというものは用意されていないのである。 発情とは、まぶしく甘いものでありながら、誘い込まれた者が期待するような報酬を与えることは決してない。 愚かなり。 そのようなあり方しか取れぬ欲望が愚かだ。 そのような欲望に惑わされるのを喜ぶ自分が愚かだ。 どの道愚かなら、発情の甘い幻影だけを見つめて、いつまでも始めずにいるか。 あるいは、愚かであることに居直って、期待と挫折の輪廻に溺れるか。 若いということは、必ずしも羨まれるようことでは、決してないのである。
JUGEMテーマ:音楽
俺は今、副都心で暮らしている。 生まれてから1年前まで暮らしてきた町、いわゆる「実家」は、都下中西部の武蔵野三多摩地域だ。 実家から今の住居まで、自転車でちょうど1時間ほど。 国道で坦々とペダルを回し、気が向いたら小道をのんびり走り、特にフラストレーションや疲れを感じることもなく、いつの間にか副都心に入っている。 我が家は副都心の入り口付近というよりも、さらにその内側に少し入ったところにある。 そのあたりは家賃が高いだろうと驚かれるのだが、実際はそうでもない。 副都心の入り口付近と家賃はまったく変わらない。 しかも、少し内側に入ったほうが、実は住むのに適しているのである。 副都心の入り口付近は、国道や高速道路に囲まれて、落ち着ける風情がない。 我が家の付近は、古くからの居住地域で、穏やかな空気が保たれている。 我が愛車、クロモリフレームの長距離型ロードバイクに乗っていると、自転車好きの友人から聞いた言葉を思い出す。 あるロードレーサーの言葉として紹介していた。 「簡単なことだ。ペダルを踏んでいれば、いつか必ずたどり着く」 そのとおりだと思う。 自らの赴くところを知り、正しい道をたどっていれば、ペダルを踏んでいる限り必ずたどり着く。 それを知っていれば、いつ着くのか、今どのあたりにいるのか、考えたり心配する必要はない。 物事は、非常に単純に、すっきりと整理され、クリアになる。 まず準備。 赴くところを知ること。 正しい道をたどること。 その準備が正しくできていれば、もはや思い悩む必要はない。 All you do is, just go. ただ、ペダルを踏むだけ。 もしも途中で力尽き、倒れたら? That kind of question doesn't mean nothing. 死んだあとのことについて、考える理由も、意味もまったくありはしないのと同じことだ。 そのときは、そのとき。 ただ行き倒れた。 それだけ。 人生は、ときにそれほどシンプル&イージーなものだ。 ただ、心を開けば、そこに人々の心が流れ込んでくるから、ときにシンプル&イージーではいられなくもなるけれど。 動画は、特に関係ないが、今日の昼間にマーティン・ルーサー・キング・ジュニアについての漫画を読んだのがなんとなく気分に影響しているような、いないような。 かつて、ブルース・スプリングスティーンの若き日('78年)のギタープレイを見たとき、まるで体からギターが生えているようだと思ったものだが、トム・モレロはまるで腹の中にギターが埋まっているようだ。 なんか普通にすげーギタープレイヤーみたいに思ってたけど、そういやこの人ミクスチャーの人だった、ということを思い出させる、特徴的なソロ。 なんか近ごろのアメリカのポップシーンももう10年ぐらい80'sリバイバルでチャラチャラしすぎてるから、そろそろ90'sリバイバル来るかもね。 硬派のロマンってのもあるよ。
ある年配の男性のブログで、こんな内容を読んだ。 お気に入りのジャズについてフェイスブックに投稿したところ、若い女性の知人から「おすすめを教えてください」というコメントが付いた。 彼はこのコメントに対して戸惑う。 おすすめといっても、彼女の趣味も知らないし、どんなものを聞きたいと思っているかもわからない。 言えることといえば、好きな曲をいろんな演奏で聞いてみるか、好きな演奏家でいろんな曲を聞いてみるか、好きな年代やジャンルでとにかくいろいろ聞いてみるか、そういうことしかないだろう。 これがポップスなら、もう少し違うのだろうが、と彼は言う。 この論点において、ジャズとポップスにどのような違いがあるか。 ジャズは基本的にライブ演奏を中心とした「ナマもの」の音楽であるのに対して、ポップスは録音編集を前提とした複製ものの音楽であるということ。 「ナマもの」の音楽というのは「体験する」ものであるから、おすすめしようにも、あなたがそれと出会うよりほかない、ということであろう。 いよいよ本格的に育ちつつあるこの情報化社会という情勢を背景として、「体験」というのはいよいよ薄れゆくと同時に、薄れゆくからこそトピックとしては前面化してきている。 音楽のライブにせよ、絵画にせよ、まあとにかく再生不可能な「一点もの」の芸術は特異なものになりつつある。 かつては、もちろんあらゆる芸術がそのようなものでしかありえなかったにも関わらず、である。 それが他人に共有されようとされなかろうと、芸術的な体験というものは、ただそれだけでよい。 あらゆる人生が、誰に覚えてられなくとも、ただそれだけでよいのと同じように。 しかし、この情報化社会においては、エスタブリッシュされ、きちんとあるべき位置を定められた芸術、つまり他人にそれと説明できる芸術以外のものは、とるに足りないものとみなされることになっていく。 情報化社会の起源の一つともいえる、文字媒体というものは、そのような社会と親和性が高い。 ポップミュージックにせよ、書き言葉にせよ、いつの間にかそういう形式を好んで選んできた自分の志向(嗜好)を省みる。 しかしそれはそれとして、情報化社会の芸術メディア(?)としてのブログを、やはり今日も更新するわけである。 さて、冒頭に紹介したそのブログの主は服飾(生地)の専門家であるから、例えばそれなりの歳を重ねた男性から「おすすめの服を教えてください」などと請われたら、「自分に似合う服ぐらい自分で知っていろ」と一蹴するだろう、と書いている。 多数の人目を引く大文字の芸術だけが、この世の芸術ではない。 この情報化社会において、記録に残すことができて、追跡検証可能なもの以外は、ほとんど無価値とみなされかねない情勢である。 しかし、誰にかえりみられることもない日々の中で、常に確かに生まれゆく無数の芸術について、人々がついに目を向けることもしなくなるならば、生きることはただの目的合理的な作業へと単純化されかねない。 彩りを無くしたその生活はまるで、生涯閉じ込められた囚人の生活のようである。 例えば、今日の私がいつになく素敵に装う、服装と自分自身がほかでもない調合いを奏でることに対する喜び。(たとえそれが誰に気づかれなくとも) それらは決して書物にも美術館にもインターネットにも残されはしないが、人の心を喜ばせる、ただそれだけで完成する一つの芸術になりえるのである。 あるいは、ただ風にそよぐ木々に目を向け、そこにある芸術的な光景を喜ぶだけでも。 この彩り無しに、我々はどうやってこの命を祝福できるだろうか。 この彩りがあるならば、生涯逃げ場のない囚人の生活であっても、生きるに充分に値するのではなかろうか。 en → ja
の記事を
(C) 2024 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.
|