This Is The One! - innocent -俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。
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JUGEMテーマ:日記・一般
日曜日。 今日は本を読んで暮らすつもりだったのだが、洗濯物を干したときの天気がよすぎた。 乾いてさわやかに、天は抜けて、街は平和だった。 俺はどうしても、この貴重なまでの好天を活かしたくなった。 ベランダに置いてあるロードバイクを引っ張り出し、東京湾に向かった。 東京を味わうなら東京湾。 レインボーブリッジを、自転車を押して渡れることを知っていた。 我が居住区の新宿からレインボーブリッジを目指すと、おのずと東京名所めぐりになる。 四谷を通って半蔵門当たりから皇居の脇をぐるっとまわり、日比谷から銀座を抜け、築地と汐留のあいだをかすめて芝浦へ。 日曜日の街はとてもにぎわっていて、初めて通る道や名所は目と心を楽しませてくれる。 東京を、全身で感じる。 実にいい天気。 開放的な気持ちになり、とても快く楽しんでいる。 しかし、こういうときこそ、寂しさも染みるのだ。 ニューヨークを歩いていたときもそうだった。 面白いものをたくさん見て、開放的な気持ちで新しい体験をしているようなとき、人は誰かとその時間を分け合いたいと思うものだ。 もしも、自転車に乗る俺の横に愛すべき誰かがいたならば、俺たちは感想を言い合って、満たされただろう。 気持ちよく何もかもを受け止め、忘れていくだろう。 現実には俺は一人で自転車に乗り、新しい体験への感嘆も、心に浮かぶ感想も、吐き出す先を見つけられずに溜まっていく。 考えごとばかりが捗っていく。 もしも、自転車に乗る俺の横に愛すべき誰かがいたならば、俺はこのブログの記事を書いていないだろう。 もしも、人生の様々な局面や変化を分け合える愛すべき誰かがいたならば、俺は今後何も書かないだろう。 考えごとは何も煮詰まらず、誰かと分け合った感情の思い出だけが残る。 それは単なる幸福であり、必要性に基づいた生活が営まれるだろう。 それに耐えられなかった自分のエゴと虚栄心と愚かさを恨むときもある。 俺は飢えていたかった。 欲しいものが手に入らないときの、何をすればいいのかとアタマをめぐらし、自分と世界を観察しながら凝縮していく濃密さを求めた。 幸福と、本当の意味での人への貢献を捨てることになるのはわかっていた。 誰かの役に立ちたいという自分の言葉が嘘になると気づいていた。 それでも、自分の気の済むように、何か自分の思うままにつくりだせる領域を確保したかった。 誰かのために生きる幸福に、俺は我慢ならなかった。 もっと寂しくなりたかった。 未熟なのだ。 本当に誰かに貢献したいと本気で言えるほど、大人じゃないのだ。 誰かを救おうと、誰かをあたためようと、誰かと抱き合おうとして近づく。 同じ痛みを持った二人なら何かをできるんじゃないかと期待もして。 それで結末は、誰かに向けて手を差し伸べた、その手で相手を痛めつけるのだ。 また一つこの世の中に涙を増やし、未熟さを痛感し、それでも生きるしかなくて、あきらめないことだけが誠実な態度だとそう思い込むことにしか救いはないから、あきらめずに少しでも学ぼうとする。 そうやって生きてきたし、今も生きてる。 エゴイストで意気地なしで愚か者。 知ってても、やめる気もないから、救いはないのかもしれない。 こうやってブログを書いてる自分を、けっこう好きなのだ。 こんな好天の日曜日にも、レインボーブリッジは人気も少なく、東京湾の空気をのんびりと楽しめる。 橋の上で自転車に乗らないために後輪に付けた台車がカラカラとのんきな音をたてる。 中空を自分の足で歩きながら、どこまでも巨大建造物に囲まれて飾られた広い水面を遠くまで見わたすという、特異な体験。 もっと右を見わたすと、東京湾はずーっとつづいている。 お台場に降りたあとは、海浜公園のところを先っぽの日航東京のところまで行き、道なりに左に折れて青海埠頭を見学し、そのまま道なりに左に折れて、お台場を左回りに一周した格好になったところで、国際展示場を正面に見る方角に右折し、パレットタウンを左手に見ながら有明のほうへと向かった。 まだ書き途中なのだが、降旗監督と高倉健の『あなたへ』が9時からテレビ朝日でやるので、いったんやめる。 後半の予告 ・カネが蓄積されて賃金ではなく投資に向かうことについて ・建造物が与える「パワー」の感覚について ・現代生活のアディクトとも言える「パワー」の感覚が男女関係にも与える影響について などになる予定。 さて、本当にあるのでしょうか。
JUGEMテーマ:詩
前回の記事のうどん屋は、俺の3つある最寄り駅のうちの1つのすぐそばにある。 その駅には、俺が借りている部屋を管理している不動産屋もある。 毎月一度、その不動産屋に家賃を支払いに行く。 今日も行ってきた。 ついでにうどん屋に寄ろうかと思ったが、土曜だからなのかやっていなかった。 不動産屋の上の階が、どこにでもありそうな庶民的な中華料理屋だったので、そこにした。 30年程度はつづいていそうな、時間が馴染んで定着して落ち着いた店内だった。 道路に面して大きな窓が並んでいて、そのうちの一つが開いていたので、その窓のすぐ下に座った。 やわらかい空気の流れを感じながら、見慣れた道路を、いつもとは違う角度からゆったりと眺めていた。 過ぎ行くクルマたちの秩序だった動きや、向かい側のマンションの上階から空にかけてなど眺めながら、「平和」とはきっとこういうことだろうと思った。 ビルの数々も、テーブルも、中国語と日本語をあやつる店員のおばさんも、何もかもが居場所を見つけ、そこにあることに満足し、それぞれを風がやさしく撫でていた。 ふと厨房のほうを見ると、カウンターの上に大きなタペストリーで「和 平」と書かれていた。 それがこの店の名前らしい。 気取りもなく、無理もなく、我慢もなく、ただ予想したとおりの食事が出されたところを食う。 食い終えたら、ポケットに入っている財布の中から900円を払い、店を出て自転車に乗れば、暑くも寒くもない空気の中をくぐりぬけ、安らげる我が部屋に無事に帰りつけるとわかっている。 昨夜、5人の客が俺の部屋に泊まりに来た。 男性3人が眠りこける横で、俺と女性2人はとりとめもない話をした。 その2人はどちらも賢くて、よく働く、愛らしい女性だ。 それぞれの個性と味を持っている。 2、30年も生きていれば、もちろんいろいろなことがある。 今まで知らなかった、2人のいろいろな話を聞いた。 中華料理屋で平和を味わいながら、俺は物事を単純に考えた。 妄念に憑かれて物事を複雑にしてしまわないよう、自分の暮らしぶりについて考えた。 「女性を抱くことに頑張るのはやめよう」 人生で何度目かになる、同じ誓いを立てた。 恋愛をあきらめる、ということではない。 女性を抱くことを目的にして手や力を尽くすことをやめる。 どんな瞬間でも、そこにある滋味を楽しむことに勤しもう。 女性と過ごす幸運な時間には、女性を抱くことではなく、女性の愛らしさを楽しむことを目的にしよう。 「働く人々がもっと幸せになる世の中のあり方を考えよう」 俺の今の生活において、もっとも重要な2つの構成要素のうちの一つが、仕事だ。 俺は自分の人生を学ぶことに捧げるつもりだが、学んだことを何かに活かすとしたら、後世の人々が暮らしやすくなるために活かしたい。 仕事についてよい世の中にできれば、この世はずいぶんと暮らしやすいものになると思う。 現代社会を生きる俺がそう言っている。 「なべてこの世はラブとジョブ」という露骨な表現が、長嶋有の小説にある。 人間、文明、いろいろあれど、大きくはそんなところだろう。
仕事帰りにときどき立ち寄るうどん屋がある。 店主は本物の老人で、70歳は確実に超えているように見える。 腰の曲がりかけた爺さんが、カウンター席のみ10席ぐらいの店を一人で営んでいる。 俺はそこのうどんが好きで、いつか爺さんが店に立てなくなる日は遠くないんじゃないかという不安から、迷ったときにはだいたい行く。 冷たいうどんは、とろろやなめこおろしなどの具材をたっぷり楽しめる。 温かいうどんは、つゆが抜群に美味い。 何を頼んでも、爺さんはいつも「おまけです」と言って、カウンター上に置いてある天ぷらを一つくれる。 控えめで、仕事以外のことに対してはほとんど興味を向けない。 かつては、気軽にうどんを食べると言えば、駅などにある立ち食いそば屋しかなかった。 あれはつゆが濃すぎて味わいがないし、麺はふにゃふにゃだった。 中学生のころにはなまるうどんができたとき、麺もつゆもあんなに美味くて一杯100円からだというのだから、革命的だった。 吉祥寺に遊びに行ったときなどは、伊勢丹の横の地下にある店に決まって行ったものだ。 爺さんのうどんは、はなまるや丸亀製麺とも違う、爺さんの美味さがある。 爺さんが倒れたら、この味は二度と食えないのだと思うと、当たり前のことのはずなのに不思議な気持ちがする。 失われたものには、二度と出会えないのが普通のことのはずだ。 たとえばAmazonのレビューのように、8年前に見ていたのとまったく同じものが残っているものがある。 ただ残っているだけでなく、フォントや体裁も更新され、今日書かれたレビューとまったく同じ顔つきで載っている。 はなまるや丸亀製麺は町中に溢れていて、こちらも更新されていく。 ある日突然消える、断絶するということが、まったくの自然だと感じないのも無理ないのかもしれない。 爺さんのうどんを少しでも長く食べたいから、応援したいと思うけど、俺にできることと言えば店に行くぐらいだから、迷ったときにはだいたい行く。
JUGEMテーマ:音楽
近ごろHip Hopをよく聞いている。 いろいろと調べる中で、Amazonのレビューなど見ていた。 俺が音楽漁りにはまっていた2005年ごろ、Amazonのカスタマーレビューを大いに参考にさせてもらった。 あの頃、趣味について一言いいたくてもその場を得ていなかったような人々が、新しい発言場であるレビューという場所に書き込むのを楽しんでいたように思う。 作品の情報を無償で提供する、単なるボランティアなのだが、自分の好きなものを紹介する楽しみがそこにあり、俺のような情報に飢えているマニア初心者みたいなやつが夢中でそれを読み、音楽を漁る参考にしていた。 今、ざっとAmazonのレビューを見ていて、一昔前に書かれたレビューの数がもっとも多いように感じる。 今やレビューという文化も普通のものになってしまったから、あの頃のような新鮮な楽しみの感覚も薄れたのだろうか。 近ごろ音楽を追っていないから、好きなバンドの新譜でも出てないかと検索してみた。 何よりも興奮したのは、Damien Riceの新譜情報が上がっていたこと。 「11月11日発売予定」と書いてある。 前作を出したのが、俺が熱心に音楽を聴いていた2006年のこと。 俺は1stの『O』(2002)が大好きだったが、新しい『9』も気に入っていた。 その後、彼の活動はだんだん減っていったと思う。 一緒に活動していた女性ヴォーカリスト(名前忘れた)と袂を分かったというニュースもどこかで目にした。 もともとが辛そうに音楽をやっていた人だから、きっと苦しんでいるのだろうと思っていた。 このまま、メジャーシーンには戻ってこないのだろうと予想もしていた。 ところが、8年ぶりの新譜が出るらしい。 さて、中身が予想つかないだけに、楽しみである。 一つの大きな懸念としては、11月に俺がそのことを思い出せるかどうかだ。 ま、よい。 知っていれば、必要な時には思いつく。 知っているということと知らないということの間には、決定的な違いがある。 今活躍中のバンドの中でも、俺がもっとも好きなバンドとして挙げられるぐらいに好きなバンド、The Soundsの新譜が出ていたことも知らなかった。 去年、すでに出ていたらしい。 最新情報を追っていないから、そういうことはいくらでもあるのだ。 その前のアルバム『Something Die For』(2011)が、俺にとってはかなりよい出来だったため、こちらも期待である。 今までの4枚のアルバムの中では、その『Something Die For』と、初めて聞いた『Dying To Say This To You』(2006)の2枚が俺のお気に入りだ。 死んでばっかりだな。 「お前ににこれを言いたくてしょうがねぇんだよ」だなんて、かっこいいタイトルだ。 聞いてみようかという気になってしまう。 それから、John Mayerの新譜も出ていた。 こちらも、去年出ていたらしい。 その前年にもアルバムを出していたから、まだだろうなどと思っていたのだが、2年連続で出していたようだ。 俺がJohn Mayerを初めて聞いたとき(2ndがTSUTAYAに並んだ頃だから、高1ぐらいだったろうか)、おしゃれな都会派シンガーソングライターで、ちゃらちゃらしてて好かないと思っていた。 それが今や、時代錯誤はなはだしい野暮ったいジャケットである。 「Your Body Is a Wonderland」や「Neon」を歌っていた人とは思えない。 俺が特に好きだったのは2006年の『Continuum』で、おしゃれさと渋さのバランスが絶妙で、歌も演奏もかっこよくて、ケチのつけどころがなかった。 ケチをつけるとすれば、あまりにも出来すぎているそのエリートくささが気に食わないことぐらいだろうか。 なんだかんだで、追ってきている。 なんだかんだで、好きなのである。 才能は文句なしだし、センスや嗅覚もありそうだから、この人の音楽とは、これからも長い付き合いになっていくのかもしれない。 久しぶりに昔みたいに、音と情報におぼれている、2014年の秋分の日。 こないだ、千鳥格子の服を着てる人を何人も見た日に会った女のコが千鳥格子の服着てたから、「千鳥格子流行ってんの?」って聞いたら「え、秋だからでしょ」って即座に返された。 たしかにー。 それにはちっとも気づかなかったけど、今日の空気は懐かしいほど秋。 Foo Fightersの新譜も11月11日に出るんだってねー。 前の『I'm With You』(2011)よかったレッチリはまだかなー。 The Soundsからたどって発見したSky Ferreiraという人のビデオ。 今どきってば、猫も杓子もニューウェイヴね。 みなさんブロンディー聞きましょうね。
JUGEMテーマ:詩
実家を出て一人暮らしを始めると決めた時、締まりのない自分が嫌だった。 実家の自分の部屋にいるとき、あまりにもゆるみきっていた。 自己というものは、他者との境界によって決定される。 実家の自分の部屋には他者がいなかった。 そこには、自分にとって都合よく、慣れきって、無視できるものしかなかった。 甘えていた。 本当はそうじゃないはずのものすら、俺は奴隷みたいに無視した。 俺の部屋はもっと丹念に整理され、その機能と価値と可能性を存分に発揮していてもよかった。 俺は両親にもっと感謝と愛情を伝え、労わりあって助け合って生きることもできたはずだった。 しかし、俺は甘えていて、失礼だった。 集中力が弛緩しきった自室には、他者が存在せずに脅かされることがまったくないと同時に、自己もいなかった。 ぶよぶよに肥大化した自意識だけが停滞していた。 一人暮らしを始めて1年半が経つが、緊張感を保つのは難しい。 引っ越した当初は、この部屋をサイコーのものにしたくて、手入れをするのが楽しくて仕方なかった。 今では、すっかり溶けきってしまえるほど気を抜ける部屋になっている。 人間は、社会的な生き物だろうと思う。 誰かと一緒にいるから、張り合いがあって、力を使っているから疲れると同時に、次に踏み出す力も湧く。 そこをサボってもいい、というのが、現代の病の元凶の一つではないかとも思う。 一人で自室にいても、自分自身を保っていれば、活力も生きがいも湧くものだ。 自分自身を保っていれば、自分に対して失礼にもなれないし、生きるために必要な様々な世話を焼くことに辟易しない。 自分は常に一人きりではない。 そこには、絶対に常に何者かがいる。 そして極めつけには、そこには自分自身という何者かが必ずいる。 それに対して、無関心をきめこむのは、失礼だし、嘘だ。 この世の掟はそうなっている。 俺は今以外の時代を知らないけれど、少なくとも今の時代を生きている俺にはそう思える。 もしも人間らしく、幸せに生きたいのなら、この世の掟に謙虚になるべきだ。 あるべき姿を探り、その理に沿って生き、エゴを出さずにこだわらないのがいい。 もっとも自分らしく、あるがままに、清く生きるとはそういうことだ。 道は自分で決めるのではなく、見出すものだ。 しかし? と、俺の心はまだ少し逆らっている。 どうして俺がそれに付き合わなければいけない? 俺が望んだ世の中か? 俺がそうしたいと言ったか? 俺がそうしてくれと頼んだか? 俺は、俺が生まれる前からそこにあったものを、まだ少し疑っている。 本当にこれは、いいものか? 俺は本当にここにいて、本当に生きているのか? 自我?自分自身?それは確かか? どうも、キリスト教も、東洋の智慧も、とても賢くて正しくて、そこそこあやしい。 わからないことは、わからないままにしておく。 学べたらいいと思う。
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