This Is The One! - innocent -俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。
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我々は平日を費やしてカネを稼ぎ、休日にはどこかへ出かける。 たとえばお台場。 ヴィーナスフォートやダイバーシティ。 我々はいったい何を求めてそこに行くのだろうか。 我々が現代的建造物の中を歩く時、そこにあるのはパワーの感覚だ。 腕力、権力、財力、支配力。 石や金属やガラスは、人間を寄せ付けないほど硬く、強い。 それらを屈服させ、思いのままの形に捻じ曲げ、我々のために従属させる。 それは人間という文明の勝利であり、その文明は平日の仕事によって成立している。 それらの建造物が建てられるためには、カネと権力の集約が必要だ。 我々の平日の仕事によって蓄積されたカネが、ある決断による計画の実施を受けて動き出し、人々が動員され、平日の仕事が生まれる。 その建造物に足を踏み入れるためには、その文明に貢献していることが資格になる。 その資格は、財力によって付与される。 その資格を持っていることは、それらしいサインを身に着けて赴くことで示される。 ある価格の付けられた商品を購入し、身に着けることで、自分がそれを購入するに足る財力を持っていることを示すのである。 パワーによって形作られた建造物に、パワーを示すサインを身に着けて足を踏み入れ、ときには新たなパワーを示すものを購入し、パワーを証明する。 我々がダイバーシティ東京を、新丸ビルやKITTEを、ヒカリエを、東京ミッドタウンを、ソラマチを、虎ノ門ヒルズを歩くとき、我々の恍惚に貢献するのはパワーの作用なのである。 ましてや我々が限定品を手に入れたり、流行を先取りしたり、いつもよりも思い切って高価なものに手を出したりしたとき、我々はさらに一つ高いところに昇ったのだと感じていて、自分は支配される側ではなく支配する側なのだと実感する。 そのときの我々に、限定品は次々に発表されるのだとか、流行の品を作っている人は流行についてもっとよく知っているのだとか、その高価なものは決して最高値ではないのだとか、そういう考えを吹き込む意味はあまりない。 どうせそのときには聞く耳を持たないのだし、どうせ遠からず自分からその事実に気づくのだから。 自分は支配する側の人間なのだと鼻高々になっていた1週間後には、我々はダイバーシティやヒカリエで買い物を楽しめるようになっても、伊勢丹や高島屋で買い物できるようになっていないことを恥ずかしく思うだろうし、銀座のブランドショップで顔を覚えてもらっても、アンダーズ東京やアマン東京の賓客として招かれていないことを恥ずかしく思うだろう。 我々は、友人や同僚に自信を持って披露できる休日の過ごし方をFacebookに上げながら、豊洲のタワーマンションに住んでいないことを恥ずかしく思っている。 我々の生活は、突き詰めれば、パワーをめぐる攻防なのである。 我々は平日の仕事で得たカネを持って、休日にはこれらの施設に行く。 では平日の仕事とはいったいどういうものかというと、これらの施設やサービスを生み出すためのものなのである。 これらの施設やサービスを生み出し維持するために日々働き、それらの施設やサービスを楽しむことに余暇を捧げる。 閉じた循環の中にいるから、もしも我々がこの生活を十分に楽しめるのなら、衣食住の不安も無い今、我々は一つの理想郷にたどり着いたことになる。 ところが、その生活に大きな苦しみが伴うのは、そこにパワーをめぐる攻防があるからだ。 我々は現在の生活に満足ではなく不満を感じるよう、モラルづけられている。 なぜならば、そうでなければ投資やイノベーションが生まれないからだ。 人々がローンを組んでマンションを買うから、人々の日々の仕事によって企業に蓄積された資本の投資対象があるのだ。 もしも人々が東京湾の見える高層マンションに住みたいと思わず、今住んでいる築20年の住居で十分だと考え始めたら、そこで使われるカネは修繕費程度のものになってしまう。 我々は未来に向けて成長を描くようモラルづけられていて、しかもその成長は他人よりも速くなければならない。 たとえ過去の自分に比べて格段にいい暮らしをしていたとしても、もしも同級生よりもいい暮らしをしていなかったとしたら、そんな自分は無能だと感じるのだ。 なぜなら我々の快楽とはパワーの感覚であり、パワーとは支配することを意味するからだ。 もしも我々が、自分は支配する側ではなく支配される側だと感じているとしたら、我々は現代の快楽から疎外されているのだ。 そして、当然のことながら、全員が支配する側に属すということはありえないし、パワーの大きさとは支配する領域の広さと同義だから、本当のパワーを実感できるのはほんの一握りということになる。 それで我々は、この理想郷を共有する人々すべてを、同胞や友人ではなく競争相手とみなすことになる。 俺のよく知らない世界ではあるが、広告代理店や商社やディベロッパーに勤めている人々も、あるいは起業家や経営者や投資家も同じだろうと思う。 格差問題がしきりに取り上げられる昨今、たしかに格差の下層にいる人々は引き裂かれる痛みを感じているだろう。 しかし同時に、格差の上層にいる人々も、決して遠くない痛みを感じているだろうと俺は思う。 たとえ400フィートのクルーザーを所有していたとしても、500フィートのクルーザーを所有している人との格差に耐えられないためだ。 もちろん、その日を過ごすのに不安にさいなまれなければならないほどの貧困はまた別の話だ。 しかしたとえば日本においては、たとえカネが上層のごく一部に収斂されていくとしても、それでただちに人々の暮らしが脅かされるほどではないだろうと思う。 それで、我々はいつまで苦しまねばならない? 上層の人々が自分たちからカネをかすめとっていくことに我慢ならないだろうか。 理想のライフスタイルのモデルを示すのが自分たちでないことに耐えられないだろうか。 マーケティングに失敗して自分たちが流行から取り残されることに怯えつづけるのだろうか。 フォーブスの長者番付の最上位に名前が載ることが、ビル・ゲイツの心の慰めになるだろうか。 しばしばオンナが理解していないオトコの気持ちがある。 別の言い方をするなら、あるオンナの気持ちをオトコがまったく理解していないということを多くのオンナが理解していない。 現代を生きるオトコにとって、オンナは誰でもいいのである。 オトコにとって耐えられないのは、オンナがいないという状況なのだ。 だからまず、誰でもいいからオンナが必要だ、という事実が一つある。 それに加えて、現代を生きるだいたいのオトコにとって最も重要なものはパワーだから、オトコがオンナに求めるのは価値の高さだ。 価値が高いものを所有する、ということはパワーの証明である。 若くて綺麗なオンナならば誰でもいいのである。 なぜならば、若くて綺麗なオンナが最も価値が高いとされているからだ。 そこに、料理が上手いだとか、モデルをしているだとか、そういう細かい付加価値が付けば、もちろんそれだけ価値が高い。 だから論理上、より価値の高いオンナが手に入りそうな局面ではオトコは当然に乗り換えるのであるし、価値を失ったオンナをオトコは当然に捨てるのである。 オンナはしばしば、オトコが彼女を個人的な理由で求めているのだと考えるが、オトコにとって彼女は一個の価値であり、ただそれだけだ。 その辺りのことをわりと理解しているオンナは、しばしば「ただヤりたいだけ」と達観したような表現をすることがあるが、これもそれほど正確ではない。 オンナを抱く、というのはオトコにとってただの事実の回収に過ぎず、肉体的快楽はそこでは問題ではない。 価値の高いオンナを抱く、というパワーの感覚が、オトコに快感を与えるのだ。 俺は自分の、そういう男性的側面が嫌いだ。 男性的側面というか、男根的側面というか。 俺は何度か、自分のその側面に直面して傷ついた。 そして俺がそういう自分の内面に直面して傷つくとき、それを俺に思い知らせた誰かはもっと傷ついていただろうと思う。 一方で、俺は自分のそういう側面にしたがって、もっと「論理的に」行動できたらどんなにいいかと思うときもある。 女性はすべて自分にとって自分の能力と価値を証明する存在であり、そのことに快楽を得て、こだわらずに流れるように生きていけたらどんなにいいかと。 女性を抱くことは自分の社会的能力を証明することであり、その快楽に浸って生きるのは現代的な軽やかでスタイリッシュな生き方なのではないかと。 しかし、俺にはできない。 俺にそれができるかもしれないと考えたこと自体、ずいぶん突飛なことだ。 自分がららぽーと辺りで買い物するだけで満足に生活できる人間かと問うてみれば、そんなこととてもできそうもないと思えるのに、女性に関してだけそれができると一時的にでも思うというのは、俺の女性に対する捩れた劣等感を表しているかのようでもある。 俺はそれをしてみようとするたび、一人目の女性につまづいて引きずられて、順調に次に進むということができなくなる。 彼女に関する疑問が俺の中に渦巻き、彼女と対していたときの自分に関する疑問が俺の中にうずまき、次の女性に進めなくなる。 彼女との会話や、彼女の体の動きや、彼女の目や顔や、彼女との生活が思い出されて、動けなくなる。 そうである必然性はないのだ。 論理的に、もはや彼女は俺とは何の関係もないのだ。 論理性も、理由も無いことが、人生を決定づけていく。 一人の女性を大切に扱うというのは、不思議な生き方だ。 そうである必然性がまったくない。 彼女に関する、あるいは彼女とかかわることで生まれるすべての出来事や問題を、俺はいつだって捨てていいのだ。 それは俺の人生ではないのだ。 しかしそれでも、あなたのことを引き受けると、その覚悟と信念が、結婚なのだろうか。 とすれば、結婚とは宗教ととても似ている。 『ツリー・オブ・ライフ』という映画を見た。 久しぶりの映画だったが、ブラッド・ピットとショーン・ペンが出ているからという理由で見た。 キリスト者たる登場人物たちは、神を求める。 理由を、必然性を求める。 「Keep us. Guide us」 もちろん、神は現れないし、理由や必然性など示されない。 「求めるから苦しむんなら、そんな信心捨てちまえ」と何度も思った。 しかし、結婚とは信心なのだとしたら、キリスト者のその気持ちもわからんでもない。 理由も必然性もない地平で、「それでもなお」何かを信じつづけるためには、強靭な精神力と妄念がいる。 それに耐えられそうもないから、せめて「誰かのせい」にしよう、自分で好きでやっているのではなく神に強いられてやっているのだということにしようと、そのほうが気が楽だろうと思う。 たった一人と一対一で向き合いつづける、というのは狂気じみた発想だ。 しかし、そこにいる女性はたった一人である、という命の重みが、俺が男根的生き方をできない理由だ。 先週の日曜日に見た『あなたへ』という映画。 最後のほうで、高倉健は妻のメッセージを「あなたはあなたの時間を生きて」という意味だと解釈する。 私は私の時間を生き、あなたはあなたの時間を生きる。 妄念でなく、見つめ続けるわけでもなく、さらりと寄り添い、寂しくもない。 俺は少しでもマシな、女性とのかかわり方を見つけられるだろうか。 どんな態度で、この理想郷とも言える現代日本を生きられるだろうか。 豊洲付近は、特にサイクリングに適した道があるわけでも、名所的なものがあるわけでもないが、サイクリングを楽しんでいると思しき人々が散見される。 俺が有明から豊洲へ渡る橋をわたっていたとき、俺の前には6歳ぐらいの女の子とその父と思われる二人連れが走っていた。 豊洲から晴海にかけて、どこもかしこもクレーンだらけで、その街がまだ建設途中なのは明らかだった。 父は娘に、「ここはこれからつくられていくんだ」と説明しながら、「いつか完成したときに、また見に来よう」と言っていた。 そのとき、この小さな女の子はティーンエイジの青春を迎えているだろうか。 父から娘への、未来へのその約束と、期待と、祈りを、俺は尊いものだと思う。 10年後に、無事に立派に成長した娘と、立派に完成したこの街をまた見に来られますように。 その未来への夢なら、俺も共有できそうだと思った。
実家に姉が帰ってきているので、また甥っこに会いに行った。
赤ん坊と触れ合っている時間は、何をしているわけでもないのに、不思議に濃密だ。 人見知りをするようになった彼が、半日をおいて俺に慣れてくれたあと、二人で寝っころがりながら遊ぶ。 俺は母や姉のように、赤ん坊に向けて明るくはしゃいでやるということができないから、赤ん坊の面白がりそうなことや動きをいろいろ考えてみせてやる。 相手の反応を見て、探りながら。 母や姉とは違った感触で、楽しんでくれていたなら嬉しい。 世の中にはいろんなタイプの人間がいるのだと、少しでも見聞が広がっていれば嬉しい。 実家にはケーブルテレビがあるので、久しぶりにスポーツをたくさん見た。 この季節、ヨーロッパサッカーがあって、ラグビーのテストマッチがあって、メジャーリーグのポストシーズンがあって、スポーツ観戦的にはとても好きな季節である。 グランツールのハイライトも見た。 昨夜のラグビーチャンピオンシップ、どちらも熱い試合だった。 二つの試合を見てつくづく思ったことは、内容よりも結果が重要だということ。 アルゼンチンも南アフリカも、相手を明らかに上回っての勝利という内容ではないが、勝利という結果が何よりも重要なのだ。 それは、試合終了の瞬間を見ればわかる。 その瞬間の点差がすべてなのである。 アルゼンチンの大会史上初勝利。 ニュージーランドの連続不敗記録ストップ。 どちらも、点差以外の何ものにも左右されない。 そして、その事実のために、ラグビーの、スポーツのすべてはあるのだ。 甥っ子をあやしながらのぼんやりとした観戦でしかなかったが、久しぶりに見たラグビーは以前と少し変わっていた。 まず、ブレイクダウンでのルールの適用基準が変わっていたと思う。 攻撃側にいっそう有利な適用になっていて、球出しのリスクが減った分、フェイズの数が増えていると思った。 それに伴って、アタックの組み立ては連続攻撃を前提としたものになっていて、俺がプレーしていたころにアタマを絞っていた、一度のラインアタックでブレイクするような約束されたサインプレーというものが減ったように感じる。 組み立ての考え方としては、一つずつポイントをつくって、局面ごとの判断で崩していくような、セブンスの考え方に近くなっているのだろう。 ただし、攻撃側が孤立した局面では、一貫してターンオーバーのジャッジが下されていたとも思う。 レフェリングの基準が明確になっていて、いいと思う。 また、ビデオ判定の適用範囲が大きく広がっていることにも驚いた。 以前は得点に直接かかわるプレーのみに限定されていたが、今は危険プレーや脳震盪の可能性の確認にも適用されているようだ。 南アフリカの勝利を決めた逆転PGは、まさにそのビデオ判定によってもたらされたものだった。 オールブラックスとスプリングボクスには、歴戦の勇士たちがたくさん参戦していることが嬉しかった。 リッチー・マコウ、ケヴィン・メアラム、ヴィクター・マットフィールド、バッキース・ボタ。 俺が初めて海外ラグビーを見た2003年から最前線で活躍している男たちが、今も世界の最もタフな戦いで先陣をきっている。 そしてスカルク・バーガーである。 彼のような選手はまったく他に類を見ない。 荒々しいのに安定している。 暴れん坊なのに謙虚だ。 今やプロ化されたラグビーというスポーツの、アスリートというイメージにふさわしくない。 農夫がそのままグラウンドに立ったような出で立ちで、プレースタイルも粗野なのに、それでいて超一流なのだ。 首を折っても難病を患っても、当たり前のように不屈で、悲壮感も感じさせない。 ものさしが通用しない個性というものが、彼にはある。 一流もあそこまでいくと、もはや超一流というよりも、単に常識はずれなのである。 よい子は真似をしてはいけません。 そんなこと言ったって、もはや釘付けなんでしょうけど。
JUGEMテーマ:日記・一般
自転車で東京湾岸をめぐった話のつづき。 東京湾岸の、いわゆる臨海副都心と呼ばれるところは、巨大な建造物に埋め尽くされている。 あるものは広大な商業施設であり、あるものは展示場や娯楽施設であり、あるものは超高層の居住マンションであったりする。 この区域を見て回れば、「失われた20年」が決して失われたものでなどないことを実感する。 この20年間の人々のカネと仕事の成果が、そこにはたしかに形になっている。 お台場はほぼ埋め尽くされて開発も完成に近づいた感があり、今は豊洲や晴海である。 さら地に、あるいはビルの間から突き抜けるように、クレーンが林立している。 まっさらな晴海の埋立地の先端にクレーンが林立する。 おそらく、ここが2020年東京オリンピックの競技場や選手村になるのだろう。 2013年の日本のGDPが4兆9000億ドル。 タイが3870億ドル。 韓国で行われているアジア大会から何人かの選手が逃亡したというニュースが流れていたネパールが、193億ドルである。 日本がリッチであるというのは、否定のしようのない事実である。 たしかに、この20年というもの、日本のGDPは延びていない。 しかしその間もずっと、この莫大なカネの中で支出と収入は回り続けていたわけで、そこで生み出された財の総量は、「失われた」どころではないのである。 それでも「失われた」と言われるのは、未来への危機感からであろう。 経済を表現するグラフは、右肩上がりでなくてはいけないのである。 なぜなら、投資やイノベーションによってモノやサービスの価値は常に上がる。 相対的にカネの価値は下がる。 もしも収入が20年間横ばいなのだとしたら、その間の財の価値の上昇を考慮するなら、額面上は横ばいでも、実質では下がっている。 同じカネの量で買えるものの量が減るのである。 この20年間の日本経済が年率数%のインフレを含んでいないことに危機感を抱く理由である。 実際、中国やタイやブラジルなど多くの国々が急成長を遂げ、価値のあるものを新しく大量に買ったり生み出しつづけている中で、日本がずっと横ばいであるということは、それだけ日本の買えるものの量が減っているということになる。 それでも、先進国であることのブランドと信頼感で、円の価値が高く評価されていればまだいい。 ところが、このところの円安傾向である。 円が安くなるということは、世界経済の中で日本の重要性が下がったことの証であり、世界経済における日本の財の価値が下がり、日本の購買力も下がるということだ。 次々と新しい国々が成長を遂げている中で、日本が停滞していたら、それは当然のことなのである。 超低金利が長期にわたってつづくということは、投資によって満足なリターンが得られなくなっている状況なのだと、水野和夫が「21世紀の利子率革命」という言葉で言っていた。 低利子でカネを借りられるからといって、借りた上で利子率以上の儲けを得られると見込めないということだ。 それが何を意味しているかというと、経済の成熟である。 投資というものは、稼いだカネを未熟な部分に投資し、生活を改良する。 しかし、もはや「ここをよくしたい」と思えるほどの不満や不便もないから、稼いだところでこれといって使い道もないのである。 これはおそらく、喜ぶべきことだろう。 生活にこれといった不便や不満を抱かなくなるほどに、我々は豊かになったのである。 とすれば、するべきことはただ一つ、この生活を楽しむことであろう。 稼いだカネを未来に投資するのではなく、今楽しいことに使う。 しかし、カネを使いたいこともそれほどあるわけでもないから、貯蓄も取り崩されないのである。 これもまた、喜ぶべきことであろう。 楽しむのに必要な分以上のカネを持っているのなら、それは誰かにやるなり捨てるなりしてしまえばいい。 なまじカネを持っているがために、最適な使い道などにアタマを使わなければならず、楽しむことを忘れてしまう。 ならば、そんなものは忘れてしまうか手放してしまうのがいい。 ところが、我々はいまだに経済成長時代の思考法をぬぐい去れずにいる。 生活の楽しみが、成長と一体化してしまっているのだ。 今のことよりも、未来のことを考えるようにモラルづけられている。 カネはなるべく節約し、未来への投資のためにできるだけ多く蓄積すべきだと言われる。 我々がもっとも充実感を感じるのは、昨日よりも前に進んで成長し、さらに未来に向けて役立つことをしていると実感するときである。 我々の心には、「現在」や「満足」の居場所は無いのである。 どうも話が、当初描いていたのとは違う方向に行ってしまった。 経済は、俺には異分野なので、あまり語ると恥ばかりさらすことになってしまう。 しかし、わからない分野だからこそ、書くことによってわかろうとして、書き始めると長くなってしまうのだろう。 では、俺の分野はいったい何なのだと問われれば、「心」なのだろうと今は思う。 これから出かけるので、一応話をまとめておく。 我々の心には「現在」や「満足」の居場所が無い。 しかし、我々の心が「現在」や「満足」で満たされるということもまた、ありえない。 あるとしたら、それもまたかなり歪んだ構図である。 なぜならば、人は生物であり、生物は生死を営む存在だからだ。 人は生まれると、やがて子を産み、死ぬ。 祖先や子孫がいる人の心に「現在」しかない、やがて死ぬ人の心に「満足」しかない、ということはまた、おかしいのである。 ってなとこで、この記事を閉じる。 つづきは次回。 さて、本当にあるのでしょうか。
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