This Is The One! - innocent -俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。
|
一定期間更新がないため広告を表示しています
posted by スポンサードリンク |-|-
JUGEMテーマ:映画
『6歳のボクが、大人になるまで(Boyhood)』が面白かったので、同じリンクレイター監督の『恋人たちの距離(ディスタンス)(原題:Bofore Sunrise)』をTSUTAYAで借りてきて見た。 登場人物の二人はおそらく今の俺と同じぐらいの年齢で、『6歳のボクが、大人になるまで』と同じく、人生についての話題をしゃべりまくっている。 『6歳のボクが、大人になるまで』がそれぞれの年齢をみごとに描いていたのと同じように、『恋人たちの距離』も25歳ぐらいの年齢をみごとに描いていると思った。 今の俺の悩み事とほとんど同じことを、イーサン・ホーク演じるジェシーは何度も口にしていた。 セリーヌが言っていたように、人生には愛が必要だということを、強く実感するのは俺たちの年齢ぐらいなのだろう。 若いときは心地よく残酷で皮肉屋で反抗的だから、愛や思いやりが何よりも大切なことだということを理解することも、認めることも難しい。 それを辛気臭い事実だと感じる気持ちをどこかに残しつつ、少しずつ受け入れて、幸せな人生を築くやり方を知っていくのが俺たちの年齢。 豊かで、移動性に優れ、情報も多彩で、生き方も多様なこの時代に生きる俺ら若者の、青年期が長くなるのは当然なのだと思う。 たとえば、昨日読んでいたディケンズの小説に出てくるような時代の、しかもたとえば貧困層の人々にとって、人生はもう少し単純なものであっただろう。 彼らは、ディケンズらしい感傷に満ちて描かれるように、キリスト教徒らしい率直さで身近な人を愛することがとても上手い。 まっすぐに、熱烈に、家族を、恋人を、友人を愛す。 彼らはその貧しさに閉じ込められたような人生の中で、幸福になる唯一の方法を心得ている。 愛がなければ、人生は単なる空虚以外の何者でもない。 もちろん、そこには常に対比されるべき悪があり、彼らは愛を踏みにじる。 いずれにせよ、彼らにとって成熟はすぐに訪れるもので、青年期は短く、愛を受け入れるのも、愛を捨てるのも、人生の早い段階でのことである。 ディケンズが賛美するように熱烈に、まっすぐに、俺も人を愛せたらと思う。 それは一つの夢だ。 しかし、ジェシーと同じように、今の俺にはその覚悟と決意はない。 「意気地なし」とはそういうことである。 19世紀よりもずっと豊かで多彩なこの時代にあっても、人生の真実の数や量や質に変わりがあるわけではない。 ただ、人生はずっと複雑なものになり、真実のブレンドの具合が微妙さを増していくかもしれないが。 宗教を手放していく以上、セリーヌの言うとおり、他人との関係の中からしか人生の積極性と意味づけは生まれない。 意味のない人生に耐えられるほど、人間の精神が純粋になることはあり得ないだろう。 おそらく同年代の筆者によるものと思われる、いい感じのブログを見つけたのでリンクを貼っておく。 http://midair-prague.blogspot.jp/ 以前、ツイッターで気になってフォローしていた人のブログだ。 ブログを書くというのは、けっこう時間と労力を使う。 それでも俺が、誰かが書くのは、それでもそうしたいからだ。 ブログというのはそれほどフューチャーされたメディアではないし、ましてや芸術的価値などほとんど認められてもいないが、人間精神を映す何かがあるといえばある。 人間の精神と時間と労力がそこにはかけられている。 書物とウェブメディアの大きな違いの一つはリンクだと俺は思っている。 このブログにもYouTubeの動画や作品のジャケ写が貼られているように。 リンクを貼りたいと思えるブログがあったので、リンクを貼る。
図書館に行く途中、ランチ終了直前に駆け込んだキュイジーヌで、数ヶ月前に借りたまま開いていなかった東洋思想(儒・仏・道)についての本の序文を読んだ。 無神教の理論的な平等さ(この本では「弁証法的」と表現されている)への賛辞に触れて、自分の命を特別視、絶対視しないことの身軽な自由さを思い出す。 ここ最近の、生活の張りのなさや不安や寂しさから抜ける方向性が見えた気がした。 そこへ、ミディアムなテンポのフランス語ポップスが、気取らない軽妙さで流れてきて、俺は涙ぐみそうになる。 どうして、俺は忘れてしまうんだろう。 自分の生活を快く満足のいくものに保つ術を、すぐに手放してしまうんだろう。 自由の取り扱い方を、怠惰に負けるたびに何度も改めて自分に説いてきたはずなのに。 どうして、いつの間にか人の目ばかり気にして、誰かの承認を得たくて汲々としてしまうんだろう。 どうして、自分の望みを自ら手放してしまうんだろう。 そのままでは保たないのだ。 部屋には掃除が、革には手入れが、服には洗濯が必要なように、日々手を入れて、調和を保たなくては。 ベストの状態で出されたランチの、照りのある豚肉も、歯応えのあるポテトも、サクサクに焼かれたパンも、すぐに冷めて張りを失う。 怠け者の俺の生活は、何もかもが望まない形に変わっていくのだろうか。
JUGEMテーマ:音楽
『6歳のボクが、大人になるまで』という映画の鑑賞が特別な体験になった理由の一つは、そこに間違いなく俺が生きた時代が映っていたからだ。 時代、といっても通史的というかクロニクル的な歴史ではなくて、そこに生きる人間にとっての時代、いうならば実存的な時代のことだ。 それが、映っていた。 俺がたとえばこのブログを書くのも、たとえば小説を書くのも、俺は未来の人に向けて書いている。 少し倒錯的なことを言えば、過去の人に向けても書いている。 要は、この時代を生きていない人に向けて書いている。 だいたい目安として、100年後ぐらいの人をめがけて書いている。 さらに、今日を生きる遠い人に向けても書いている。 たとえば今日、60歳の人がこのブログを見て、同じ日を生きる27歳について何か新しいことを知るとすれば、その人はその意味で俺と同じ時代を生きていないのだ。 過去や未来を生きるそのような人が、もしも俺の生きるこの時代について知ることができないのなら、その人にとってこの時代はいつまでも謎のままなのだ。 謎であるというよりも、知らないことをすら知らないのだから、もはや存在しないも同然である。 その人がもしもその人と違う時代を生きた人について知らないのだとしたら、その人は自分の生きる時代についてもよく知ることができない。 俺が生きるこの時代について俺が少しでも何かを知っているとしたら、それは俺が他の時代について興味を持ち、学び、知ったからだ。 第二次世界大戦の中を生きた人の生活と実存について知り、19世紀後半の近代が速度を上げていった中を生きた人の生活と実存について知った。 実存とは、ある人の目をとおしたその時代と土地のことである。 つまり、俺の実存とは、さらに言えば俺自身とは、俺の目をとおしたこの時代と土地のことである、と言ってしまってもかまわない。 俺が開高健やトウェインを読んで学んだように、俺の文章がいつか誰かに何かを気づかせられたらいい。 加藤ミリヤの『勇者たち』という曲を聴くとき、俺は同じ思いを抱く。 ここには、俺の生きた時代が歌われている。 まさにこのイントロ、このメロディ、この歌詞を、俺たちは生きたし、今もまだ生きている。 「この状況を嘆くよりも先にやるべきことがあった ここぞという時に楽な道を探す怠け者だった」 「不器用なままでは世間は冷たい」 「忘れていいよ、僕のことは、大丈夫だから」 「競い合う事に疲れ評価を恐れて逃げ出したくなった」 「僕が持ってないもの君は持ってから惹かれたのかな」 「いつかの夢に見た勇敢な人になりたいよ 笑っていてよ、微笑む先が僕じゃなくても」 「いつかはいつかはまた君の胸で泣きたいよ 果てない空どこまでも行けるような気がしてた」 このインストゥルメンタル、このメロディ、この歌詞。 完璧な言葉というものは、もはや何も付け加える必要がなく、完成している。 たとえばアルバム『Wrecking Ball』に寄せた、スプリングスティーンのビッグマンへの追悼文がそうであるように。 そこにはまさに、我々が悩み、葛藤し、時に決断し、何度も足を踏み出し、立ち止まり、憧れ、挫折し、喜び、悲しんだ日々がある。 我々は真面目で、人生に期待し、その期待にふさわしい自分であろうとし、期待に沿えない自分に失望し、まぶしい人や未来に憧れ、時に誰かと心寄り添えたことに何よりも感謝した。 我々が生きるのは個人主義の時代だから、我々が誰かと寄り添うのはお互いがそうと望んだときのみだ。 我々の真面目さと他人への関心は、徹底して研磨された個人主義を出現させた。 我々が生きるこの個人主義の時代において、何よりも重視するのは他人の自由なのである。 何よりも個人の意思を尊重し、自由意志に基づく以外の決断と判決を不十分なものとして退ける。 我々は誰かに甘えない、依存しない強さを自らの中に練成し、孤独を耐え忍ぶ方法と強さを見につける。 我々が望むのはまさに、愛する誰かが彼(女)自身の自由意志において喜ぶ場所にいて、笑っていることなのだ。 誰かが私への興味を失ったのなら、私はその事実を甘んじて受け入れなくてはいけない。 私にできる唯一の方法とは、相手がまた自分に興味を持つように上手く仕向けるか、さもなくば、別れを受け入れることなのである。 「And I know you’re going somewhere to make a better life I hope that you find it on the first try」 (そして私はあなたがどこかに行ってしまうことを知っている。 今よりマシな人生を築くために。 どうかあなたが迷うことなくそこにたどり着けるのを願っているの) 「I'mma try to be a big girl now Cause I don't wanna be the reason you don't leave」 (私はしっかりしたいい子でいようとしている。 なぜなら、あなたが旅立てない理由になんかなりたくないから) 心引き裂かれながらも、相手の幸福を本気で願うこの姿勢こそが、我々の誇りなのだ。 誰も彼もに取り残されていく中で、みじめにならないたった一つの方法でもある。 運命の行く末に、二人の道がふたたび交わることがあるのか、見えることのない未来を見つめながら。 我々のこの意志の強さを、勇敢さを、褒め称える人はいない。 脱落しそうな同士に、俺は心の声で呼びかける。 「頑張れ。皆同じだ。君一人じゃない。君の美しさを誰もが知っている。耐えろ。君は勇敢だ」 そして、俺が彼(女)に願うことはたった一つ。 「死ぬな。絶対に死ぬな。死ななければ、耐えれば、もう一度来る。必ず、笑える。やめなくてよかったと言える日が来る」 我々のこの純潔さは、何をもたらすだろうか。 俺の心の声は、こうも言っている。 「Why don't we change? Why don't we try? Why don't we turn around, help the other guy?」 どうして、もっと存分に友情を表現しないのだ? どうして、もっと心を無防備に開かないのだ? 感謝と謝罪を伝えるのは上手い我々なのに、素直な感情をあらわにすることは苦手だ。 我々はいつも他人のことを、そして最後には我々の子供のことを、考えている。 子供たちに、生きるための何かを伝えることができるだろうか。 我々の苦しみを、繰り返して味わわせてはならない。
(C) 2024 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.
|