This Is The One! - innocent -俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。
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JUGEMテーマ:日記・一般
家で一人で酒を飲みながら、あてどもなく書き始めてみる。 自宅で一人で酒を飲んでいるのは、初めてかもしれない。 キリンラガービールと、カルビーのポテトチップス。 というのは、昨日と今日で受けてきたマーケティングに関する外部研修で、それらの商品のケーススタディをしたからだ。 J:COMの分配器のアプリでYouTubeをいろいろと見ながら、書いている。 消費社会の一角に、なんだかまともに位置を占めている気がして、社会人をやっているような気持ちがする。 おととい、人は人を傷つけてはいけないのだろうかという命題について考えていた。 結論は、 「原則は、いけない。だが、人を傷つけずに生きていける人などいない」 というものだ。 人を傷つけてはいけないのだということは、人を傷つけて初めてわかる。 苦しむ人を見て、自分がしでかした事におののく。 どうしてそれがいけない事だとわかり、おののくのか。 同情するからだ。 誰かの苦しみを自分のものとして感じ、人がこんな状態に陥るのはよくないことだと感じる。 そして、人を傷つけてはいけないのだと、心に刻む。 人を傷つけないという倫理は、自分が傷つかないための最上の防衛でもある。 しかし、人を傷つけないわけにはいかない場面というものもある。 たとえば、誰かに恋の終わりを告げる時。 たとえば、誰かが何の悪気もなくやっている事が、自分にとってはとても不快なのだと告げる時。 原則、人を傷つけてはいけない。 しかし、絶対に人を傷つけてはいけないわけではない。 絶対に人を傷つけてははいけないのだとしたら、我々は生きていけない。 肝心なのは、人を傷つける程度を知る事だ。 人は、傷ついても、治る。 人が治る能力、これを信用する事だ。 そして治る時、人はたいてい何かを学ぶ。 同じように、傷つけられるのが絶対によくないことだというわけでもない。 傷つけられて初めて、自分の弱さと強さを知るからだ。 人は自分の弱さを知って初めて、人に優しくできる。(上記の理由により、それは防衛のためでもある) 人は自分の強さ(回復力と、学ぶ力)を知って初めて、傷つけ傷つける事を含めたうえで人と付き合う術を知る。 そういうことを、考えていた。
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昨日に続いて、最新のミュージックビデオの話題。 Justin Bieberの新作ビデオに驚いた。 音も映像も、見事なプロデュースワークというのか、最先端でエッジの立ったクールなものをビシッと決めてくる。 前のアルバム『Journals』を聞いたとき、プロデュースに歌手がついてきていないと思った。 音は都会的な洗練でかっこいいのに、ヴォーカルの表現力がついてきていない。 闇に溶けいっていくような夜のサウンドに、暗い深みをたたえていない青い声がのってしまう。 象徴的なのが「P.Y.D.」で、タイトルからして変態的に絶妙にズレてきているサイコーのセンスを、Justin Bieberが自分のものにできていない。 今年に入って2本のビデオが出されているけれど、それはどちらもよかった。 「What Do You Mean」の痴話ゲンカ的な世界観の中では、Justin Bieberよりも魅力的に輝くパフォーマーなどいないだろう。 しかし今回の「I'll Show You」では、隣に女のコがいない。 さて、Justin Bieberも大人のアーティスト、パフォーマーとしての成熟を迎えるのだろうか。 「S&M」のRihannaがすでに「Umbrella」のRihannaから、同じRihannaでありながら決定的に異なるところまで来ていたように、ふいに、静かに、劇的に訪れる変化が彼にもあるのだろうか。 その「I'll Show You」のビデオを見ていてあらためて思うけれども、作品としては結局はプロデュースワークというか、「見せ方」にほとんどすべてがかかってくる。 終盤の、転がったりスケボーに乗ったり走ったりしているシーンは、特別な事もかっこいいこともほとんど何もしていない。 それをロケーションとカメラの力だけで押し切っている感じ。 そうした音、映像、雰囲気のクールさは、見る人にとっては、主役に据えられたJustin Bieberの印象として残っていく。 同じ景色、同じ行為でも、見せ方、切り取り方で、印象はまるで変わる。 そして人間がモノやコトに感じる価値というものは、実質の合理的な価値というよりは、印象でほとんどすべて決まるのだ。 俺は金沢に行った事はないけれど、同じ金沢でも映像、音、字体などの見せ方で印象は大きく変わる。 今の日本はカネを持っているけれど、そのカネを未来に向けて活かすのならば、文化をつくっていかなければダメだ。 つくるだけでもダメで、発信していかなければダメだ。 なぜダメなのかといえば、単純労働力が低下していくこれからの日本が、世界の中に自分の居場所を見つけようと思うのなら、高付加価値の労働をするしかないからだ。 いいものをつくり、的確に発信し、世界中の人に欲しがらせ、相対的な価値を高く保たなければならない。 そのためには日本にしかない、日本にしかつくれない、日本らしい何かをつくらなくてはならない。 ところが、日本は今でもいったん外国人の目を経由しなければ自分達の姿すらつかめないようだ。 外国人に褒められて初めて際立つ文化ではなく、外国人を立たせて初めて見えてくる街ではなく。 自分の姿を、自分の見せ方で、わかりやすく魅力的に提示する。 人々が、恐れることなく交流し、育っていく事を願う。 自分自身も、日々切磋琢磨するように。 とりあえず、今日は投稿したかったので、ちょいとやっつけでも、えい。
JUGEMテーマ:日記・一般 久しぶりの投稿になった。 その間、俺は恋をしていた。 今も、している。 簡単な恋ではないから、この間の俺の生活のほぼすべてはそれに捧げられていた。 とても望ましい事だ。 人生で本当に欲しいものが一つ見つかり、それに集中してすべてを注ぐ事。 しかし恋とは不思議なもので、それに全霊を注ぐ事が、必ずしも望ましい事だとは限らない。 あまりにも恋がすべてだと、その恋はやがて遊びを失くして息をするのが苦しくなる。 相手との関係を何よりも大切にするために、相手との関係以外の活動にも従事する必要がでてくる。 俺たちの世代を代表する歌手の一人に、Adeleがいる。 2011年に最も売れたアルバムを、彼女は作った。 そのアルバムで最も有名な曲は『Someone Like You』で、失恋の痛みを歌ったものだ。 『21』というアルバム自体、そういった内容の作品だと言ってもいいだろう。 その曲とアルバムがスマッシュヒットを記録し始めた当初、俺は彼女のどこにそれほどまで売れる魅力があるのか理解できなかった。 Lady Gaga、LMFAO、Pitbull、Flo Ridaなどのダンスパーティミュージックがチャートを席巻していた当時、1位に君臨し続けるAdeleの歌は地味で埋もれて思えた。 しかし2011年の暮れに失恋した俺は、その曲、そのアルバムをよく聞き、共感するようになった。 俺はあとから理解したのだ。 俺らの世代にとっての最大の関心事とは、結局のところ恋愛沙汰なのだと。 そしてAdeleの歌は、何の飾りも虚勢もなく、俺たちの世代の恋愛の最も歌ってほしいところを簡単に的確に歌っているのだと。 地球上に散らばる、英語を理解できるあらゆる無数の若者たちが、同じ一つの歌を聞いて、それぞれの個人的な痛みを慰めつつ受け入れているのだと。 俺は今、自分でもにわかに信じるのは難しい事だが、子供が欲しいと思っている。 しかも、ぜひ欲しいと思っている。 信じるのがどれほど難しい事だとしても、それは俺にとって自然な感情だから、受け入れるのはとても簡単だ。 そして結婚したいとも思っている。 それが、ある程度愚かな事だろう、とわかっていても、だ。 結局、今の社会体制の中で子供を育てるとなれば、核家族を基本に考えるしかない。 しかもその上、俺は今その結婚の体系に甘い魅力を感じるほどに、恋に落ちているから。 子育てや、個人の人生に降りかかるあらゆる難題や重みが、俺たち二人にすべて押し付けられる事がわかっていても。 俺はぜひそれらの重苦しい出来事を、ある特定の女性と一緒に受け止めてみたいと、希望と喜びすら見出しながら感じている。 この人生の形態もまた、世界中のあらゆる同世代に共通しているのだ。 そしてそこに現れる絶望や難しさについても、EminemやColdplayや宇多田ヒカルを始めとしてあらゆるアーティストが歌っている。 Bruce Springsteenも歌っている。 Adeleの新作ビデオもまた、俺たちの世代のあらゆる若者がまさに今直面している難題を描いている。 核家族という形態を押し付けられる俺たちは、たった一人の人間と毎日顔をつき合わせ、ほとんど選択の余地なく共に暮らす事を強いられる。 別に結婚して子育てをするまでもなく、恋人という関係のほとんどは、現代において核家族の形態の摸写でありリハーサルになっている。 そして素直で真摯な俺たちは、全身全霊を込めて誠実に、その困難な課題に取り組もうとするのだ。 なぜなのか。 理由ははっきりしている。 Adeleが疑いようもなく知っているように、別れほど心と体を引き裂くものはないからだ。 もう決して大切な人を失いたくないから、全身全霊で誠実に相手と向き合おうとするのだ。 それは人生に対しての精一杯の誠実な態度であり、人と人の非常に美しい関わり方だと俺は思う。 さて、以上のことから、我々の世代がこの非常に困難な課題に取り組まなければならなくなる理由はどこにあるのか。 結局、柔軟性と規律のバランスなのだと思う。 閉じ込められて孤立した人生の重みに苦しむ事もなく、かといってふしだらに無責任で無秩序な生活を送る事もなく。 確かに、子供を生み、育てる事は決して簡単でもお気軽でもないから、誰かがその責任を負わなければならない。 しかし一方で、もっとも好きな異性と二人きりでその責任のすべてを負わなければならないというのも、残酷な事だ。 失いたくないという愛がいつしか牢獄に、大切に扱いたいという誠実さがいつしか重圧に、相手への期待がいつしか憎しみに、未来への希望がいつしか挫折に変わっていきかねない。 美しい愛が地獄に変わっていくのを、俺は見たくない。 子供を育てる義務と同じぐらい、親の楽しむ自由や権利が尊重され、実現可能となる世の中であって欲しい。 それでこそ、好きな人と子供を生み、育てる事は素晴らしい事なのだと、胸を張って言える。 それでこそ子供に対して、あなたが生まれたというのは素晴らしい出来事で、あなたが生まれてきたこの世の中は素晴らしいところなのだと、胸を張って言える。 どうか、国家が国民の現在と未来を守り、つくっていく存在なのだと言うのなら、俺たちのこの世代が今悩み、これからつくっていこうとするそうした社会の手助けをして欲しいと思う。 それをしようとしている俺たちほど、お国のために貢献するだろう存在もそうはいないだろうから。
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