This Is The One! - innocent -俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。
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カボチャを煮ながら書いている。 カボチャは大きく切った。 小松菜の値段が下がって、138円(特価)だった。 お浸し。 生姜の豚汁は昨日の残り。 ホッケ干しを焼いて。 大根おろし。 今日は妻のほうが帰りが遅い。 身重にして、忙しい妻だ。 我々の忙しさには終わりがない。 チャールズ・ダーネイ(シャルル・エヴレモンド)は、「皆がすることを私もする。働くのだ」と言って、貴族の地位を捨てた。 働くことは人道に反することではない。 むしろ、人間性への賛歌だろう。 ル・グウィンの小説に出てくる好ましい人々は、よく手を動かす。 アースシーにあるロークの学院には「手わざの長」がいる。 ゲドもテナーも、よく手を動かす。 ラウィーニアも西のはての人々も、よく手を動かす。 カボチャは大きく切った。 ホッケを焼いて大根をおろすのは、もっと妻の帰りが近づいてからにしよう。 我々の労働によって獲得された資本が、我々の人生からかけ離れた彼方に蓄積され、さらに流れていくことについて、嘆いてみても仕方あるまい。 膨れ上がったマネーは各所でバブルを起こしてはじけては、総量を増やしながら流れていく。 その気になった誰かの業を満たすのに役立てられる。 我々は今日の日を慎ましく、身の丈なりに生きることで、幸福の領域を守っている。 日記は紙に書け、と言われるだろうか。 「いつか、書かなくなる日を目指して書くのだ」とノートに書いたのはもう5年も前だ。 知恵と言葉の身体化、と。 まだ書いている。 人目につくところに書いている。 それが俺の業だ。 働くだけで済ませられない。 手を動かし、呼吸をし、世界と戯れる。 そういう幸福に、とどまれない。 もうじき妻が帰る。 ホッケをフライパンにのせる。 それでいいじゃないか。 こんな生活のために、革命があったのだ。
JUGEMテーマ:読書
JUGEMテーマ:読書 夕飯後に俺は皿を洗いながらAviciiの「Waiting for Love」を歌っていると、食べていた柿が喉に詰まったので、吐き出そうとしてむせた。 それを見ていた妻が、大きな声を上げて笑う。 心から可笑しそうに、笑いすぎて苦しくなってもおさえきれずにまだ笑う。 俺は妻に心を許している。 妻が俺に心を許す態度を見せてくれる事も嬉しい。 共に裸のままで、敬意を持って暮らしている。 もしも彼女が死んでしまったとしたら、俺はとても悲しいだろう。 動かなくなった彼女の姿に。 変わり果てた彼女の姿に。 生き物でなくなった彼女の姿に、すっかり何かを失った気持ちになるだろう。 そんなことを思うだけで、俺は悲しい。 「Waiting for Love」のビデオの爺さん、そんな感じの役だ。 男が妻を失う時、何かがごそっと持っていかれるらしい。 始めから終わりまで痛ましい、マーク・トウェインの自伝。 どこを読んでも華々しいまでに面白いのに、同時に胸をかきむしりたいほどの悲しみに満ちている。 自伝が終わりに近づけば近づくほど、自伝は冷え冷えと悲しく、痛ましくなっていく。 城山三郎の『そうか、もう君はいないのか』。 このタイトルがあまりにも痛ましく、何もかもを予期させて胸に刺さると、何人もの男が感想を書いている。 これも自伝である。 トウェインの自伝も、城山のそれも、ある日突然に筆が置かれて、そこで終わる。 そこから先、もう言葉を持っていかない瞬間だろうか。 それとも、言葉が生まれてこない瞬間だろうか。 もう、二度と取り上げられる事のない筆、二度と書かれる事のない言葉たち。 そしてたとえばディケンズが書いたように、誰もが秘密を抱えたままに死んでいく。 誰にも知られない秘密。 知らせようにも知られようのない秘密。 トウェインも、城山も、いまや墓に残るのもせいぜい骨ぐらいだろう。 他には何も残らない。 俺と妻も、一つにはならないまま、知らない事をたくさん残したまま死んでいく。 たくさんの時間を過ごして、たくさんの出来事を分け合って、別々に死んでいく。 それでも、出会えてよかったと、俺はきっと言える。 マーク・トウェインは妻に先立たれた後、最後まで身近に残ってくれた娘と共に暮らす。 トウェインには子が4人いた。 3人の娘と1人の息子だ。 息子は、1歳と10ヶ月で死んでしまった。 トウェインが子守をして無蓋馬車に乗った時、不注意で赤ん坊の体を冷やしてしまったのだ。 この場面は自伝に短く書かれているだけであるが、たったそれだけの文章でひどく胸をうつ。 トウェインの後半生は特に厳しかった。 事業に失敗して借金をつくり、その借金を返すために世界中を講演して回った。 そんな旅をしている時、アメリカに残してきた長女のスージーが死んだ。 妻のオリヴィアは、トウェインと出会った時から体が弱かった。 講演の旅を終えて、のんびりと休まる時もないまま、オリヴィアも死ぬ。 トウェインが苦しい時、いつも何かと世話を焼いてくれた、頼りになる次女のクララは、その後に結婚する。 結婚して、ベルリンに住まうようになる。 トウェインの身近に残ったのは、三女のジーンだけとなった。 それでも、愛する娘と二人で静かに暮らす事で、残り少ない日々も恵みのあるものになると、トウェインはそう思っていた。 そのジーンも、共同生活が始まって4日後の朝に急死する。 この7ヶ月前には、親友の編集者ロジャーズ氏も亡くなっている。 トウェインがロジャーズをどんなに頼りにしていたかは、カーネギーも自分の自伝に書いている。 トウェインには、誰もいなくなってしまった。 ジーンの死を記す、自伝の最終章はもちろん、悲しみに満ちている。 しかし、トウェインは勇敢にもこう記すのだ。 「夢は実現した」。 「正夢はまるまる2日もつづいた」と。 トウェインが家に帰った翌日と、ジーンが息を引き取る前日。 そのまるまる2日間が、トウェインと娘の「確かに一つの家族」としての生活だったと。 この悲劇に呪いを吐くのではなく、実現した2日間に感謝を告げるのだ。 勇気とは、こういう事だと俺は思う。 人生に素晴らしい瞬間があったのなら、それが20年間つづこうと2日間つづこうと、どういう違いがあるだろうか。 俺は、妻と出会えて、こうして共に暮らしている事に、こんな感謝を告げたいと思う。 どんなに辛い事が待っていようと、俺は恨みや呪いの言葉は吐かない。 生まれたから、出会えたから、素晴らしい時間があったからこそ、辛い事も起こるんだという事を忘れない。 父と母に、ありがとう。
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7回無死のピンチでクローザーがマウンドに上がる。 もう後がないのだ。 何せ、ポストシーズンのディビジョンシリーズ第5戦。 勝ち抜けには3勝が必要なシリーズで、2勝2敗だ。 1点のリードを守りきるため、7回であろうが一番いいピッチャーをつぎ込む。 普段なら9回の1イニング専門のはずのクローザーを、7回にすでに投げさせる。 クローザーはすべての力を注ぎ、7回のピンチをしのぎ、8回も0点に抑える。 しかし9回、上位打線に回ったところでついに限界をむかえる。 2番と3番をおさえるだけの球が投げられず、連続四球。 もう、これ以上のピッチャーは残っていない。 しかしここで、最も頼りになる男が、まさかの復活を遂げる。 シリーズの第1戦と第4戦で登板し、チームの2勝を一人で稼いだ絶対的エースだ。 サイヤング賞に輝くこと3回。 投手としてのあらゆる栄冠を手にしたが、唯一手に入れていないのがチャンピオンリングだ。 第4戦で力を出し切ったはずの左腕が、最後の2アウトを取るためだけに中1日で再び立ち上がる。 9回ウラ1アウト、1点差、ランナー1塁2塁。 対するは4番。 去年のポストシーズン6試合で7本のホームランを放ち、マウンド上の絶対的エースからもそのうちの2本を打った男。 この男を倒さずして、次には進めない。
これは漫画の話ではない。 田中マーくんの話でもない。 今日のロサンゼルス・ドジャースの話だ。 リーグチャンピオンシリーズでは、またマエケンの出番があるだろう。 頑張れマエケン。 ゴーゴードジャース。
ここからまったく関係ない話をする。 例えば合コンのような席で、大人というものはどこかでいくらか寂しいものなのだと知る。 おそらくこのブログに最も欠けている、叙事を。 まあそれはそのうち。
人間の感覚にとって幸福というのは、状態のことではなく運動なのだと、どこかで聞いた。 何らかの感覚が一定の条件に達したら、それが幸福だというのではない。 ある状態から別の状態への移動の時に、人間は幸福を感じるのだと。
たとえば幸福の尺度というものがあるとして、プラス10の位置にいるから幸福を感じる、というものではないらしい。 プラス5からプラス10へと移動していくこの運動にこそ、人間は幸福を感じる。 あるいは、ただ漫然とプラス8の位置にいるよりも、マイナス10からマイナス8へと移動する時のほうが、幸福の感覚は強い。 こういうことを知った時、確かに自分の感覚に照らしてみて、納得できると感じた。 そんなことは、自分の人生で何度もあったと思った。 停滞による無感覚も、這い上がる恍惚も。
そういう事を知っていると、失敗して、恵まれなくて、落ちていく、崩れていく感覚の中にも、救いはあろうというものだ。 上がるためには、下がらなくてはならないのだから。 いつまでも上がり続けてはいつかプラス10にたどりついてしまう。 プラス10の位置にいても幸福を感じられないならば、人生のどこかで幸福を感じるためには、いつか必ず下がる時は必要なのだ。 人生にはどうしても下がっていく時期がある。 そんな時、下がっていくおかげでいつか上がれると、自分を慰めよう。
エドワードが馬小屋で仔牛と共に眠る幸福を、俺はこういう感覚で共感するのである。 また、トムがいつしか王の待遇をありがたいとも思わなくなることを。 落ちた人間には、救われる幸福がある。 恵まれた人間には、無感覚の罠がある。
土日も1時に帰ってくるような生活の中で、なんかスゲェかっこいいブログ見つけたから貼っとく。 正直、世界観変わる。 自分のブログ記事の淡白さに泣きたくなる。 スゲェかっこいいブログ見つけたから貼っとく。 http://www.boiled-pasta.guru/entry/2016/04/27/いまからお前の生存戦略を告げる%E3%80%82 こないだの「勇者たち」の記事で俺が言いたいことって、たぶんこういうことだった。
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