This Is The One! - innocent -

俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。





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ひじきの炒め煮



妊娠後期に入った妊婦は、一般女性の約3倍の鉄分を必要とする。
保健所のようなところの「母親学級」で妻がもらってきたパンフレットには、鉄分豊富な食材の例が載っている。


今夜はひじきの炒め煮。
人参は細く切って炒める。
水で戻したひじきと大豆の水煮、鰹のだし汁を入れる。
油揚げも買おうと思ってたけど忘れた。
いつもの調味料。
砂糖、塩、酒、みりん、醤油。
塩が載ってないレシピが多いが、少しの塩を入れる事で味が尖る。
ような気がする。


「パパママ学級」でパートナーシップについて講義した女性(4人の子持ち)は、父親の協力の重要さを散々説いた後で、「男の人はすごいと思うんです」と持ち上げた。
「母は9ヶ月間かけて母になるけど、男の人は実感もないままある日突然父になるんですから」。
男なんていつもだいたいそんなものだ。
おまけみたいなもので、本当の実感に触れる機会からはいつも除外されている。


鮭を焼く。
いつもの小松菜。
あさりとわかめの味噌汁。


妻は向こうの座卓で家計簿をつけている。
「風邪の匂いがする」
妻は俺よりも、俺の体調に敏感だ。
俺よりも俺に詳しい誰かがいる事。
結婚と家族のメリットはこんなところにあるような気がする。

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親子丼


今日は親子丼。
昨日の残りのカボチャ。
小松菜のおひたし。
ワカメと豆腐の味噌汁。

ついでに昨日の洗い物も残っているから、まずはこれを洗ってから。
スポンジ、泡、蛇口。

これが少し負担。
洗い物はその日に済ませておきたいものだ。
いざ料理の前に洗い物をするのは気が削がれる。
しかし昨日は妻が自分から言い出して、鍋などを洗ってくれたのだから、むしろ感謝だけが正当な感情だろう。


小松菜を電子レンジで2分。
この方法を教えてくれたのは妻。
というより、妻の友人からのまた聞き。
もはやお浸しのためにお湯を沸かしていた俺ではない。


妻はすぐそこで洗濯物をたたんでいる。
疲れ切っていて、眠たげ。
少しいらだたしげに、言葉をかわす。


水。
砂糖。
酒。
みりん。
醤油。
タマネギ。
小ぶりに切ったムネ肉。
軽くといた卵。


味と煮え具合を確かめる。
俺と妻は、今のところ敬意を失わず、和やかにやっている。

今の俺にわかるコツを書いておく。
和やかでいられるコツを。
いつか忘れてしまった時のために書いておく。

自分のために何をしてくれるかではなく、相手のために何をできるかを考えることだ。
相手を喜ばすために、何ができるかを。
ずいぶんJFKじみているとはいえ、それが本当な気がする。

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カボチャの煮つけ




カボチャを煮ながら書いている。
カボチャは大きく切った。

小松菜の値段が下がって、138円(特価)だった。
お浸し。
生姜の豚汁は昨日の残り。
ホッケ干しを焼いて。
大根おろし。

今日は妻のほうが帰りが遅い。
身重にして、忙しい妻だ。


我々の忙しさには終わりがない。
チャールズ・ダーネイ(シャルル・エヴレモンド)は、「皆がすることを私もする。働くのだ」と言って、貴族の地位を捨てた。
働くことは人道に反することではない。
むしろ、人間性への賛歌だろう。


ル・グウィンの小説に出てくる好ましい人々は、よく手を動かす。
アースシーにあるロークの学院には「手わざの長」がいる。
ゲドもテナーも、よく手を動かす。
ラウィーニアも西のはての人々も、よく手を動かす。

カボチャは大きく切った。
ホッケを焼いて大根をおろすのは、もっと妻の帰りが近づいてからにしよう。


我々の労働によって獲得された資本が、我々の人生からかけ離れた彼方に蓄積され、さらに流れていくことについて、嘆いてみても仕方あるまい。
膨れ上がったマネーは各所でバブルを起こしてはじけては、総量を増やしながら流れていく。
その気になった誰かの業を満たすのに役立てられる。

我々は今日の日を慎ましく、身の丈なりに生きることで、幸福の領域を守っている。


日記は紙に書け、と言われるだろうか。

「いつか、書かなくなる日を目指して書くのだ」とノートに書いたのはもう5年も前だ。
知恵と言葉の身体化、と。
まだ書いている。
人目につくところに書いている。
それが俺の業だ。

働くだけで済ませられない。
手を動かし、呼吸をし、世界と戯れる。
そういう幸福に、とどまれない。


もうじき妻が帰る。
ホッケをフライパンにのせる。
それでいいじゃないか。

こんな生活のために、革命があったのだ。

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あるいは運命という名の道化

朝井 リョウ
新潮社

JUGEMテーマ:読書

 


「心配しなくてもどうせいつか自分の運命については知る」というような事をテッド・チャンが、ヴォネガットの言葉になぞらえながら書いていた。
『あなたの人生の物語』の主題は、だいたいそんなところだと。


あらすじを言われると怒る、という人が世の中にはいるらしい。
書評をする時にはこの点で紛争を呼ぶ事があるのだと、いつかどこかの新聞の書評欄に書いてあった。
俺は自分の運命に興味津々ではあるが、運命を知ったとしてもやはり人生に興味津々だろうと、なんとなくそう思う。


だいたい、どんな優れた小説も、論文も、演説も、あらすじにしてみれば大した事は言っていない。
骨子と結論はだいたい三言ぐらいに要約できる。
『あなたの人生の物語』にしてみれば、「主人公が地球外生命体に出会う。その地球外生命体は、人間が空間を把握するのと同じぐらい観察的に時間を把握できる。主人公も、その時間把握の仕方を身につける」といったところだろうか。
これを三言と呼ぶのかは俺は知らない。


こういった要約に感銘を受けるとすれば、それはとても幸運な体験である。
そんな時には、自分の脳内にまるで参照できる概念がなく、また金輪際生まれてこないだろう発想に出会ったという事だからだ。
こういったあらすじを読んだ場合、何を言っているのかよくわからないので、本文を読むしかない。


「誰でも人生に一度は傑作を書ける。自分の人生だ」
という意見を何度か読んだ事がある。
俺はこれに賛成しない。
精々、人生のあらすじが書けるぐらいだろう。
人生のどの場面をどのように書くか。
これが傑作かどうかを分ける。

人生の味わいは、運命を知った時ではなく、それを実際に生きた時に知る。
問われるのは「何を(what)」よりも「どのように(how)」であり、知恵や技法の居場所はここにある。
あらすじが本文に対してそれほど関係ないのと同じぐらい、運命は我々に対してそれほど関係ない。
その逆は、切り離し不可だが。
どんな運命であれ、我々はそれを生きるのである。
道のりそれ自体よりも、その運び方にこそ人生の妙は満ちている。


しかし俺はそれを知った上で、自分の運命に興味津々だ。
ことほど左様に、我々はギャンブルが大好きなのだ。
俺の行く末について、あるいは植え付けられた性質について、「知らない」という事に喜びを見出し、「答えが出る」事に喜びを見出す。
自分の手に負える事より、むしろ手に負えない事の方に熱中する。
ギャンブルが常に魅力的なのは、ままならない不自由について我々に教えるからだろうか。

若者にとって「結局ぼくらが何者になるか」は、興味深い問いかけだ。
成功するのかしないのか、抜きん出るのか出ないのか。
それはいわば未来予想図。
出馬表の◎○△は統計学的に優位かもしれないが、俺の人生の試行回数は1だ。
心配しなくとも我々はどうせ、長く生きれば生きただけ、少なくとも何者かには絶対になる。
気は小さいくせに態度と腹回りばかりでかい無知で高慢なオヤジになる可能性もある。


将来「何者になる」かよりも、今「何者である」か、さらに今「何者になれる」かを問う事。
自由はそこにある。







 

 

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マーク・トウェイン自伝

JUGEMテーマ:読書








夕飯後に俺は皿を洗いながらAviciiの「Waiting for Love」を歌っていると、食べていた柿が喉に詰まったので、吐き出そうとしてむせた。
それを見ていた妻が、大きな声を上げて笑う。
心から可笑しそうに、笑いすぎて苦しくなってもおさえきれずにまだ笑う。

俺は妻に心を許している。
妻が俺に心を許す態度を見せてくれる事も嬉しい。
共に裸のままで、敬意を持って暮らしている。

もしも彼女が死んでしまったとしたら、俺はとても悲しいだろう。
動かなくなった彼女の姿に。
変わり果てた彼女の姿に。
生き物でなくなった彼女の姿に、すっかり何かを失った気持ちになるだろう。
そんなことを思うだけで、俺は悲しい。

「Waiting for Love」のビデオの爺さん、そんな感じの役だ。
男が妻を失う時、何かがごそっと持っていかれるらしい。



始めから終わりまで痛ましい、マーク・トウェインの自伝。
どこを読んでも華々しいまでに面白いのに、同時に胸をかきむしりたいほどの悲しみに満ちている。
自伝が終わりに近づけば近づくほど、自伝は冷え冷えと悲しく、痛ましくなっていく。


城山三郎の『そうか、もう君はいないのか』。
このタイトルがあまりにも痛ましく、何もかもを予期させて胸に刺さると、何人もの男が感想を書いている。
これも自伝である。
トウェインの自伝も、城山のそれも、ある日突然に筆が置かれて、そこで終わる。
そこから先、もう言葉を持っていかない瞬間だろうか。
それとも、言葉が生まれてこない瞬間だろうか。
もう、二度と取り上げられる事のない筆、二度と書かれる事のない言葉たち。

そしてたとえばディケンズが書いたように、誰もが秘密を抱えたままに死んでいく。
誰にも知られない秘密。
知らせようにも知られようのない秘密。
トウェインも、城山も、いまや墓に残るのもせいぜい骨ぐらいだろう。
他には何も残らない。
俺と妻も、一つにはならないまま、知らない事をたくさん残したまま死んでいく。
たくさんの時間を過ごして、たくさんの出来事を分け合って、別々に死んでいく。
それでも、出会えてよかったと、俺はきっと言える。


マーク・トウェインは妻に先立たれた後、最後まで身近に残ってくれた娘と共に暮らす。
トウェインには子が4人いた。
3人の娘と1人の息子だ。
息子は、1歳と10ヶ月で死んでしまった。
トウェインが子守をして無蓋馬車に乗った時、不注意で赤ん坊の体を冷やしてしまったのだ。
この場面は自伝に短く書かれているだけであるが、たったそれだけの文章でひどく胸をうつ。
トウェインの後半生は特に厳しかった。
事業に失敗して借金をつくり、その借金を返すために世界中を講演して回った。
そんな旅をしている時、アメリカに残してきた長女のスージーが死んだ。
妻のオリヴィアは、トウェインと出会った時から体が弱かった。
講演の旅を終えて、のんびりと休まる時もないまま、オリヴィアも死ぬ。
トウェインが苦しい時、いつも何かと世話を焼いてくれた、頼りになる次女のクララは、その後に結婚する。
結婚して、ベルリンに住まうようになる。
トウェインの身近に残ったのは、三女のジーンだけとなった。
それでも、愛する娘と二人で静かに暮らす事で、残り少ない日々も恵みのあるものになると、トウェインはそう思っていた。
そのジーンも、共同生活が始まって4日後の朝に急死する。
この7ヶ月前には、親友の編集者ロジャーズ氏も亡くなっている。
トウェインがロジャーズをどんなに頼りにしていたかは、カーネギーも自分の自伝に書いている。
トウェインには、誰もいなくなってしまった。

ジーンの死を記す、自伝の最終章はもちろん、悲しみに満ちている。
しかし、トウェインは勇敢にもこう記すのだ。
「夢は実現した」。
「正夢はまるまる2日もつづいた」と。
トウェインが家に帰った翌日と、ジーンが息を引き取る前日。
そのまるまる2日間が、トウェインと娘の「確かに一つの家族」としての生活だったと。
この悲劇に呪いを吐くのではなく、実現した2日間に感謝を告げるのだ。
勇気とは、こういう事だと俺は思う。
人生に素晴らしい瞬間があったのなら、それが20年間つづこうと2日間つづこうと、どういう違いがあるだろうか。


俺は、妻と出会えて、こうして共に暮らしている事に、こんな感謝を告げたいと思う。
どんなに辛い事が待っていようと、俺は恨みや呪いの言葉は吐かない。
生まれたから、出会えたから、素晴らしい時間があったからこそ、辛い事も起こるんだという事を忘れない。
父と母に、ありがとう。



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posted by kach 23:55comments(0)trackbacks(0)