This Is The One! - innocent -

俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。





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ジャック・ロンドン

JUGEMテーマ:読書
 


これは俺が書いたのではないか、と信じそうになる本がたまにある。
『ジャック・ロンドン自伝的物語(マーティン・イーデン)』というのは、そんな一冊だった。
一人のワイルドな青年が啓蒙の光を受ける。
社会階層の狭間で、とびきりロマンチックな夢を見る。
やがて、その光が彼を苦しめる。
これを読んだ直後の、俺の感想。
「極度に情熱的な、これ以上ないほど胸高鳴る青春小説。「これは俺だ、これは俺のことだ!」と、100年前のサンフランシスコをまぎれもない俺が歩いていたことを知る。愛を至高の位置におき、美で世界を診断する。どうか彼を、俺を忘れないでおくれ。でも、幸か不幸かlife goes on。」



ジャック・ロンドンが一般に有名なのは、アラスカを舞台に犬を主役に据えた動物小説においてだ。
『野性の呼び声』と『白い牙』。
そうであるしかない掟の中で、いかに立ち回り生き延びるか。
しかも、ただ生き延びるだけでなく、尊厳を保ちながら。
今となっては素朴に感じるような社会進化論に彼は同調しながらも、個別具体的な人間たちの生活を忘れたことは決してない。
争い合って生き残るべきものが淘汰されていくことによって社会が進化していく、と簡単に言うほど非人間的ではない。
協調し、思いやり、共に働くこともまた、人間の生活を改善するのだということを熟知している。



彼のもう一つの有名な作品に、エドワード朝のロンドン貧民街のルポ、『どん底の人びと』がある。
ここにおいても、彼の愛情とユーモアに満ちた率直で忌憚のない観察眼と文章が活きている。
このような、情熱的で涼やかな男でありたいものだ。
この本を読むことによって、俺の原点の一つとも言えるような疑問を改めて思い出すこともできた。
その疑問とは、「これだけ文明が発展し生産力が上がってもなお、人びとがあくせく働き、幸福に満ちているように見えないのはなぜか?」というものだ。
好きなように生きていいだけの富を得ているような気がするのだけど。




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トニー・ジャット

JUGEMテーマ:読書


トニー・ジャットは仕事をしたと思う。
彼の仕事は作品をつくり上げるというよりは、コミュニケーションをすることだったから、完成品として残っているものは少ない。
完成品としての本は、『ヨーロッパ戦後史』と『記憶の山荘』だけだろう。
そのどちらもが、素晴らしい作品だ。
あとは、「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス」に掲載されたものを始めとする記事の数々と、学生や様々な人たちに向けてなされた講義の数々などが、彼の公式の仕事ということになるだろう。


俺がトニー・ジャットをとても好もしく思うのは、表面的にはアンビヴァレントに見える彼の態度に深く共感するからだろう。
何かを信じながら、同時に自分を疑っているような態度。
結局、彼の現実主義は社会民主主義という選択肢に落ち着くことを決めた。


把握や理解や分析や理論や言説は、何よりもまず観察にもとづく。
観察にもとづいているように思えない言説には、ジャットはいつもいらだっていた。
しかし、徹底的に観察してもなお、彼はいらだっていたように俺には思える。
この世のあり方を、受け入れるよりほかないものとして受け入れながら、いらだっていた。
日を追うごとにままならなくなっていく身体を、受け入れるよりほかないものとして受け入れながら、いらだっていたように。

徹底的に身動き取れない夜を一晩だけ過ごしたことがある者として、俺は彼に共感する。
結局、この世は俺の心底満足いくようにはできていないのだ。
それでも、きっと愛しているのだ。
自分にできることをきちんとやったジャットのように、俺は生きたい。



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アルフォンソ・リンギス 『何も共有していない者たちの共同体』

JUGEMテーマ:読書
 


本田は美しいなぁ。
サッカーの日本代表は、ワールドカップの決勝トーナメントを戦える実力を持っている。
それは証明ずみだしね。

ラグビーの日本代表にそれが期待できないのはなぜかというと、本当のトップレベルのチームに対したときに、ボールの争奪で絶対に勝てないから。
同じ課題を背負ったフィジーは前回、トーナメントまで進んだけど、パシフィックアイランド系のチームは、それぞれに培われたラグビーの文化がある。
日本には、ない。
そうなれば、基本の基本となるボールの争奪で負けてしまえば、強者のチームを上回れるところはどこにもない。

以上、珍しく韓国を蹴散らした、サッカー日本代表の試合を見て、思ったことでした。




さてと、さっきの記事を書いたあとに、この本を読み終えた。

俺は俺なりに誠実にものを考えてるつもりで、そしてそれを俺なりの形式で書きつけてもいる。
それを俺一人の思索や創作だといきがるつもりは全然ないし、むしろ俺は考えたり書いたりしているというよりも、考えさせられたり書かされたりしているのだと感じることも多い。
そして、しっかりとそれをまとまった形にして、出版してくれている人がいるものだ。


俺の思索というものは、俺の小さな生活を直接の題材にしながら、そこから拡がっていくあらゆるものを取り込んでいくものでもある。
それは、俺にとってのみ存在する作品のようなものにすぎない。
その作品を誰かに見せたいと思えば、俺のノートを見せるより他にないが、それとは別に、この『何も共有していない者たちの共同体』という本を読んでもらえれば、もしかしたら俺のノートを見せなくてもいいかもしれない。
俺のノートや頭の中に含まれているものは全部、この本にも含まれているような気がする。



「自分の歌を歌うことを決意した人は、世界のなかに、彼に固有の可能性を見いだし、そしてみずからのなかに、愛する人、親、作家、冒険家になることができるという、自己固有の力を見いだすのだが、それを彼は、自分自身の歌を歌い始めることで、他者に譲らなければならない。というのも、自分自身の歌を歌うためには、ちょうど他者を自分固有の愛で愛するためには自分の理解と心のすべてを必要とするように、自分の感受性のすべて、悲しみ歓喜する力のすべて、そして自分の時間のすべてを必要とするからである。」 p.214


俺は、俺の完全に納得できる本を書く、あるいは、世界中を巡ってただそれを感じる、という死にふちどられた自己固有の可能性を譲り、ある固有の他者を自己固有の愛で愛することを決意した。
その決意が、前の日記に書いた、3月下旬の決意である。

今でも、しばしば揺れる。
俺の本当に望むものはこれでいいのだろうか。
わからない、まったくわからない。
おそらく、どの道を選んでも揺れるだろう。
たとえば、あのまま思索とノートの日々をおくっていたとしたら、こんなやくたいもないものをいつまでもつくりつづけてこの世で自分の愛を試す限られた機会を失していいのだろうか、と今ごろは悶々としていたに違いないのだ。

しかし、生まれるということは、一歩を、そして二歩目を踏み出してみるということなのだ。
この賭け(ベット)から、仕事が生まれ、自分の音を聞き、場をつくる絶えない作業、「この世」というものとの関わりが生まれるのだ。
生命は、そこに初めてこの世での充実を得る。


だから、たとえばアーサー・C・クラークのこんな一節、「遺伝子のスープをかき混ぜることは誰にでもできるが、この仕事は私にしかできない。」(←うろ覚え、『楽園の泉』より)、に脅かされてビビることはない。
ある固有の誰かを固有の俺が愛するという仕事も、俺にしかできないのだ。
そして、どんな仕事も全身全霊のものだと、今の俺は感じる。



そして、『何も共有していない者たちの共同体』からの、前出の引用につづくこんな一節は、それでも揺れつづける俺の心を表す。

「自分自身のなかに、解放者という彼独自の姿、彼がそうなるべく生まれた聖者の姿を実現する力を自分の中に見いだしたガンジーは、政治家、愛する人、そして親となる力を、自分がそうなりうることを知りつつ、捨てた。他者が立ち退いたポストに自分がつく際、私は、物に残された配置のなかに、私自身の力に再び書き込むことができる他者の技術の図式(ダイアグラム)だけでなく、彼らが実現させる力をもたなかった彼ら独自の企ての概要を、すなわち、彼らが他者のために、私のために残してくれた可能性を、彼らに固有の命令の痕跡を、見いだすのだ。自分自身の人生に固有の力を追い求めた他者の死が、他の誰でもなく、この私に向かって語りかけてくる。」 p.214,215


俺が、自分がそうなりうることを知りつつそれらの可能性を捨てながら、唯一成し遂げるべき仕事として選ぶものは、これでいいのだろうか。
他の可能性を試すことはできない、あのときそうしていたらどうなっていたのかを人が知ることは永遠にない。
それでもなお、どれかを選ばなければならないのだ。

ある夜に思い出すだろう、一歩を、そして二歩目を踏み出した、若かりしあの瞬間のことを。
そして、現実にならなかったすべての可能性を思い、どの道を選んだとしても、そこには肯定だけがあったことを知る。
すべてがただ甘いやさしさにつつまれるとき、過去も未来も消え、生命だけが残るのだ。



「あたし、思うんだけど、」テハヌーが口を開いた。ふだんとちがう、やわらかな声だった。「死んだら、あたし、あたしを生かしてきてくれた息を吐いてもどすことができるんじゃないかなあ。しなかったことも、みんなこの世にお返しできるんじゃないかって気がする。なりえたかもしれないのに、実際にはなれなかったもの、選べるのに選べなかったものもね。それから、なくしたり、使ってしまったり、無駄にしたものも、みんなこの世にもどせるんじゃないかなあ。まだ生きている途中の生命に。それが、生きてきた生命を、愛してきた愛を、してきた息を与えてくれたこの世界へのせめてものお礼だって気がする。」  『アースシーの風』 ゲド戦記第5巻 P322,323



そして、俺に勇気を与えるのは、ル・グウィンも宮崎駿も、結婚して子供もいるという事実なのだ。
きちんと生きれば、人生ではいくつかのことができるらしい。
リンギスは、子供いるのかなぁ。



あと、大荒れの経済のことと、イギリスの蜂起については、とりあえず口をつぐみます。
偉そうなことを何か考えているわけではないけれど。




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過酷さ と 恩寵

JUGEMテーマ:読書
 

あけましておめでとうございます。
2011年です。
俺は新年というやつが好きで、まっさらなカレンダーのような、未知なる1年間が目の前に待ち受けていると思うと、期待と不安に震える新入生のような気持ちを味わうことができるのであります。


さてと。
この年越し、そして正月、俺はずっと本を読んでいた。
年をまたいで読んでいたのが、『リーマン・ショック・コンフィデンシャル』の上下巻。
さらに、2日には『水神』の上下巻を読み終えて、今日の夕方に『フラナリー・オコナー短編集』を読み終えた。

「お正月だよ ノヴェル大会」ということで、ノンフィクションとフィクションの違いはあるけども、それぞれに小説である。
そこではダイモンとかポールソンとか助左衛門とか元助とかボビー・リーとかミセス・ホープウェルとかいう名前の登場人物たちが、何かの行動、行為をしたりするわけだ。
大きく異なる場所や時代で、大きく異なる生活を営む彼ら彼女らを見つめていると、何か不思議なものが見えてくるようでもある。
「文化」とか「文明」とか、何かそういうものが。


とにかく強烈なのがフラナリー・オコナーで、彼女の短編たちが教えてくれるのは、こういうことである。
よく考えてみれば(というか、ちょっと考えてみれば)わかることだが、人間に安らぎを与えてくれるような絶対に確かな「意味」など、この世には無い。
この世に生まれたことを、それ自体のみとして見つめてみるならば、この人生というのはずいぶんと空虚なものである。
人間の生に対して意味を生み出すのは、人間自体からなのだ。

人間には、幸か不幸か、知恵というものがある。(知恵は人間だけにある、という断定に読みかえないでほしいが)
知恵がある人間にとって、まるっきり意味を持たない生というのは、どうやら少し耐え難いもののようだ。
無知な生活。
昨日のことも、明日のことも、視界の少し外のことも、あるいは眼前で何が起こっているのかも、何もかもに無知なまま、ただ「今ここ」それのみを受け取る。
知恵を持つ人間は、そういう生活から脱却したくなるらしい。
(最後の引用を読みながら、聖書において、何が人のそもそもの「大罪」だったか思い出してみよう)

そういうときに人間は何に頼るか。
まぁいろいろあるのかもしれないが、俺の知る限りでは「道徳」や「物語」である。
こういうことをしていけないのは何故ですか、こういうことは是非やるべきなのは何故ですか、という道徳。
あなたが今しているのはどういうことですか、それをするとどういう期待が持てますか、という物語。
こういうものがあるから、人は自分の行為や人生に意味を付与していくことができる。
俺は誰かの命を助けたから偉い、とか、子供たちが立派に育ってくれたから私は報われる、とか、私は金融業界を救うためにこんなにも働いているのだ、とか、そういうことだ。
そして、道徳と物語、両方を強く持っているのが宗教というものである。


「善人はなかなかいない」というタイトルでまとめられた、フラナリー・オコナーの短編小説たちは、これらを徹底的に問う。
乾燥した農地、カトリック、人種、暴力、いかにもなアメリカ南部の風景の中で繰り広げられるドラマは、普遍的なテーマを含んでいる。
大人たちは頑迷で人の話なんか聞かず、子供たちは他人の都合なんか考えない。
誰も自分のために何かをしてくれようなんていう気はないのだから、必死で自分の身を守らなければならないのだが、そんな努力を笑い飛ばすかのように「現実」は裏切る。
そういう中で、少しでも安らぎのようなものが欲しいのなら、何かを全力で「信じる」しかないのだ。

そして、皮を一枚剥いだ「現実」の生々しさ、あるいは無慈悲さは、20世紀中盤のジョージア州でも、江戸時代後期の筑後でも、2008年のウォール街でも、2011年の東京でも、同じことなのである。


『水神』が教えてくれるのは、江戸時代の貧しい農民の、まさに「生活」。
何時に起きて、何をして過ごして、何を食って、何を話して、そういうことだ。
そして幕府との関係や、村人が日々を過ごす人間関係は、萱野稔人の暴力論や、フーコーの権力論を、素晴らしく実践的に教えてくれる。
それら全てが、今を生きる俺の考えを揺さぶり、生活を小さく変える。
その一連のはたらきも、物語だ。


「経済合理性もまた、現代の宗教である」とはマルクスだが、ウォール街のエリートたちは「株主に貢献する」という至上命題の下に為される諸行為の、複雑すぎる意味について考えはしないのである。
考える時間もないし、意味もないし、そもそも彼らには見えないものがあまりにもたくさんある。
そして、きっと誰もが、全てを見ることはないままに日々をおくるのだ。
それでいいんでしょーか、わるいんでしょーか、どーでもいいんでしょーか。
どう思いますか。
それもまた道徳で物語です。
人間というのは、複雑で、難しくて、面白いですね。



そういうふうにして、「お正月だよ ノヴェル大会」で数々の具体的な疑問を受け取った俺は、次に『自我の源泉』を読もうと思っている。
いくつかの候補の中でこれに決めたのだが、それは第一章の冒頭からこんなにピッタリな文章に出会ったからだ。

「この探求(近代的アイデンティティの探求)を実際に行えばすぐ分かることだが、明晰であろうとすれば、私たちはさらに、自分たちの善の捉え方がどう発展してきたのかを何らかの仕方で理解しておかなければならない。自我のあり方と善、言い換えれば、自我のあり方と道徳は、、実は相互に分かちがたく結びついたテーマだということが判明するのである。」

もし、俺に何かの才能があるとすれば、その時の自分に適した本を選び取る才能だろうと思う。



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 ミスタ・ヘッドはとても静かに立ち、神の憐れみがもう一度自分にふれるのを感じていた。だが今度は、その働きに名前をつけるような言葉はこの世に存在しないことがわかっていた。その憐れみは苦しみから生じる。憐れみはどんな人にも拒まれることなく与えられ、子供たちにはふしぎなしかたで与えられる。人間が死ぬとき、造り主なる神のもとへ持ってゆけるのは、神から与えられた憐れみがすべてなのだ。ミスタ・ヘッドはそのことを理解し、突然、自分が持ってゆけるもののわずかさを自覚して、はずかしさで体がかっとあつくなったショック状態で立ち、神の十全さをもって自分を裁いた。すると憐れみの働きが老人の誇りを炎のようにおおい、焼きつくした。これまで自分が大罪を犯した罪人だと思ったことはなかった。だが、こういうほんとうの堕落でありながら、しかも堕落した当人が絶望に陥らないように、これまでかくされていたのだとわかった。

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フラナリー・オコナー 『フラナリー・オコナー全短編(上)』 p.143 「人造黒人」より

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ミシェル・フーコー 『主体の解釈学 (コレージュ・ド・フランス講義1981-82)』

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ミシェル・フーコーという名前は、現代においてとても巨大だ。
俺は社会学部の学生をやっているが、そこにおいてもたびたび登場するし、とりとめもない雑読の端々にその名前が出てくる。(ときに小説のなかにさえも)
思想というものはまさに生きて、我々の生活を形づくっていくのだなぁ、と驚かされることがある。

俺がどうしてこの本を手にとったかというと、現代における個人の置かれている位相、というようなものについて考えてみたかったからである。
人間一人ひとりというものがどのように捉えられ、どのような期待をかけられ、何をすることができ、何をすることができないのか、などなど。
そして何よりも、俺という個人はどういうものとして捉えられ、俺に何ができてできなくて、俺はどう振舞うのが自分にとって最も望ましいのか、などなど。
俺は知らないうちに何かを禁じられているのではないだろうか、自分自身や世界というものは、実は俺の考えていたものとまったく違うものであるのではないか、などなど。


「だが哲学 ―哲学的活動という意味で言っているのだが― が思考自身への思考の批判的作業でないとしたら、今日、哲学とはいったい何であろう。もし、また哲学の本領が、自分のすでに知っていることを正当化するかわりに、別の仕方で考えることが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとすることを企てることのうちにないとしたら、いったい哲学とは何であろうか」

フーコーは別のところでそう言っているのだが、つまり、俺の知りたいことというのは、少なくともそのうちの一つは、そういうことなのだ。
俺は、もっともっと、ずっと違う考え方ができるはずだと思うし、驚くほどに自分自身が変わるということもありえることだと思っているのだ。


1982年の講義を収めたこの本の内容が、まさにそういうものになっている。
現代の我々が「自分自身のことを考える」というとき、その一般的な態度は、自分を対象として、それを探っていきながら認識していく、ということではないだろうか。
しかし自分自身を認識する、ということだけが自分との関係の持ち方ではない。
たとえば、自分自身を作っていく、というような関係もありうるのだ。
古代ギリシアからヘレニズム・ローマ前半期を主に題材にとって、そこで探られていた自己との関係のさまざまなあり方を見ていく。

その基調に流れる疑問というのは、社会関係の中での<主体>の別のあり方はないだろうか、というものだ。
私たちを脅かす可能性を常に抱えているものとして、権力があり、一人ひとりがそれと付き合うやり方はまだまだ世界中で模索中である。
ときに日常的なものとして、ときに特異なものとして現れてくる、権力的なものという問題は、そもそもどこまで根源的なものなのだろうか。
我々が自明なものとして受け取ってしまいかねない<主体>というものは、実はその内部に何らかの装置を組み込まれているのではないだろうか。
こういうことが、この講義の基調的な疑問として、俺が読みすすめながら聞き取ったものだ。



「存在」への懐疑というのは、数々の思想家が口にするところであるが、「存在」から「生成」へ、というのはここ100年ぐらいのトレンドではないかと、俺は勝手に思っている。
はじめはドゥルーズの解説本で見つけたのだが、次にフッサールの解説本で見つけた。
フッサールは100年ほど前の人物だが、「存在」から「生成」へというテーマがアクチュアルに響くのはここ最近、50年ぐらいだろう。
何かが硬直したときに、人間はとてつもなく凶悪なことができるらしい、という反省のもとで、「生成」というテーマは、法や規範との新しい関係を開くかもしれない。


この講義の校訂者であるフレデリック・グロが「講義の位置づけ」という、あとがきのようなところで書いているのだが、フーコーの『性の歴史』の執筆が遅れたことについて。
「執筆というものは、理論的な計画のたんなる実現になってしまったら、その本来の任務、すなわち経験と試みの場であるという任務を果たしそこねてしまう」
つまり、執筆というものの過程で、自らの思想が研磨にかけられ、何らかの変容をきたしていく、ということだろう。
執筆に限らず、何かを作ったり、人と深く関わったりということには、だいたいこういう効果があるように思う。
つまり、世界を試練として自己を研磨し変容していく、というローマ期の人生観などは、今でも十分に有効なものだろうと思う。

考えてみれば、それ自体は取り立てて目新しくも無いのである。
しかし当たり前のことを、まるで無いものかのように平板化し、枠組み化していくことがあるのが、権力や暴力というものである。
そういうものと対峙するとき、当たり前のことを大きな声で言える、ということはとても大事なのだ。
そのために、透徹した論理は欠かせない。

小熊英二が書いていたとおり、同時代的に要求される思想というものは、多くの人が思っていることを言葉にしてくれるような思想のことなのだろう。
後に評価されるような思想はまた別として。
だからフーコーがこんなにもあらゆるところに顔を出すのも、彼の思想が今を作っているというよりは、彼の言葉が今の時代をうまくすくい取っている、ということなのかもしれない。
どちらにしろ、刺激的で面白いものではあるが。
だが果たして、本当に自由な場で俺が変容していくことなど、できるのだろうか。



最後に、俺はもちろんル=グウィンの大ファンなのであるが、この本でローマの思想に触れてみて、ル=グウィンの思想との類似に驚かされた。
老子から影響を受けていたのだろうと思っていた部分も、もしかしたらマルクス・アウレリウスからの影響かもしれない、とか。
『ラウィーニア』を読んで知ったのだが、ル=グウィンはラテン語を読める人で、ローマの文学には深く魅了されているようだ。
だから、これらの思想に触れていることも間違いないだろう。
そして、ル=グウィンの世界観・人間観に触れて安らぎを覚える俺は、セネカやマルクス・アウレリウスの思想にもよく似た安らぎを覚えた。
もっと読んでみようと思う。

しかし、西洋思想と東洋思想を同時に学んでいると、その相違よりも、共通するものの多さに驚かされる。
人間の発想というものはその程度のものなのか、それとも広大なユーラシアの地理的なつながりに思いをはせるべきなのか。
たかだか5000年程度の文明史ではあるが、人間というのはいろいろと謎を見せてくれる。

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