This Is The One! - innocent -

俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。





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私はどこへ行くのか

JUGEMテーマ:ポケモンGO

 

 

 

 

 

社会現象というものに参加したのはずいぶんと久しぶりの事ではなかったか。

つまり、誰の目にもそれと見て明らかである、そこに参加している自分自身にとっても明らかなほどである、明らかな社会現象というものに。

帰りの電車、歩きながらすれ違う人々、あまりにもたくさんの人々が同じ事についてしゃべっているものだから、実際には半分以下の人数なのだろうけれど、まるでこの世の中のすべての人たちが同じことについてしゃべっているかのように錯覚してしまう。

 

 

夜の10時に、パジャマのような姿で近所の公園に行くと、同じように導かれるように集まってきた人が6人いた。

寝る前のひとときに散歩に出てきたような男女二人連れ。

これからゲームでもして夜を過ごしそうな、フリーターや学生風の若者二人連れ。

仕事帰りと一目で分かる、スーツ姿の男は公園の前の道の角でスマホを見つめて立ち尽くしている。

なんとなく目的もなさそうにゆっくりと歩いている男が一人。

そして、俺は自転車に乗って、歩くほどの低速でフラフラと公園の中を徘徊している。

 

皆が一様に、この公園のどこにも無いが、それであると同時に、この公園に来なければ見られないものを見ている。

昨日触れてみてでの感触だが、何らかのシステムやあらかじめ与えられた指示によって、同じ場所にいる人たちに対してある程度同じものが同じタイミングで出現するように調整されているらしい。

 

 

今回の事態において何よりも重要な要素は、これだけ多くの人々が同時にこの出来事に参加したという事だ。

少ない人数や、狭いコミュニティにおいては、同じような事はこれまでも起きてきたし、いつでも起こりえた。

これほどの規模、割合の人々が参加したという事が何よりも重要だ。

それが意味するのは、こういう現象が人々に知られたという事だ。

そして、それがすべてだ。

一度起こった変化は、元には戻らない。

それが望ましいことかどうかなんて関係ない。

ただ、変わっていくのだ。

 

 

変化の後に生きる人々にとって、変化の前の生活はどうだったのか、前の人々の心はどうだったのか、前の人々はどんなふうに生きていたのかを知る事は、ひどく困難なものになる。

自分から知ろうとしない限り、そんな事は一生考えずに知らないまま生きていく人のほうが多いだろう。

 

SNSが登場する前の世界はどうだったのか、スマホが当たり前になる前は、インターネットの以前は、パソコンの以前は。

エアロスミスとRun-DMCとMTVという悪魔的な組み合わせが生まれていなかったら、シルヴィア・ロビンソンがストリートのバカ騒ぎを使って一儲けすることを思いつかなかったとしたら、どうなっていただろうか。

エルヴィス・プレスリーより前、あるいはレコードが無かった頃、生活のどこに音楽の居場所はあったのだろうか。

郵便の無い頃に遠方の友人という存在はありえたのか、海の向こうの出来事をご近所中の全員が知っているなんて、新聞が無かった頃には誰も想像もしなかったいう事について、思いを馳せる事はあるだろうか。

 

 

人々が、ここにいながらにして、ここに無いものを見て、しかし同時に同じものを見てもいる。

位置情報と拡張現実がもたらす新たな体験と日常生活は、当たり前のものとなるだろう。

ポケモンはそのきっかけに過ぎない。

そして、上に挙げたすべての出来事も、出来事を取り巻く他のあらゆる準備や高まりきった機会や可能性に対しての、時を得たきっかけにすぎなかったように、そのきっかけがあらゆるものを大きく変える。

これから、ウェアラブル端末やキャプチャ技術によって、ポケモン世界のような平行世界と肉体世界の相互の情報転換とシンクロニシティはより高まっていくだろう。

ブロックチェーン技術やビッグデータ解析は、脳内にとどまり続けていた人間の思考の典拠する先を、大きく広げていき、思考は一人のものではなくなっていくだろう。

 

 

そういう、なんとなく見えている未来が、今すでに始まっていることを人々が知る夜。

そして、知ることによって始まる夜。

昨日は、そういう夜だったのである。

 

 

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「前田、野村、緒方、金本、江藤、大野、佐々岡」 「田中、菊池、丸、鈴木、安部、野村、中崎」

JUGEMテーマ:広島東洋カープ

 

carp_kuroda2

 

 

今日も、黒田が熱投した。

そしてカープは11連勝。

俺は今までに、こんなに強いカープを見たことがない。

いや、というよりも、強いカープを見たことがない。

 

俺が野球をちゃんと見始めたのは小学校の時で、今にして思えばあれは「メイクミラクル」の年だったのではないかと思う。

とりたててこれという明らかな記憶があるわけではないが、いつからか俺はカープファンだった。

何よりも魅力に感じていたのは、あの打線だ。

 

1、緒方(中)

2、正田(二)

3、野村(遊)

4、江藤(三)

5、前田(右)

6、ロペス(一)

7、金本(左)

8、西山(捕)

9、佐々岡(投)

 

そして代打に、右の町田、左の浅井がいる。

こんなにかっこいい選手しかいないチームが他にあるだろうか。

他に思いつくとすれば、無敗優勝の時のアーセナルぐらいだろうか。

あと、2003年の決勝を戦ったクルセイダーズとブルーズの両チーム。

 

やがて時は流れて、正田が東出になったり、佐々岡が黒田になったりした。

そして、いつでもカープは弱かった。

頼りない投手陣、続発する怪我人。

だから正直、黒田がいた頃のカープも、逆に言えば黒田しかいなかったし、応援すればするだけ泣けるほど弱かった。

もちろん、嶋や栗原、キラや永川、マエケンの活躍を忘れたわけではないけれど。

 

 

 

そうして、俺はしばらくプロ野球自体に関心がなくなっていた。

カープの順位は一応気にしていたが、気にしているだけ余計に興味が落ちるほどに相変わらず弱く、カープ以外のプロ野球には何の興味も湧かなかった。

 

そんな俺がまたプロ野球を見るようになったのは、黒田が帰ってきた去年からだ。

黒田は、かっこいい。

それだけじゃない。

今のカープは、確かにかっこいい。

 

1、田中(遊)

2、菊池(二)

3、丸(中)

4、新井(一)

5、エルドレッド(左)

6、鈴木(右)

7、安部(三)

8、石原(捕)

9、黒田(投)

 

あの頃に引けをとらない打線だと思う。

もちろん、あの頃のラインナップには、その後の実績と輝かしい通算成績があるから、さらに強く見えてしまうけれど。

金本などは、あの頃はまだ今の安部程度に、駆け出しだったと思う。

 

あの頃と今で最も違うのは、選手層の厚さだ。

ルナ、松山、會澤、赤松などがベンチにいる。

先発投手陣は、ジョンソン、野村、岡田、戸田、中村恭平。

さらに実績のある福井と大瀬良がいる。

中継ぎは新外国人のヘーゲンズ、ジャクソンの二枚に、頼もしくなった中崎が守護神。

今村や九里もいい仕事をしている。

今村がここまで復活したのだから、一岡や中田廉の復活にも期待が持てる。

 

 

そして今年のカープの意外な躍進を最も支えているのは、今年から台頭した新戦力たちだろう。

シーズン開幕前には、期待が低いというか、未知数だった選手達。

上に書いた先発陣のうち、岡田、戸田、中村恭平は、ローテーションに入るとは思われていなかった選手達だ。

野手では、下水流、西川、磯村。

安部と鈴木誠也の活躍も期待以上だ。

 

こんなにも強くて、未来に向けてもワクワクするカープなんて、見たことがない。

去年のズムスタでのオールスターで、カープは確かに変わったと感じられたものだが、さて、これからどうなるのだろう。

 

そして、これらの躍動する軍団のドンとして鎮座しながら、マウンドでは「今日が最後でも」と思いながら熱く投げている黒田に、男としての憧れを禁じえない。

 

 

carp_kuroda

 

 

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もてあます夜。

JUGEMテーマ:日記・一般


家で一人で酒を飲みながら、あてどもなく書き始めてみる。
自宅で一人で酒を飲んでいるのは、初めてかもしれない。
キリンラガービールと、カルビーのポテトチップス。
というのは、昨日と今日で受けてきたマーケティングに関する外部研修で、それらの商品のケーススタディをしたからだ。
J:COMの分配器のアプリでYouTubeをいろいろと見ながら、書いている。
消費社会の一角に、なんだかまともに位置を占めている気がして、社会人をやっているような気持ちがする。


おととい、人は人を傷つけてはいけないのだろうかという命題について考えていた。
結論は、
「原則は、いけない。だが、人を傷つけずに生きていける人などいない」
というものだ。

人を傷つけてはいけないのだということは、人を傷つけて初めてわかる。
苦しむ人を見て、自分がしでかした事におののく。
どうしてそれがいけない事だとわかり、おののくのか。
同情するからだ。
誰かの苦しみを自分のものとして感じ、人がこんな状態に陥るのはよくないことだと感じる。
そして、人を傷つけてはいけないのだと、心に刻む。
人を傷つけないという倫理は、自分が傷つかないための最上の防衛でもある。

しかし、人を傷つけないわけにはいかない場面というものもある。
たとえば、誰かに恋の終わりを告げる時。
たとえば、誰かが何の悪気もなくやっている事が、自分にとってはとても不快なのだと告げる時。
原則、人を傷つけてはいけない。
しかし、絶対に人を傷つけてはいけないわけではない。
絶対に人を傷つけてははいけないのだとしたら、我々は生きていけない。
肝心なのは、人を傷つける程度を知る事だ。
人は、傷ついても、治る。
人が治る能力、これを信用する事だ。
そして治る時、人はたいてい何かを学ぶ。


同じように、傷つけられるのが絶対によくないことだというわけでもない。
傷つけられて初めて、自分の弱さと強さを知るからだ。
人は自分の弱さを知って初めて、人に優しくできる。(上記の理由により、それは防衛のためでもある)
人は自分の強さ(回復力と、学ぶ力)を知って初めて、傷つけ傷つける事を含めたうえで人と付き合う術を知る。

そういうことを、考えていた。


 
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見せられる、私へ - I'll Show You -

JUGEMテーマ:日記・一般






昨日に続いて、最新のミュージックビデオの話題。
Justin Bieberの新作ビデオに驚いた。
音も映像も、見事なプロデュースワークというのか、最先端でエッジの立ったクールなものをビシッと決めてくる。


前のアルバム『Journals』を聞いたとき、プロデュースに歌手がついてきていないと思った。
音は都会的な洗練でかっこいいのに、ヴォーカルの表現力がついてきていない。
闇に溶けいっていくような夜のサウンドに、暗い深みをたたえていない青い声がのってしまう。
象徴的なのが「P.Y.D.」で、タイトルからして変態的に絶妙にズレてきているサイコーのセンスを、Justin Bieberが自分のものにできていない。

今年に入って2本のビデオが出されているけれど、それはどちらもよかった。
「What Do You Mean」の痴話ゲンカ的な世界観の中では、Justin Bieberよりも魅力的に輝くパフォーマーなどいないだろう。
しかし今回の「I'll Show You」では、隣に女のコがいない。
さて、Justin Bieberも大人のアーティスト、パフォーマーとしての成熟を迎えるのだろうか。
「S&M」のRihannaがすでに「Umbrella」のRihannaから、同じRihannaでありながら決定的に異なるところまで来ていたように、ふいに、静かに、劇的に訪れる変化が彼にもあるのだろうか。



その「I'll Show You」のビデオを見ていてあらためて思うけれども、作品としては結局はプロデュースワークというか、「見せ方」にほとんどすべてがかかってくる。
終盤の、転がったりスケボーに乗ったり走ったりしているシーンは、特別な事もかっこいいこともほとんど何もしていない。
それをロケーションとカメラの力だけで押し切っている感じ。
そうした音、映像、雰囲気のクールさは、見る人にとっては、主役に据えられたJustin Bieberの印象として残っていく。

同じ景色、同じ行為でも、見せ方、切り取り方で、印象はまるで変わる。
そして人間がモノやコトに感じる価値というものは、実質の合理的な価値というよりは、印象でほとんどすべて決まるのだ。







俺は金沢に行った事はないけれど、同じ金沢でも映像、音、字体などの見せ方で印象は大きく変わる。

今の日本はカネを持っているけれど、そのカネを未来に向けて活かすのならば、文化をつくっていかなければダメだ。
つくるだけでもダメで、発信していかなければダメだ。
なぜダメなのかといえば、単純労働力が低下していくこれからの日本が、世界の中に自分の居場所を見つけようと思うのなら、高付加価値の労働をするしかないからだ。
いいものをつくり、的確に発信し、世界中の人に欲しがらせ、相対的な価値を高く保たなければならない。
そのためには日本にしかない、日本にしかつくれない、日本らしい何かをつくらなくてはならない。
ところが、日本は今でもいったん外国人の目を経由しなければ自分達の姿すらつかめないようだ。
外国人に褒められて初めて際立つ文化ではなく、外国人を立たせて初めて見えてくる街ではなく。
自分の姿を、自分の見せ方で、わかりやすく魅力的に提示する。
人々が、恐れることなく交流し、育っていく事を願う。
自分自身も、日々切磋琢磨するように。


とりあえず、今日は投稿したかったので、ちょいとやっつけでも、えい。


 
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フレキシビリティとディシプリンのあいだ


JUGEMテーマ:日記・一般






久しぶりの投稿になった。
その間、俺は恋をしていた。
今も、している。

簡単な恋ではないから、この間の俺の生活のほぼすべてはそれに捧げられていた。
とても望ましい事だ。
人生で本当に欲しいものが一つ見つかり、それに集中してすべてを注ぐ事。

しかし恋とは不思議なもので、それに全霊を注ぐ事が、必ずしも望ましい事だとは限らない。
あまりにも恋がすべてだと、その恋はやがて遊びを失くして息をするのが苦しくなる。
相手との関係を何よりも大切にするために、相手との関係以外の活動にも従事する必要がでてくる。



俺たちの世代を代表する歌手の一人に、Adeleがいる。
2011年に最も売れたアルバムを、彼女は作った。
そのアルバムで最も有名な曲は『Someone Like You』で、失恋の痛みを歌ったものだ。
『21』というアルバム自体、そういった内容の作品だと言ってもいいだろう。
その曲とアルバムがスマッシュヒットを記録し始めた当初、俺は彼女のどこにそれほどまで売れる魅力があるのか理解できなかった。
Lady Gaga、LMFAO、Pitbull、Flo Ridaなどのダンスパーティミュージックがチャートを席巻していた当時、1位に君臨し続けるAdeleの歌は地味で埋もれて思えた。
しかし2011年の暮れに失恋した俺は、その曲、そのアルバムをよく聞き、共感するようになった。
俺はあとから理解したのだ。
俺らの世代にとっての最大の関心事とは、結局のところ恋愛沙汰なのだと。
そしてAdeleの歌は、何の飾りも虚勢もなく、俺たちの世代の恋愛の最も歌ってほしいところを簡単に的確に歌っているのだと。
地球上に散らばる、英語を理解できるあらゆる無数の若者たちが、同じ一つの歌を聞いて、それぞれの個人的な痛みを慰めつつ受け入れているのだと。



俺は今、自分でもにわかに信じるのは難しい事だが、子供が欲しいと思っている。
しかも、ぜひ欲しいと思っている。
信じるのがどれほど難しい事だとしても、それは俺にとって自然な感情だから、受け入れるのはとても簡単だ。
そして結婚したいとも思っている。
それが、ある程度愚かな事だろう、とわかっていても、だ。
結局、今の社会体制の中で子供を育てるとなれば、核家族を基本に考えるしかない。
しかもその上、俺は今その結婚の体系に甘い魅力を感じるほどに、恋に落ちているから。
子育てや、個人の人生に降りかかるあらゆる難題や重みが、俺たち二人にすべて押し付けられる事がわかっていても。
俺はぜひそれらの重苦しい出来事を、ある特定の女性と一緒に受け止めてみたいと、希望と喜びすら見出しながら感じている。


この人生の形態もまた、世界中のあらゆる同世代に共通しているのだ。
そしてそこに現れる絶望や難しさについても、EminemやColdplayや宇多田ヒカルを始めとしてあらゆるアーティストが歌っている。
Bruce Springsteenも歌っている。

Adeleの新作ビデオもまた、俺たちの世代のあらゆる若者がまさに今直面している難題を描いている。
核家族という形態を押し付けられる俺たちは、たった一人の人間と毎日顔をつき合わせ、ほとんど選択の余地なく共に暮らす事を強いられる。
別に結婚して子育てをするまでもなく、恋人という関係のほとんどは、現代において核家族の形態の摸写でありリハーサルになっている。
そして素直で真摯な俺たちは、全身全霊を込めて誠実に、その困難な課題に取り組もうとするのだ。
なぜなのか。
理由ははっきりしている。
Adeleが疑いようもなく知っているように、別れほど心と体を引き裂くものはないからだ。
もう決して大切な人を失いたくないから、全身全霊で誠実に相手と向き合おうとするのだ。
それは人生に対しての精一杯の誠実な態度であり、人と人の非常に美しい関わり方だと俺は思う。


さて、以上のことから、我々の世代がこの非常に困難な課題に取り組まなければならなくなる理由はどこにあるのか。
結局、柔軟性と規律のバランスなのだと思う。
閉じ込められて孤立した人生の重みに苦しむ事もなく、かといってふしだらに無責任で無秩序な生活を送る事もなく。
確かに、子供を生み、育てる事は決して簡単でもお気軽でもないから、誰かがその責任を負わなければならない。
しかし一方で、もっとも好きな異性と二人きりでその責任のすべてを負わなければならないというのも、残酷な事だ。
失いたくないという愛がいつしか牢獄に、大切に扱いたいという誠実さがいつしか重圧に、相手への期待がいつしか憎しみに、未来への希望がいつしか挫折に変わっていきかねない。
美しい愛が地獄に変わっていくのを、俺は見たくない。
子供を育てる義務と同じぐらい、親の楽しむ自由や権利が尊重され、実現可能となる世の中であって欲しい。
それでこそ、好きな人と子供を生み、育てる事は素晴らしい事なのだと、胸を張って言える。
それでこそ子供に対して、あなたが生まれたというのは素晴らしい出来事で、あなたが生まれてきたこの世の中は素晴らしいところなのだと、胸を張って言える。

どうか、国家が国民の現在と未来を守り、つくっていく存在なのだと言うのなら、俺たちのこの世代が今悩み、これからつくっていこうとするそうした社会の手助けをして欲しいと思う。
それをしようとしている俺たちほど、お国のために貢献するだろう存在もそうはいないだろうから。

 
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