This Is The One! - innocent -

俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。





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白石一文 『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』

JUGEMテーマ:読書

 
まるで何かから逃げるかのように本を読んでおります。
しかし、読書自体はとても充実している。


今日、H.I.S.に行ってみたら、成田からオークランドの狙っていた航空券(しめて¥63440ナリ)が、売り切れてとれなかった。
次に安いチケットはというと、しめて¥115140ナリということで、5万円も高くなる。
5万円かぁーーーー
イヤなところを突いてくる。
3万円なら買ってもいいかなって思えるし、10万円ならあきらめようかなって思える。

円高っていうけど、円が上がっていることは間違いないけど、それ以上にドルが下がっているだけ、という気もする。
ニュージーランドドルに対して、米ドルと対したときほど円が強くなっているわけではない。
それに、俺が以前ニューヨークに行ったときはサーチャージ代がタダだったもんなぁ。
あのときは恵まれてたんだなぁ。

全部合わせたら、おおよそ20万円ってとこかなぁ。
20万円かぁーーーー


8月、短期のバイトを10日ちょっとすれば、10万円ぐらいは稼げるんだろうけど、どうなんでしょう。
ここで貯金を使い切ってしまうと、おそらく就活で必要になってくるであろう経費がまかなえない。
しかしまぁそういう理由で、本当に望む何かをあきらめるなんてことは、俺の場合はありえないので心配ないんだけど。
本当にやりたいことだけをやる、それ以外はなるべくやらない、ってのが俺の今の人生観だからね。

ただ、一方で、それにこだわるあまりに無理をするっていうのも禁物だと思ってる。
無理をすると、必ずどこかに副作用が出る。
ましてや、今の俺には大切なものがすであるのだから。

慎重に、自分の心と相談しながら、俺の行動によってこの世に現れるかすかな兆しに感覚をとがらせながら。
そうまでして慎重にやっていても、慈悲もなく何もかもが裏切る瞬間はありうるものだと知っているけど。
それでも、人間にできることがあれば、耳をすますことを怠りたくはない。
こんな怠惰な生活しといて、よくもこんなに偉そうなことが言えるもんだと、自分でも思える。



白石一文っていう作家も、そんな俺と似たところがあると思う。
本人は本当に心のそこから真摯に誠実に考えてるつもりなんだろうけど、なんか大事なものが抜け落ちてるんじゃないかと疑わせるような。
しかしそれでも、本人としてはそうして精一杯のことをするしかないのだから、それを徹底的に頑張るしかない。
白石一文の、その‘止まらない’感じが俺はとても大好きだ。
自分のことをどれだけ疑っていても、どこかで自分にできることをやるしかないんだと覚悟を決めるしかないときはある。
作品を仕上げる、というのもそんな作業だと思う。


この講談社の100周年書き下ろしシリーズは、けっこう俺も楽しませてもらってる。
そこに白石一文が寄せたコメントがすごい。
「『百年残る小説』――だったら、いまの日本の作家でそういう作品を書くことができるのは、まさしくこの僕であるにちがいない。本気で思ったのです。」

この人は、絶対に本気でこれを言っている。
そういう人なのだ。
どこかがぶっ壊れていようとも、自分はこれで行けるとこまで行くしかない。
その自己肯定の力強さを、俺は魅力的だと思う。
このおかしな装丁も、それに合わせて魅力的だと思う。

この小説が「百年残る小説」かどうかは措くとして、現代という時代をとても反映した小説だというのは間違いないと思う。
別に、格差問題を取りあげているところが、とか、新自由主義への反発が、とか、そういうことではない。
そういう、なんらかの問題と対峙したときの、主人公の態度がとても現代的だと思うのだ。
社会とか、政権とか、制度とか、そういう何かを変えようと大仰に構えるのではなくて、何かを変えるのならまずは自分の生活から、という態度がとても現代的だと思うのだ。
それはとても謙虚だがラディカルで、カッコよくも誰にもほめてももらえない以上、難しいことでもあると思う。
そして、現代の、何かを変えたいという希望を誠実に考えつづける人は、それをやっていると思うのだ。
自分を肯定しながら、変わりつづけることをまったく恐れない。


そしてこの小説で出される結論も、今の俺の生き方ととても近いものだ。
もしかしてこのブログを見ながら俺の変化を追っているという稀有な人がいれば、今の俺の生き方がどのようなエッセンスによって成り立っているかに気づいてもらえるはずだ。
たとえば、真木悠介の『時間の比較社会学』のこととか。
そういう、似たようなエッセンスで成り立っている、この小説の主人公は現代的だと思うのだ。
俺が現代的であるように。



それで、俺はどうするのだろう。

無理をすれば、いろんなことがわりと上手く流れている今の生活を乱してしまうかもしれない。
最も大切なものを、自らの手で叩き壊すことになるかもしれない。

何事も持続することはありえない以上、変化には自ら赴くほうが望ましい態度だ。
それは確かではあるが、赴く方向はこれでいいのか。
それは、俺の望みだと見えているそれは、何かから逃げ出したいという俺の無意識の表出ではあるまいか。
真に抱きしめるべき俺の願いとは、どれだ。



Wish, be there, 流転と調和





ところで、この小説において、不本意に刑務所暮らしを体験したり、知的障害のある息子を抱えることによって、思想や心根の転換をする人が何人かいる。
それまで全然触れていなかったものや、なんとなく受け流していたものに、初めて向き合うことによって、それまでまったく理解できないものだと思っていたものが、違って見える。
そういうことはあるだろう。
たとえば、最近起こったできごとで言えば、震災後の福島原発を見ることによって、それまで原発反対の声明を単なる騒音としか認識していなかったような人たちの中に、その主張に真摯なものが含まれていることに気づいた人もいる、というように。


一方で、それだけでは解決できない問題もある。
アモス・オズが指摘していたのは、パレスチナ問題について、ヨーロッパの人びとはそれを単なる誤解の産物だと思い込んでいる節がある、ということだ。
パレスチナ人とイスラエル人が同じテーブルを囲んでコーヒーを一緒に飲めば解決する、とでも言いたげに。
しかし、パレスチナ人とイスラエル人のあいだにそのような誤解などない、とオズは言う。
パレスチナ問題とは、双方がその問題についてのお互いの主張を完璧に理解したうえで、それでも解決できないような問題なのだ、と。
パレスチナ人にとってその土地がどのような意味を持つか、イスラエル人にとってその土地がどのような意味を持つか、それをお互いに完璧に理解し合った上でも、どちらも相手の権利を全面的に認めることはできない。


そのような問題に立ち会ったとき、我々はどうするだろうか。
そこで求められるものこそ、政治だろうと思う。
生活態度の改善だけでは解決できない問題もあるのだ、と、なんとなく思う。




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木田元 『反哲学入門』

JUGEMテーマ:読書
 

ちょっと前から、もう虚学はいいから実学に走ろうかな、っていう気持ちを抱いてる。
虚学と実学っていう言葉の使い分けはよくわからないけど、哲学とか文学あたりの世界観とか人生観を鍛える学問は虚学で、もうちょっと生活に実用できそうなのが実学かな、っていう適当な使いかたをしてる。


なぜかというと、自分なりの哲学については「ひとまず極めたり!」っていう感慨を抱いたから。
どこにでも通用するような一般概念を確立したつもりなんかは全然なくて、俺にとってだけ使える、俺が生きていくうえでの基礎みたいなものはだいぶ固まってきたかな、と感じたのだ。


そう思ってから、応用経済学とか、今までまったく触れてなかった知識(着物の着付けとか、気象学とか)とかに触れようと思って読書をしようと思った。
そもそも、負担の大きい実習という授業をとったのも、そういった志なのだし。


しかしまぁ、人というものはなかなか変わらないもので、それでもやっぱり文学や哲学の本に手を伸ばしてしまうのね。
だって面白いんだもの。



木田元の『反哲学入門』というこの本も、面白くてあっという間に読んでしまったね。
特に大きくうなずいてしまったのは、プラトンがイデア論を構想した動機に、「なりゆきまかせの政治哲学を否定し、国家(ポリス)は正義の理念を目指して『つくられる』べきものなのだという革命的な政治哲学を主張しようと思」ったからだ、と指摘していたところ。(p.84)
そしてこの「つくる」論理が、哲学、ひいては西洋の思考をいかに強く規定してきたか、ということ。

たとえばルソーの「一般意思」みたいなものにしても、理想状態に向けて世界を作りかえていこうという意志があって、初めて生まれてくる思想のように思える。
その動機、正義感を否定するつもりは全然ない。
この世には、どうしても許せない!、と髪が逆立つほどに逆上する出来事があるものだ。
それを是正するために、理想状態にむけてこの世を変革していかなくては、という志を抱くだろう。
それは、たしかに一つの希望だ。

しかし、そういう態度というのは、ラカンが「支配欲」と呼んだものととても近いものでもあると、俺には思える。
それはとてもロマンティックで熱いものなのだけど、どこかで人間を孤立させていくものであるように思える。

そのようにして、自分がこの世界からどんどん疎外されていく感覚を味わい、そこから抜け出したいと望んだ俺は、「ユゴーとの決別」という詩を書いた。
そして、今はその決断をしてよかったと思っている。
一つのことをするのにも、やり方はたくさんあるからね。


つまり、この本の趣旨にそっていえば、俺は哲学から反哲学へと移行することによって、少しはラクな気持ちになれたんだ。
1960年代の若者たちに対する、根拠のないコンプレックスは消えた。
「熱い」生き方なんか俺は求めない。
求めるまでもなく、俺はすでに熱いんだ。

ニーチェもハイデガーも読んでないけど、俺は今の自分の生き方が、時代に沿ったものだと感じる。
「超自然的(形而上学)な」理想の下に自分を置いて、自分で自分を追い込んでしまうように苦しんでいる人には、たとえばこの本を読んでみてほしいと思う。
これに限らず、求める人にはいくらでも手の届くところに、自分自身を肯定する思想はあふれている。
20世紀後半は、そういう時代だった。
そちらの希望が、俺をゆったりと抱きとめた。
ありがとう。






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真木悠介 『時間の比較社会学』

JUGEMテーマ:読書
 

憧れ、憧憬。
こういうものを、人生のダイナミズムを生み出すものとして、俺は称賛してきた。

追慕、郷愁。
こういうものを、味わい深いものとして、俺は称賛してきた。



この本の中で、著者は『アドルフ』のエレノールへの、すなわちコンスタンのスタール夫人への愛を取り上げて、このように論じた。
それは明確に3つの局面をもつ。

「最初にアドルフはエレノールを恋い、エレノールが獲得されるとその拘束を逃れることを願い、再びエレノールが永久に失われると胸も張り裂ける悔いにとらわれる。

かつてあんなにも未練のあった自由が、今はどんなにか重苦しいことだろう! かつてしばしば私を激昂させたあの束縛のないことが、どんなにか物足りなく思われることだろう!


それはマルセルのアルベルチーヌへの愛の歴史をふくめて、近代的自我にとっての愛のほとんど範型的なパタンだ。
彼らはそれぞれの共同性を、未来であるがぎりにおいて求め、現在であるかぎりにおいて嫌悪し、過去であるかぎりにおいて愛惜する。いずれにせよ彼らは現在を愛していない。」 p.239、240


俺だけじゃないんだよ、バカな男は。
わかるね、俺がどうして、今こんなにも恋を求めているか。
バカは治らないんだよ。
わかるね、俺がどうして、初恋ってやつをこんなに好きか。



近代的自我の、「現在」から疎外されていることを、この本は論ずる。
いや、さらに「時間」から疎外されていることまで。
それは二重の疎外である。
「個体性」の自立は、「共同性」からの疎外をもたらし、それは時間を数量的なものとして認識させる。
「人間性」の自立は、「自然性」からの疎外をもたらし、それは時間を不可逆なものとして認識させる。
(ちなみに、前者の契機をヘレニズムに、後者の契機をヘブライズムに、それぞれ見出している。)

こうして、近代的自我は、「無限」でしかも「返ってこない」時間の前に疎外されているという感覚を受けとるのである。



面白いですね。
50年前に青年だった著者は、今の俺ととても似たようなことを考えた末に、日本の社会学の第一人者というほどまでになったわけです。
近代的自我に悩む青年は、50年程度の時間を隔てながらも、似たような問題意識を抱えています。
人生ってなんやろ、ほんまに。
そんな著者もおじいちゃんとして、まだどっかで生きてるわけです。
何を考えているだろうね。
青年の頃と、何かが変わったのかな。
いろいろあったんだろうな、50年もたてば。









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『女ぎらい -ニッポンのミソジニー-』 上野千鶴子


JUGEMテーマ:読書


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女に生まれて 喜んでくれたのは
菓子屋とドレス屋と女衒と女たらし
嵐あけの如月 壁の割れた産室
生まれ落ちて最初に聞いた声は 落胆の溜息だった
傷つけるための爪だけが
抜けない棘のように光る
天からもらった贈り物が
この爪だけなんて この爪だけなんて

中島みゆき 「やまねこ」より
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前回の記事を「オトコノコな気持ちはどこに位置づければいいんでしょうね」という結びで終えたが、その直後、昨夜から読み始めたこの本は、それを考えるのにうってつけだった。

しっかし、感動的な読書だったなぁ。
おそらく、同じような感動を味わった人は全国にたくさんいて、その中に男性は少なくないんじゃないかと思う。
男だって、押し付けられる性の間で悩んで、それでもその中で「まるごとの自分を肯定したい」と思っているのだ。
氷室冴子が『カラー・パープル』の映画を見て感動したことを書いていたけども、そういう強烈な「憧れ」に向けて必死で手を伸ばすところに、人生の強い感動がある。



まず基礎になる理論は、「ミソジニー」と支えあう「ホモソーシャリティ」と「ホモフォビア」の構造である。
それを平明な日本語で言えばこうなる。

「男と認めあった者たちの連帯(=ホモソーシャリティ)は、男になりそこねた者と女とを排除し(=ホモフォビア)、差別することで成り立っている。ホモソーシャリティが女を差別する(=ミソジニー)だけでなく、境界線の管理とたえまない排除を必要とすることは、男であることがどれほど脆弱な基盤の上に成り立っているかを逆に証明するだろう。」 p.29


俺はずっと下ネタを言うことが得意でなくて、 もしかしたら単にそういうことが下手なのかもしれないけれど、でも下ネタを言うことによって獲得されるあの連帯感みたいなものが好きじゃないのだ。(ウンコとかオシッコとかいう下ネタは平気)
ここ半年ほど、そんなことにこだわるのはやめようと思って、下卑た(と感じる)話題を平気で口にするようにしていた。
そうするとその場が上手くいくことがこんなにも多いのか、いうことには驚いた。

その場の会話は円滑に上手くいく一方で、しかし、そのこととは違う不安が大きくなるのも感じていた。
これを続けていると、女をとてつもなく恐怖するか、とてつもなく見下すかのどちらかになってしまうのではないか、という不安が。
たとえば、男がいかに女に快楽を与えるか(そしてその競争のようなもの)、という会話は、まさしく俺をそのどちらかの方向に導くだろう。
俺はそもそも、自分のそのような性の技術にまったく自信がない。
もしそのような技術に俺が溢れるほどの自信を持っていたとしても、セックスをそのように捉える思考の中では、まさにその技術に対して何がしかの罪悪感を感じてしまうに違いない。
罪悪感を感じないとすれば、もはや女を少しでも尊重しようという思いは無くなっているのだろう。


俺は自分の恋愛が長続きしない理由を「ヤると冷める」という言葉で表現してきた。
この言葉を口にすることによって、聞き手は多くの場合には軽蔑を示し、本当に言いたいことは少しも伝わっていなかっただろう。
しかし、わかってもらおうと言葉を重ねたところで、倒錯しまくって自分でもよくわからなくなっていることを誰かにわかってもらうというのは、あまりにも困難な試みになるということも知っている。
そして同時に、このような投げやりな表現にならずにいられなかった理由は、俺はいつも性の話をするのを恥ずかしく思っていた、ということだ。
この「恥ずかしい」という感情の複雑さを、俺は今まで解くことができなかった。


俺のつたない性体験の話をしよう。
俺がある女の子とセックスをしようとするとき、いつも女の子は俺に身をゆだねる形になったし、俺もそのような方向に導いていた。
「やはり男がリードをとるべきものなのだ。(特に、最初のときぐらいは)」という思い込みのもとに。
このような、男が女に快楽を与え、この帰結として男も満足を得ることができる、という構造に、俺はいつも我慢がならなかった。
「なんで男ばっかり面倒なことを引き受けなきゃならんのだ」ということではない。
むしろ、それ(=「前戯」的なもの)は、俺にとっても喜びであったから、それ自体が嫌なわけではない。
ただ、その暗黙の了解の奥に、すごくいやらしい何かを感じ取ってしまって、とてもムカつくのだ。
俺が抱く夢の中では、俺は女の子を愛したい。
しかし今、現実に自分のやっていることは相手を愛するどころか陵辱しているように感じる。
「俺たちは絶対にだまされている」という感触だけがあって、それが何なのか明確にはわからなかった。
この本はそれに説明を与えてくれた。

「権力に代わって快楽が、究極の男性支配を完成する。だが、『権力に代わってエロスが』ではなく、『権力がエロスのかたちをとって』と解するのが正しい。あるいは裏返しに、『エロスが権力のかたちをとって』と言いかえてもよい。『権力のエロス化』とは、そのような近代のセクシュアリティのあり方をいう。」 p.246

女の子に「かわいいね」などと囁いて、胸をはだけさせる、あるいは下着を脱がせる、その瞬間、「この白痴が!!」と叫んでぶん殴りたい衝動にかられる。
もちろん、思うだけで実際には殴らない。
なにせ、そこまでの過程で、俺の方だって、くだらなくて汚いロールプレイを演じてしまっているのだ。
それに相手がホイホイついてくるからといって、相手のせいにしてぶん殴るのは卑怯だろう。
自分は枠の外に踏み出すのが怖いくせに、相手が枠を壊してくれないと怒るのだ。



結局、俺が見栄っぱりで気が弱いのがいけないのだ。
自分が「パブロフの犬」であることにぼんやりと気付いていながら、そのことと向き合わずにいたのがいけないのだ。
俺はいつだって、みんなが「美人」や「かわいい」と評する女の子が好きだったし、脱がせるためにはお決まりのロールプレイだって凡庸に演じた。
しかも、そんなくだらないロールプレイに応じるような女の子にばかり勃起するのだし、そうじゃない女の子には踏み込んでみたことがないのだ。

だから、俺が性の話をするときに(できないときに)感じる「恥ずかしさ」の根源もここにある。
ある面では、自分がそのようなくだらない性体験しか持たないのが恥ずかしい。
ロールプレイをやってしまう自分が恥ずかしい。
別の面では、「男と認めあった者たちの連帯」の基準で見ても、ちっとも上手くやれてない自分が恥ずかしい。
女の子と素敵なことがしたい、という欲求のもとに俺がとってきた行動は、ミソジニー(女ぎらい)の文脈に沿ったロールプレイだった。
「女の子を愛したい」と思いながらミソジニーをやるのではスムーズに物事がすすむはずはないので、これは上手くいかない。
だから俺は、自分の夢を実現することができず、男の承認ゲームにも乗れず、性に関することには「恥ずかしい」と感じるばかりだったのだ。

つい先日、「ほんまでっかTV」の特別番組で、芸能界復帰を果たしたナイナイ岡村が「結婚したい」という悩みを相談していた。
彼は性のことを「汚い」と感じてしまうそうだ。
それを聞いて、それを告白する岡村の表情を見て、俺は泣きそうになってしまった。
俺もこのままでは、きっと岡村と同じ穴に落ちこむだろう。


俺は、「丸ごとのわたしを肯定」するために、徹底的に自分を変えたい。

「あまりに深く身体に食い入り、他のありようが考えられないために、それを変更することが身体の苦痛や自我の崩壊に至るような嗜癖が、人にはあるものだ。麻薬中毒を考えてみるとよい。麻薬をやめるぐらいなら死んだほうがましだ、と思う人もいるだろう。文化とは集団的な慣習的生活様式のことであり、広義の生活習慣と考えてよい。生活習慣は ―生活習慣病のように― 体型を変え、体質を変える。思考様式を変え、感情の様式まで変えることであろう。」 p.251

ここで言う「文化」とは、二つ前の記事で書いたような「物語」や「道徳」ととても近いものだと考えていいだろう。
俺がどうしてそういうものを勉強するかといえば、自分の人生のため、つまり書中の表現で「まるごとのわたしを肯定」するためなのである。

「仮に自分自身はミソジニーから完全に自由だが、周囲の社会がそうでないから社会変革のために闘うという人がいたら、フェミニズムはもはや『自己解放の思想』ではなく、『社会変革』のツールになるだけだろう。」 p.266


具体的にどうするかというと、まず俺は女の子に徹底的に身をさらすのがいいかもしれない。
比喩的にも適切なので、まずは肉体的な意味でいうと、「ヘタクソ」な俺と“一緒に”性の道を探求できるような相手を見つけたい。
精神的な意味でいうと、肉体のそれと同じように、ひとりよがりじゃない関係を築くこと。
岡村が結婚相手に求めていた「ただ手をつないで一緒に寝てくれる女の人」などいないのだから。
もう自分が誰だかわからなくなるぐらいに、誰かと「出会い」たいのだ。

もちろん、男とてその対象に含まれる。
だからみなさん、俺と「出会って」ください。
従来の文脈ではカッコワルイかもしれないけど、そんな俺と話しましょう。



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Here comes a fireman, here comes a cop
消防隊員がやって来るぜ 警官も来る

Here comes a wrench, here comes a car hop
工員がやって来るぜ ドライヴインの店員も来る

Been going on forever, it ain't ever gonna stop
いつまでもつづいていく 決して止まりはしない

Everybody wants to be the man at the top
男はみんな頂点に立ちたいのさ



Everybody wants to be the man at the top
誰もがトップに立ちたがってる

Everybody wants to be the man at the top
男はみんな頂点に立ちたいのさ

Aim your gun, son, and shoot your shot
銃の狙いを定めるんだ そしてぶっ放せ

Everybody wants to be the man at the top
誰もがトップに立ちたがってる



Rich man, poor man, beggar man, thief
金持ち 貧乏人 乞食 泥棒

Doctor, lawyer, Indian chief
医者 弁護士 インディアンの酋長

One thing in common they all got Everybody wants to be the man at the top
ひとつだけ共通することがある みんなトップに立ちたいのさ



Man at the top says it's lonely up there
そこは孤独だ って 頂点に立つ男は言う

If it is man, I don't care
俺はそんなのかまわないぜ 男だったらな

From the big white house to the parking lot
でかい白い家から 駐車場まで

Everybody wants to be the man at the top
誰もがトップに立ちたがってる



Here comes a banker, here comes a businessman
銀行員がやって来るぜ ビジネスマンも来る

Here comes a kid with a guitar in his hand
ギターを持った子供もやって来るぜ

Dreaming of his record in number-one spot
いつかヤツの歌が一位になることを夢見ながら

Everybody wants to be the man at the top
誰もがトップに立ちたいのさ


Bruce Sprigsteen   "Man at the Top"
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加藤周一 『羊の歌』

JUGEMテーマ:読書
 

読み終えたばかりだけど、青春の、知的生活の、文体の、俺にとって一つの理想形。


当時の東京大学に集まっていた秀才たちの魅力的なこと。
たとえば『レ・ミゼラブル』やジャック・ロンドンの『自伝的小説』(マーティン・イーデン)でも描かれるのだが、俺の理想とする青春には、こういう自然発生的な知的サークルの存在が欠かせない。
俺の大学生活でも、それはずいぶん達成されたと感じているけども、ここで描かれる交流をかいま見てしまうと、自分のオツムの鍛え上げられていないことにがっかりするのである。
現代の東大生ともいくらかの交流をもったことがあるが、さして特別な印象も受けなかった。
時代が変わって、日本から優秀な人々が消え去ったのか、それとも俺の巡り会わせや見る目がいけないのか。

何かを学ぶということ。
そのことが自分に何をもたらしてくれるかを知ることによって初めて、自発的に学ぶことができるのだと思う。
俺がそのことの実感に少しは触れ始めたのが、ここ数ヶ月のことだ。
一方ではもちろん、俺の知性の足りないことが理由なのだけど、ただそういう環境にいたこともないのだ、と言い訳してみたい気持ちもある。
冷静に考えてみれば、たとえば俺が東大を受けようと思い立つことはありえない可能性ではなかった。
しかし東大を受けたいと思う理由をどこにも見つけなかったのであるし、勉強したいと気づくきっかけも持たなかった。
たとえば16歳の俺が、そろそろ女の子にモテることばかりを考えるのにも飽きてきたころ、この一冊の本と出会っていたらどうだろうか。
俺はそもそも、勉強の楽しさに気づくことができただろうか。

そういう詮無いことを考えてしまうのも、自分の19歳から22歳までの生活と折り合いをつけることが、未だにできていないからなのだろう。
あまりにも貴重なその時間を、あまりにも無為に過ごしてしまったこと。
そして18歳のころの俺は、まさか自分だけはそのような浅慮に走ることはありえないと確信していたこと。
そういういろんなことが、まさかこの俺のしでかしたことだとは、未だにおさまりがついていないのだ。

そのことのもっと根本のあるのは、きっと「死」のことがおさまりがついていないことなのだろうと思う。
この『羊の歌』にある、死が生活の端々に姿を見せて、見えるものを張り詰めさせるあの空気。
かつて俺はそれを知っていたが、かつての俺が自分で思っていたよりも、それは俺と一体化していなかったようだ。
この本の著者も、この世界のどこを探しても、そこにはもういない。
あらゆる事実が、俺を落ち着かなくさせる。


「どこで生れて育ったか、つまり、どこから始めたかが、一人の男の国籍をきめる。どこに行き着くかが、ではない。」(p.196)
この一文には深く同感すると同時に、何かこう、感じ入って考え込んでしまいましたね。
自分の中の「日本」とも、俺はおさまりがついていない。
しかしこちらはまぁ、23歳でそこまで綺麗におさまるものでもなかろう、と思うので焦ってはいないが。

俯瞰的に見て、冷静に考えると、今の俺がやるべきことは何だろうか、というのはそんなに迷わせるものではない。
いくらかの選択肢、というか道を見据えて、とりあえず俺のやりたいことと言えば、まぁ語学かなぁ。
英語をもっと磨いて、フランス語をちゃんと学ぼうかな。
できれば日本の古典をちゃんと読めるようになりたいし、中国の古典も読めるようになりたい。
もっと欲を言うと、ラテン語も読めるようになりたい。

さて、俺はそういうことができるのでしょうか。
生まれてこの方、身を入れて勉強するということをまるでしたことのない俺が。
俺は自分のことも、誰かのことも、何も知らないのである。
あらゆる事実が、俺を落ち着かなくさせる。


If you never try you'll never know
Just what you're worth

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