This Is The One! - innocent -俺にとってのお気に入り(The One)を公開していくブログです。最近は目にしたものをどんどん書いていく形になっています。いっぱい書くからみんな読んでね。
|
一定期間更新がないため広告を表示しています
posted by スポンサードリンク |-|-
JUGEMテーマ:読書 まるで何かから逃げるかのように本を読んでおります。 しかし、読書自体はとても充実している。 今日、H.I.S.に行ってみたら、成田からオークランドの狙っていた航空券(しめて¥63440ナリ)が、売り切れてとれなかった。 次に安いチケットはというと、しめて¥115140ナリということで、5万円も高くなる。 5万円かぁーーーー イヤなところを突いてくる。 3万円なら買ってもいいかなって思えるし、10万円ならあきらめようかなって思える。 円高っていうけど、円が上がっていることは間違いないけど、それ以上にドルが下がっているだけ、という気もする。 ニュージーランドドルに対して、米ドルと対したときほど円が強くなっているわけではない。 それに、俺が以前ニューヨークに行ったときはサーチャージ代がタダだったもんなぁ。 あのときは恵まれてたんだなぁ。 全部合わせたら、おおよそ20万円ってとこかなぁ。 20万円かぁーーーー 8月、短期のバイトを10日ちょっとすれば、10万円ぐらいは稼げるんだろうけど、どうなんでしょう。 ここで貯金を使い切ってしまうと、おそらく就活で必要になってくるであろう経費がまかなえない。 しかしまぁそういう理由で、本当に望む何かをあきらめるなんてことは、俺の場合はありえないので心配ないんだけど。 本当にやりたいことだけをやる、それ以外はなるべくやらない、ってのが俺の今の人生観だからね。 ただ、一方で、それにこだわるあまりに無理をするっていうのも禁物だと思ってる。 無理をすると、必ずどこかに副作用が出る。 ましてや、今の俺には大切なものがすであるのだから。 慎重に、自分の心と相談しながら、俺の行動によってこの世に現れるかすかな兆しに感覚をとがらせながら。 そうまでして慎重にやっていても、慈悲もなく何もかもが裏切る瞬間はありうるものだと知っているけど。 それでも、人間にできることがあれば、耳をすますことを怠りたくはない。 こんな怠惰な生活しといて、よくもこんなに偉そうなことが言えるもんだと、自分でも思える。 白石一文っていう作家も、そんな俺と似たところがあると思う。 本人は本当に心のそこから真摯に誠実に考えてるつもりなんだろうけど、なんか大事なものが抜け落ちてるんじゃないかと疑わせるような。 しかしそれでも、本人としてはそうして精一杯のことをするしかないのだから、それを徹底的に頑張るしかない。 白石一文の、その‘止まらない’感じが俺はとても大好きだ。 自分のことをどれだけ疑っていても、どこかで自分にできることをやるしかないんだと覚悟を決めるしかないときはある。 作品を仕上げる、というのもそんな作業だと思う。 この講談社の100周年書き下ろしシリーズは、けっこう俺も楽しませてもらってる。 そこに白石一文が寄せたコメントがすごい。 「『百年残る小説』――だったら、いまの日本の作家でそういう作品を書くことができるのは、まさしくこの僕であるにちがいない。本気で思ったのです。」 この人は、絶対に本気でこれを言っている。 そういう人なのだ。 どこかがぶっ壊れていようとも、自分はこれで行けるとこまで行くしかない。 その自己肯定の力強さを、俺は魅力的だと思う。 このおかしな装丁も、それに合わせて魅力的だと思う。 この小説が「百年残る小説」かどうかは措くとして、現代という時代をとても反映した小説だというのは間違いないと思う。 別に、格差問題を取りあげているところが、とか、新自由主義への反発が、とか、そういうことではない。 そういう、なんらかの問題と対峙したときの、主人公の態度がとても現代的だと思うのだ。 社会とか、政権とか、制度とか、そういう何かを変えようと大仰に構えるのではなくて、何かを変えるのならまずは自分の生活から、という態度がとても現代的だと思うのだ。 それはとても謙虚だがラディカルで、カッコよくも誰にもほめてももらえない以上、難しいことでもあると思う。 そして、現代の、何かを変えたいという希望を誠実に考えつづける人は、それをやっていると思うのだ。 自分を肯定しながら、変わりつづけることをまったく恐れない。 そしてこの小説で出される結論も、今の俺の生き方ととても近いものだ。 もしかしてこのブログを見ながら俺の変化を追っているという稀有な人がいれば、今の俺の生き方がどのようなエッセンスによって成り立っているかに気づいてもらえるはずだ。 たとえば、真木悠介の『時間の比較社会学』のこととか。 そういう、似たようなエッセンスで成り立っている、この小説の主人公は現代的だと思うのだ。 俺が現代的であるように。 それで、俺はどうするのだろう。 無理をすれば、いろんなことがわりと上手く流れている今の生活を乱してしまうかもしれない。 最も大切なものを、自らの手で叩き壊すことになるかもしれない。 何事も持続することはありえない以上、変化には自ら赴くほうが望ましい態度だ。 それは確かではあるが、赴く方向はこれでいいのか。 それは、俺の望みだと見えているそれは、何かから逃げ出したいという俺の無意識の表出ではあるまいか。 真に抱きしめるべき俺の願いとは、どれだ。 Wish, be there, 流転と調和 ところで、この小説において、不本意に刑務所暮らしを体験したり、知的障害のある息子を抱えることによって、思想や心根の転換をする人が何人かいる。 それまで全然触れていなかったものや、なんとなく受け流していたものに、初めて向き合うことによって、それまでまったく理解できないものだと思っていたものが、違って見える。 そういうことはあるだろう。 たとえば、最近起こったできごとで言えば、震災後の福島原発を見ることによって、それまで原発反対の声明を単なる騒音としか認識していなかったような人たちの中に、その主張に真摯なものが含まれていることに気づいた人もいる、というように。 一方で、それだけでは解決できない問題もある。 アモス・オズが指摘していたのは、パレスチナ問題について、ヨーロッパの人びとはそれを単なる誤解の産物だと思い込んでいる節がある、ということだ。 パレスチナ人とイスラエル人が同じテーブルを囲んでコーヒーを一緒に飲めば解決する、とでも言いたげに。 しかし、パレスチナ人とイスラエル人のあいだにそのような誤解などない、とオズは言う。 パレスチナ問題とは、双方がその問題についてのお互いの主張を完璧に理解したうえで、それでも解決できないような問題なのだ、と。 パレスチナ人にとってその土地がどのような意味を持つか、イスラエル人にとってその土地がどのような意味を持つか、それをお互いに完璧に理解し合った上でも、どちらも相手の権利を全面的に認めることはできない。 そのような問題に立ち会ったとき、我々はどうするだろうか。 そこで求められるものこそ、政治だろうと思う。 生活態度の改善だけでは解決できない問題もあるのだ、と、なんとなく思う。
JUGEMテーマ:読書 ちょっと前から、もう虚学はいいから実学に走ろうかな、っていう気持ちを抱いてる。 虚学と実学っていう言葉の使い分けはよくわからないけど、哲学とか文学あたりの世界観とか人生観を鍛える学問は虚学で、もうちょっと生活に実用できそうなのが実学かな、っていう適当な使いかたをしてる。 なぜかというと、自分なりの哲学については「ひとまず極めたり!」っていう感慨を抱いたから。 どこにでも通用するような一般概念を確立したつもりなんかは全然なくて、俺にとってだけ使える、俺が生きていくうえでの基礎みたいなものはだいぶ固まってきたかな、と感じたのだ。 そう思ってから、応用経済学とか、今までまったく触れてなかった知識(着物の着付けとか、気象学とか)とかに触れようと思って読書をしようと思った。 そもそも、負担の大きい実習という授業をとったのも、そういった志なのだし。 しかしまぁ、人というものはなかなか変わらないもので、それでもやっぱり文学や哲学の本に手を伸ばしてしまうのね。 だって面白いんだもの。 木田元の『反哲学入門』というこの本も、面白くてあっという間に読んでしまったね。 特に大きくうなずいてしまったのは、プラトンがイデア論を構想した動機に、「なりゆきまかせの政治哲学を否定し、国家(ポリス)は正義の理念を目指して『つくられる』べきものなのだという革命的な政治哲学を主張しようと思」ったからだ、と指摘していたところ。(p.84) そしてこの「つくる」論理が、哲学、ひいては西洋の思考をいかに強く規定してきたか、ということ。 たとえばルソーの「一般意思」みたいなものにしても、理想状態に向けて世界を作りかえていこうという意志があって、初めて生まれてくる思想のように思える。 その動機、正義感を否定するつもりは全然ない。 この世には、どうしても許せない!、と髪が逆立つほどに逆上する出来事があるものだ。 それを是正するために、理想状態にむけてこの世を変革していかなくては、という志を抱くだろう。 それは、たしかに一つの希望だ。 しかし、そういう態度というのは、ラカンが「支配欲」と呼んだものととても近いものでもあると、俺には思える。 それはとてもロマンティックで熱いものなのだけど、どこかで人間を孤立させていくものであるように思える。 そのようにして、自分がこの世界からどんどん疎外されていく感覚を味わい、そこから抜け出したいと望んだ俺は、「ユゴーとの決別」という詩を書いた。 そして、今はその決断をしてよかったと思っている。 一つのことをするのにも、やり方はたくさんあるからね。 つまり、この本の趣旨にそっていえば、俺は哲学から反哲学へと移行することによって、少しはラクな気持ちになれたんだ。 1960年代の若者たちに対する、根拠のないコンプレックスは消えた。 「熱い」生き方なんか俺は求めない。 求めるまでもなく、俺はすでに熱いんだ。 ニーチェもハイデガーも読んでないけど、俺は今の自分の生き方が、時代に沿ったものだと感じる。 「超自然的(形而上学)な」理想の下に自分を置いて、自分で自分を追い込んでしまうように苦しんでいる人には、たとえばこの本を読んでみてほしいと思う。 これに限らず、求める人にはいくらでも手の届くところに、自分自身を肯定する思想はあふれている。 20世紀後半は、そういう時代だった。 そちらの希望が、俺をゆったりと抱きとめた。 ありがとう。
JUGEMテーマ:読書 憧れ、憧憬。 こういうものを、人生のダイナミズムを生み出すものとして、俺は称賛してきた。 追慕、郷愁。 こういうものを、味わい深いものとして、俺は称賛してきた。 この本の中で、著者は『アドルフ』のエレノールへの、すなわちコンスタンのスタール夫人への愛を取り上げて、このように論じた。 それは明確に3つの局面をもつ。 「最初にアドルフはエレノールを恋い、エレノールが獲得されるとその拘束を逃れることを願い、再びエレノールが永久に失われると胸も張り裂ける悔いにとらわれる。 かつてあんなにも未練のあった自由が、今はどんなにか重苦しいことだろう! かつてしばしば私を激昂させたあの束縛のないことが、どんなにか物足りなく思われることだろう!
JUGEMテーマ:読書
JUGEMテーマ:読書 読み終えたばかりだけど、青春の、知的生活の、文体の、俺にとって一つの理想形。 当時の東京大学に集まっていた秀才たちの魅力的なこと。 たとえば『レ・ミゼラブル』やジャック・ロンドンの『自伝的小説』(マーティン・イーデン)でも描かれるのだが、俺の理想とする青春には、こういう自然発生的な知的サークルの存在が欠かせない。 俺の大学生活でも、それはずいぶん達成されたと感じているけども、ここで描かれる交流をかいま見てしまうと、自分のオツムの鍛え上げられていないことにがっかりするのである。 現代の東大生ともいくらかの交流をもったことがあるが、さして特別な印象も受けなかった。 時代が変わって、日本から優秀な人々が消え去ったのか、それとも俺の巡り会わせや見る目がいけないのか。 何かを学ぶということ。 そのことが自分に何をもたらしてくれるかを知ることによって初めて、自発的に学ぶことができるのだと思う。 俺がそのことの実感に少しは触れ始めたのが、ここ数ヶ月のことだ。 一方ではもちろん、俺の知性の足りないことが理由なのだけど、ただそういう環境にいたこともないのだ、と言い訳してみたい気持ちもある。 冷静に考えてみれば、たとえば俺が東大を受けようと思い立つことはありえない可能性ではなかった。 しかし東大を受けたいと思う理由をどこにも見つけなかったのであるし、勉強したいと気づくきっかけも持たなかった。 たとえば16歳の俺が、そろそろ女の子にモテることばかりを考えるのにも飽きてきたころ、この一冊の本と出会っていたらどうだろうか。 俺はそもそも、勉強の楽しさに気づくことができただろうか。 そういう詮無いことを考えてしまうのも、自分の19歳から22歳までの生活と折り合いをつけることが、未だにできていないからなのだろう。 あまりにも貴重なその時間を、あまりにも無為に過ごしてしまったこと。 そして18歳のころの俺は、まさか自分だけはそのような浅慮に走ることはありえないと確信していたこと。 そういういろんなことが、まさかこの俺のしでかしたことだとは、未だにおさまりがついていないのだ。 そのことのもっと根本のあるのは、きっと「死」のことがおさまりがついていないことなのだろうと思う。 この『羊の歌』にある、死が生活の端々に姿を見せて、見えるものを張り詰めさせるあの空気。 かつて俺はそれを知っていたが、かつての俺が自分で思っていたよりも、それは俺と一体化していなかったようだ。 この本の著者も、この世界のどこを探しても、そこにはもういない。 あらゆる事実が、俺を落ち着かなくさせる。 「どこで生れて育ったか、つまり、どこから始めたかが、一人の男の国籍をきめる。どこに行き着くかが、ではない。」(p.196) この一文には深く同感すると同時に、何かこう、感じ入って考え込んでしまいましたね。 自分の中の「日本」とも、俺はおさまりがついていない。 しかしこちらはまぁ、23歳でそこまで綺麗におさまるものでもなかろう、と思うので焦ってはいないが。 俯瞰的に見て、冷静に考えると、今の俺がやるべきことは何だろうか、というのはそんなに迷わせるものではない。 いくらかの選択肢、というか道を見据えて、とりあえず俺のやりたいことと言えば、まぁ語学かなぁ。 英語をもっと磨いて、フランス語をちゃんと学ぼうかな。 できれば日本の古典をちゃんと読めるようになりたいし、中国の古典も読めるようになりたい。 もっと欲を言うと、ラテン語も読めるようになりたい。 さて、俺はそういうことができるのでしょうか。 生まれてこの方、身を入れて勉強するということをまるでしたことのない俺が。 俺は自分のことも、誰かのことも、何も知らないのである。 あらゆる事実が、俺を落ち着かなくさせる。 If you never try you'll never know Just what you're worth
(C) 2024 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.
|